宋名臣言行錄前集卷十 陳搏

陳搏(号は希夷先生)。字は図南。亳州の人。後周の世宗より「白雲先生」、宋の太宗より「希夷」の号を賜った隠者。華山に隠棲し、長期の眠りで知られる一方、太宗に治世の要諦を説き、河東平定を進言するなど時の朝廷に影響を与えた。易学の象数の学を穆修・种放らに伝え、その系譜は邵雍に至る。

年表(2件)
  • 太平興国の初め宮中に召され、河東征伐を諫めて一旦中止させる
  • 太平興国九年再び来朝して河東平定を進言し、王師が劉継元を捕らえて并州を平定する

出自と経歴

  • 陳搏、号は希夷先生。字は図南。亳州の人。後周の世宗より「白雲先生」の号を、宋の太宗より「希夷」の号を賜った。

華山での隠棲と長期の眠り

  • 陳搏は華山に隠居し、しばしば門を閉ざして独り横たわり、百日以上起きないことがあった。後周の世宗は彼を宮中に召し、部屋を閉ざして試すよう命じたところ、一月余りしてようやく開けると、陳搏は元のように熟睡していたので、世宗は大いに不思議に思った。そこで黄白の術(錬金術)について尋ねると、陳搏は「陛下は天下の民を思うべきであり、どうして金を作ることに心を留められましょうか」と答えた。世宗は不機嫌になり、彼を山へ帰らせた。

太宗との対面

  • 太宗が即位すると再び陳搏を召し、宮中に数か月留めて語り合い、中使を遣わして中書まで送らせた。宰相の宋琪らが「先生は元黙の修養の道を得ておられますが、これを人に授けることができますか」と問うと、陳搏は「練養の道は私の知るところではありません。しかし仮に白日に昇天できたとしても、政治に何の益がありましょうか。聖上の龍顔は秀でて異なり、天人の相をお持ちで、古今の治乱の理に通じておられます。まことに道を体した仁聖の主であり、今こそ君臣が徳を合わせて天下を治めるべき時です。勤めて修練を行うことに、これに勝るものはありません」と答えた。宋琪らはこの言葉を表にして奏上し、皇帝は大いに喜んだ。

世の革命への態度

  • 陳搏は経綸の才を負いながら、五代の乱離を経て四方を遊歴したが志を遂げられず、山に入って隠居した。後晋・後漢以後、一つの王朝が革命するたびに眉をひそめて数日を過ごし、人が問うても瞪目したまま答えなかった。ある日、驢馬に乗って華陰の市を遊んでいたとき、宋の太祖が即位したと聞いて驚喜し大笑いした。理由を問われると、また笑って「天下はこれより定まるだろう」と言った。太祖がまだ天子となる前、陳搏はすでにその天日の相を見て、太平の日が来ることを知っていたのである。隠棲の初め、次のような詩を作った。「十年の踪跡は紅塵を走り、首を回らせば青山は夢に入ること頻りなり。紫陌は栄えると雖も睡りに及ばず、朱門は富むと雖も貧しきに如かず。愁いては剣戟の危主を扶くるを聞き、悶えては笙歌の醉人を聒うを見る。旧書を携えて旧隠に帰れば、野花啼鳥も一般の春なり。豈浅からんや丈夫なるかな」。(邵伯温『易學辨惑』)

太宗の詩と賓礼

  • 太宗は陳搏を召して詩を賜り、「曽て前朝に向かいて白雲より出で、後来の消息は杳として聞くこと無し。如今若し肯えて徴召に随わば、総べて三峰を把りて君に先んじて与えん」と詠んだ。先生は華陽巾を被り草履に垂縧の姿で、賓礼をもって謁見し、座を賜った。

河東平定への進言

  • 太平興国の初め、召されて宮中に至り、静室での休息を求めたので、建龍観に館を賜った。門を閉ざして熟睡すること一月余りにしてようやく起きた。皇帝がまさに河東を征伐しようとしていたとき、陳搏はこれを諫めて止めた。太平興国九年、再び来朝すると、初めて河東は取るべきであると進言し、王師(宋軍)が再び挙兵すると果たして劉継元を捕らえ并州を平定した。

堯舜の治についての問答

  • 太宗が陳搏に「堯舜の天下の治め方は、今も実現できるだろうか」と問うと、「堯舜の御世は土の階三尺、茅葺きの屋根も切り揃えぬほど質素でした。その跡を追うことは難しく見えますが、清浄をもって治めることができれば、それが今の堯舜であります」と答えた。

諫めの言葉

  • 召されて都に至った折、士大夫の中には彼の宿所を訪ね、自らを戒めるための善言を聞きたいと願う者があった。陳搏は「気に入った所に久しく恋々としてはならない、志を得た地に再び赴いてはならない」と答え、聞く者はこれを至言とした。

邵雍による伝承

  • 邵雍(康節)はかつて希夷の言葉を誦して「便宜(都合の良いこと)を得た事は、再び行ってはならない。便宜を得た所には、再び行ってはならない」と語り、また「便宜を落とすことこそ便宜を得ることである」とも語った。それゆえ邵雍の詩に「珍重すべし、至人(達人)は嘗て語れり、便宜を落とす処こそ便宜を得るなりと」とあり、これは終身行うべき教えであるとされる。

再召への辞退

  • その後再び召されたとき、陳搏は「九重の仙詔よ、丹鳳に銜えさせて来させることなかれ。一片の野心はすでに白雲に留められてしまった」と述べて辞退した。

易学の伝承系譜

  • 陳搏は『易』を読むことを好み、数学(象数の学)を穆修(伯長)に授け、穆修は李之才(挺之)に、李之才は邵雍(康節、堯夫)に授けた。また象学を种放に授け、种放は廬江の許堅に、許堅は范諤に授けた。この一系統は南方に伝わった。世間ではただ陳搏を神仙術を学び人相・風鑒を善くする者としか見ていないが、それは図南(陳搏)の真の姿を知らない見方である。

附 穆修

  • 穆修、字は伯長。汶陽の人で、後に蔡州に住んだ。図南(陳搏)に師事した。若い頃は豪放で気性は狭く、人と合うことは少なかった。京洛の間を遊歴し、ある人が禁中の壁に彼の詩句を書きつけたことがあった。真宗はこれを見て深く感嘆し、侍臣に「これは誰の詩か」と問い、「穆修です」と答えると、真宗は「これほどの文才がありながら、公卿はなぜ推薦しないのか」と言った。傍らにいた丁謂(晋公)は「この人は行いが文才に及びません」と答え、これによって皇帝は再び問わなかった。これは穆修が丁謂と布衣(無官)の頃からの旧知であったためで、丁謂が夔州の漕運使として赴任する際、まだ仕官していなかった穆修と漢水のほとりで出会い、丁謂は穆修が先に礼をすることを望んだが、穆修はついに一揖もせず立ち去った。丁謂はこれを恨みに思い、そのため皇帝の前で穆修を短所を挙げて評したのである。後に丁謂は珠崖に貶謫され道州へ移された際、穆修は詩を作り「かえって虞舜への謗りは刑政の失によるものであり、四凶(悪臣)がどうして量移(罪の軽減による移配)されぬことがあろうか」と詠んで、両者が不仲であったことを示した。
  • 穆修は進士に及第した後、潁州の文学参軍となり、当時「穆参軍」と呼ばれた。老いてますます貧しくなり、家にあった唐代刊本の韓愈・柳宗元の文集を、親しい者に金を無心して板木を彫らせ数百部を印刷し、京師に持ち込んで相国寺で店を出して売った。その傍らに座っていると、儒生数人が店に来てすぐに手に取って読んだので、穆修はこれを奪い取って怒りの目で見つめ、「先輩がたが一篇を一句も誤らずに読めるなら、一部を差し上げよう」と言った。結局、一年経っても売れなかった。当時、学者たちはちょうど声律(韻文の音律)に凝っており、古文というものをまだ知らなかったが、穆修は初めてこれを唱え、その後、尹洙(師魯)が初めてこれに従って古文を学び、また彼の『春秋』学も伝えた。

附 李之才

  • 李之才、字は挺之。青州の人。倜儻(自由奔放)で群れることを好まなかった。穆修(伯長)に師事し、穆修は性格が厳しく気が短く、少しでも意に沿わないと叱りつけることがあったが、李之才は父や兄に仕えるようにこれに従った。科挙に及第して孟州司戸に任じられた。李之才は性格が坦率で儀礼作法にこだわらなかったため、当時の太守の范雍(忠献公)はこれをやや快く思っていなかった。その後、范雍が節度使となって延安に移鎮する際、郡の役人たちはこぞって国境の外まで見送ったが、李之才はただ近郊で別れを告げただけであった。人々がこれを非難すると、李之才は「情と礼儀は釣り合いが取れてこそ貴い。范公は実のところ私を分かっておられない。それなのに国境を越えて遠く見送るのは、真心のない行いであり、どうして真心のないことをもって范公に仕えられようか」と答えた。まもなく范雍は安陸に左遷され、洛陽を通った際、三城のかつての部下で見舞う者は一人もいなかったが、李之才だけは公文書のついでに訪ねて見舞った。范雍は初めてこれを称え感嘆し、李之才を認めるようになった。
  • また衛州共城の県令であった頃、邵雍(康節)が祖母の喪に服して蘇門山百源のほとりに家を構えていた。李之才は自らその庵を訪れ、「あなたは何を学んでおられるか」と問うと、邵雍は「科挙のための学問をしているだけです」と答えた。李之才が「科挙の外に義理の学というものがあるが、あなたはこれを知っているか」と問うと、邵雍は「知りません、ご教示を願います」と答えた。李之才はさらに「義理の外に物理の学というものがあるが、知っているか」と問い、邵雍は「知りません、ご教示を願います」と答えた。李之才は続けて「物理の外に性命の学というものがあるが、知っているか」と問い、邵雍は「知りません、ご教示を願います」と答えた。ここに至り、邵雍は初めてその学を李之才から伝授されることになった。(邵伯温『易學辨惑』)

附 种放

  • 种放、字は明逸。終南山の豹林谷に隠居し、希夷先生(陳搏)の高名を聞いて訪ねた。希夷はある日「今日は佳い客が来るだろう」と言って庭の掃除をさせた。种放は樵夫のなりで庭に拝礼すると、希夷はこれを招き入れて「あなたは樵夫であろうはずがない。二十年後には必ず高官となり、名は天下に聞こえるだろう」と言った。种放は「私は道義をもって参りましたので、官禄については問うところではありません」と答えると、希夷は「あなたの骨相はまさにそうなるべきものだ。たとえ山林に身を隠しても、結局は安んじられないだろう」と述べた。後に真宗は种放を召して司諫とし、皇帝は自らその手を携えて龍図閣に登り天下の事を論じたが、种放は辞して山へ帰り、諫議大夫を拝し、後に工部侍郎に改められた。
  • これより先、希夷は种放のために先祖代々の墓地を豹林谷のふもとに占ったが、穴(墓穴)の位置を定めきれずにいた。埋葬した後、希夷はこれを見て「土地は確かに良いが、穴の位置がやや低い。代々名将を出すことになるだろう」と語った。种放は妻を娶らず子もなかったが、その甥の种世衡から今に至るまで、代々将帥として名を挙げている。

  • 希夷はかつて种放を戒めて「あなたはいつか明主に出会い、進取を借りずとも足跡は天闕を動かし、名は天下に馳せるだろう。名声とは古今の美しい器であるが、造物主はこれを深く忌む。天地の間に完全な名声というものは無く、あなたの名声が起こる時には必ず何かがそれを損なうだろう。これを戒めなさい」と語った。种放は晩年になると贅を尽くした暮らしをするようになり、豊鎬(長安一帯)に満ちるほどの資産を営み、門人や親戚もその勢いを頼んで強引に土地を併合し、年々収入は増したが、ついに清節を失った。(『玉壺清話』)

  • 种放は処士として召見され、真宗は特別の礼をもって彼を遇し、名声は天下に轟いた。後に暇を賜って終南山に帰ると、皇帝の恩寵を頼んで驕り高ぶるようになった。王嗣宗が長安の知事であったとき、种放が至ると、通判以下の役人がこぞって拝謁したが、种放は軽く頭を垂れて応じるだけであった。王嗣宗は内心これを不満に思った。种放が甥を呼んで拝礼させると、王嗣宗は座ったままこれを受けた。种放は怒って王嗣宗に「先ほど通判以下があなたに拝礼した際、あなたはそれを助け起こしただけであったのに、これは無位無官の者に過ぎないのに」と言うと、王嗣宗は「私は状元及第の身であり、名位は軽くない。なぜ座ったまま拝礼を受けてはいけないのか」と反論した。种放は「あなたは相撲で状元を取ったようなものだ、取り立てて言うほどのことでもない」と言い放った。王嗣宗は怒り、ついに上疏して「种放は実に空疎であり、才識は人に優れるものではなく、専ら巧詐を飾って虚名を盗んでいるにすぎません。陛下が种放を尊び礼遇し高官に抜擢されれば、天下はひそかにこれを笑い、いよいよ軽薄で偽りの風潮を助長することになるでしょう。かつ陛下が魏野をお召しになった際、魏野は門を閉ざして身を避けましたが、种放は陰で権貴と結んで自ら推薦を求めています」と述べ、种放の隠れた不正の数か条を暴いた。皇帝は両者ともに問い質すことはしなかったが、种放への待遇は次第に薄れていった。
  • 种放の別荘は終南山にあり、後進で彼に学ぶ者は非常に多かった。酒を好み、自ら黍を耕して生計を立て、住まいには林泉の美しい景色があり、殊に幽邃であった。真宗はこれを聞いて中使を遣わし画工を伴わせてこれを描かせ、龍図閣を開いて輔臣を召してこれを観覧させ、大いに賞嘆した。その後、甘棠の地に住む魏野の郊居にも幽趣があるとして、皇帝はまた人を遣わしてこれを描かせた。それゆえ魏野には「幽居は帝の画にて看られる」という詩句がある。

附 魏野

  • 処士の魏野、字は仲先。東郊に居を構え草堂を建て、水と竹の趣に富んでいた。琴を弾き詩を作ることを好み、清貧に甘んじる姿は当時よく知られていた。皇帝が汾陰を祀った際に召されたが、病と称して辞退し、王旦(文正公)に詩を贈って「これまでの輔相は皆頻繁に世に出たが、あなたは中書に独り十五年もあった。泰山と汾陰の祭礼をともに済ませたからには、今度こそ赤松子(仙人)に伴って遊ぶがよかろう」と詠んだ。王旦はこれを見て喜びを顔に表し、酒・茶・薬物を贈って答えた。王旦はこの詩を得て感悟し、病を理由にしばしば政柄を辞退するようになり、ついに太尉・玉清昭応宮使に任じられた。(『王文正遺事』)
  • 魏野は寇準に「古来、功名が世を蓋うほどの者で、無事に全うできる者は少ない」と語り、詩を贈って「よろしく天に上って将相の位を辞去し、帰り来て平地に神仙となるがよい」と詠んだ。寇準が後に貶謫されるに及んで、初めて魏野の言葉に従わなかったことを悔いた。(『仁宗政要』)
  • 魏野の子の魏閑もまた仕官せず、嘉祐年間に「清逸処士」の号を賜った。(司馬光『温公集』)

附 林逋

  • 林逋、字は君復。杭州の西湖の孤山に住み、真宗はその名を聞いて「和靖処士」の号を賜り、詔して地方長官に季節ごとに見舞わせた。林逋は絵をよくし詩にも優れ、「草泥に郭索(蟹)が行き、雲木に鉤輈(鳥の鳴き声)が叫ぶ」のような句は士大夫たちに大いに称賛された。また梅花を詠んだ詩に「疎影は横斜し水は清浅、暗香は浮動し月は黄昏」とあり、詩を評する者は、前代に梅を詠んだ者は多いが、これほどの句は無かったと言った。また臨終の際に作った句に「茂陵(漢の武帝の陵)よ、いつの日か遺稿を求めることがあっても、初めから封禅の書(帝王への追従の文)を書かなかったことをむしろ喜ぼう」とあり、とりわけ人々に称誦された。林逋は景祐の初め頃まで存命であり、范仲淹(文正公)もその庵を訪れ、林逋に詩を贈って「巣父・許由が堯舜に仕えることを願わなかったのは、どうして人を後に遺したりしようか」と詠み、また「風俗は君によって厚くなり、文章は老いてなお醇である」とも詠んで、その称賛ぶりはこのようであった。(『青箱雑記』)