宋名臣言行錄前集卷九 王禹偁

出自と経歴

  • 王禹偁、字は元之。済州の人。進士に及第し、太宗・真宗に仕えて知制誥に至った。

幼少期の才

  • 七、八歳にしてすでに文をよくした。畢士安(文簡公)が郡の従事であった頃、彼を見出し、家業を尋ねると麺を挽いて生計を立てているとのことだったので、磨(うす)を題に詩を作らせた。王禹偁は考えずに即答し、「心裏に愁いを存せず、眼下に遅きこそ便ち身を転ずる時なり」と詠んだ。畢士安は大いに奇として、子弟の中に留めて学ばせ、ある日、太守の席上で「鸚鵡能く言えども鳳に似難し」の句が出て誰も対句を付けられなかったとき、畢士安がこれを屏風に書き付けると、王禹偁はその下に「蜘蛛巧みなりと雖も蚕に如かず」と書いた。畢士安は歎息して「経綸の才なり」と言い、衣冠を加えて小友と呼んだ。畢士安が入相する頃には、王禹偁はすでに書命(詔勅の起草)を掌っていた。

太宗の抜擢

  • 王禹偁は文をよくし、太宗はちょうど文士を奨励していたので、その名を聞いて召し、右拾遺・直史館を拝させ緋を賜った。旧例では緋を賜る者には銀帯を給するが、太宗は特に文犀帯を賜った。王禹偁は「端拱箴」を献じて戒めとし、まもなく知制誥となった。太宗はかつて「禹偁の文章は当代随一である」と称した。真宗即位後は召されて翰林学士となり『太宗実録』を修めたが、執政がその内容の軽重を疑い、職を落とされて黄州の知事に左遷された。州境で虎二頭が闘って一頭を食い、冬に雷が鳴り群鶏が夜に鳴く異変があったため、王禹偁は上疏して『洪範』を引いて戒めを陳べ、また自らを弾劾した。皇帝は蘄州への移知を命じ、召還する頃にはすでに卒していた。

諫官としての禦戎十策

  • 諫官であった頃、禦戎十策を上げ、大旨として「外は人に任せ内は徳を修めれば、これを弭(や)めることができる」とし、外は兵勢を合わせて将権を重んじ、小臣が辺事を偵察するのを罷め、間諜を用いてその心を離間させ、保忠・御卿に率いさせて所部で掎角の勢を張らせ、詔を下して辺人を感励し、燕薊の旧疆を取り戻すのは晋の遺民を弔うためであって土地を貪るのではないとした。内は官を省いて経費を節約し、文士を抑えて武夫を激励し、大臣を信用してその謀を用い、虚名を貴ばず無益を戒め、遊惰を禁じて民力を厚くすることを説いた。端拱の年の冬、旱魃があり、王禹偁は上疏して費用の節約と賦役の軽減、刑罰の緩和を請うた。

真宗への五事の上疏

  • 真宗即位に際し、群臣に政事を論じさせる詔があり、王禹偁は五事を上疏した。一に辺防を謹み盟好を通ずること、二に冗兵・冗吏を減らすこと、三に選挙を難しくすること、四に僧尼を淘汰すること、五に大臣を親しみ小人を遠ざけることである。

翰林での進言

  • 王禹偁が翰林にあったとき、真宗は即位したばかりで、暇な日に召して文を論じた。王禹偁は「賢を進め不肖を退け、諫諍の路を開き、それを誥命として四海に施すこと、これこそ万世に利する王者の文である。彫琢した美文などは軽々に較べるに足りない。願わくは小事を棄てて大事に努めることこそ、まことに宗社の福である」と奏上し、皇帝は顧みて「卿は朕を深く愛する者だ」と言った。

黄州左遷と「三黜賦」

  • 黄州の知事に出た際、「三黜賦」を作って志を示した。その終章に「身に屈すとも道に屈せず、たとい百たび謫せられるとも何ぞ虧けん。我はまさに正直を守り仁義を佩びて、身を終うるまでこれを行うべし」と述べた。

自評と誄

  • かつて「私がもし元和の時代に生まれ、李絳・崔羣の間に仕えていたなら、恥じることは無かったろう」と語った。王禹偁が没した際、諫議大夫の戚綸は誄して「上に事えて回邪せず、下に居て諂佞せず、善を見れば己に有るがごとく喜び、悪を憎むこと仇讎のごとし」と述べ、世はこれを知言とした。

蘇軾の画像賛

  • 蘇軾は王禹偁の画像に賛して次のように述べた。伝に「君子あらずば、それ能く国たらんや」とあるが、私はこの言葉を繰り返し読むたび涙し嘆息せぬことがない。漢の汲黯・蕭望之・李固・張昭、唐の魏鄭公(魏徴)・狄仁傑らは皆、身を義に殉じ、招いても来ず、追い払っても去らず、正色して朝に立った。それゆえ禍を未然に消し、危を将に亡びんとするところから救うことができた。もし皆が孫弘・張禹・胡広のような者ばかりであったなら、たとえ千百人いても緩急の際に何を望めようか。それゆえ翰林の王元之公は、雄渾な文章と真っ直ぐな道をもって独り当世に立ち、この六君子に配するに足る人物であった。その時、朝廷は清明で大きな奸慝は無かったが、王禹偁はなお中で容れられず、秋霜夏日のように厳然として狎れ親しみ難かった。三たび退けられて死に至るまで、もし不幸にも多くの邪の間に居て安危の際にあったなら、その振る舞いはきっと世を驚かし俗を絶するものであったろう。取るに足らぬ輩を心破胆裂させたに違いなく、これしきに止まらなかったろう。私は王禹偁の画像を見て、その遺風余烈を想い、鞭を執ってお仕えしたいと願うも叶わず、ついにこの賛を作った。「昔の聖賢は己を知る者の無きことを憂えた。公は太宗に遇い、まことにその時を得た。帝は公を用いんと欲したが、公は少しも節を曲げなかった。三たび黜けられ窮山に死すとも憾みは無い。咸平以来、独り名臣たり。一時の屈は万世の信なり。紛々たる卑しき者たちも公の像を拝む。何をもってこれを占うか、額に汗を浮かべることをもってである。公はこれを浮かべさせることはできても、止めさせることはできない。茫々たる九泉の下、愛惜すれども公を起こすことはできない。」