出自と経歴
- 孫奭、諡は宣公。字は宗古。博平の人。九経科に及第し、太宗・真宗・仁宗に仕えて翰林侍講学士に至った。
尚書「説命」進講
- 国子監直講であったとき、太宗が監に行幸し、『尚書』説命三篇の講義を命じた。孫奭は年若く位も低かったが、音読は詳細で潤いがあり、太宗は称賛し、「天が良弼を商に授けたように、朕には得られぬのか」と嘆じ、これを機に輔臣を励まし、緋の章服を賜った。
天書偽造への諫言
- 永興軍が朱能が天書を得たと上言すると、真宗は自ら拝迎して宮中に入れた。孫奭は河陽の知事であったが上疏して切諫し、「天はそもそも言葉を発しないのに、どうして書があろうか。その書の文言に『得たのはただ朱能からであり、崇め信じるのはただ陛下から聞くのみ』とあるのは、その質朴さがこのようなものである」と述べた。皇帝はこれを咎めなかったが、まもなく朱能は果たして敗れた。
西祀諫言
- 真宗が西方を祀ろうとした際、孫奭は上疏して切諫し、「西祀には十の不可がある」とし、「秦は徭役が多く劉邦・項羽は徒隷の中から起こり、唐は民を恤まず黄巣はその飢饉に乗じて挙兵した。今、陛下が行幸を好み、賦斂をしきりにすれば、天下に劉邦・項羽・黄巣のような者が出ないとどうして分かろうか」と述べた。皇帝は自ら「弁疑論」を作ってこれに答え、また中使を遣わして慰諭した。
経筵での諫諍
- 御前で経を講じるたび、乱君の国の事に及ぶと繰り返し申し述べ、忌憚することなく、これによって規諫した。また五経の中で治道に切実な部分を選んで五十篇とし、『経典徽言』と名付けて奉り、「無逸」の図を描いて座右に置き、勧戒の助けとするよう求めた。
剛直の風
- 孫奭は挙動が方正重厚で、議論には根拠があり、迎合や雷同を好まなかった。真宗が既に封禅を終え群臣がこぞって盛徳を称える中、孫奭ひとり正論を述べて諫争し、毅然として古風があった。
致仕後
- 太子少保として致仕し鄆にいた。ある日宴を催し、仁宗がかつて賜った詩を石に刻んで居宅の壁に置き、客に「白居易の言に『多少の朱門は空宅に鎖され、主人は老いるまで帰らず』とあるが、今、老夫は帰ってきた」と語り、喜びを顔に表した。さらに石延年を顧みて『易』離卦九三の爻辭を諷誦し、「楽しみて憂いを忘れる、小人の志を自得したのだ。歌いて缶を鼓すれば、大耋の嗟きを興さない」と言った。孫奭は醇厚な徳と奥深い学問をもって、禁中で二十余年講義を続け、晩年は勇退して郷里で優游し、終始徳を全うした。近世に比すべき者は少ない。
馮元との比較
- 孫奭は馮章靖公(馮元)と共に大きな学識と重い名望をもって禁中で講義し、朝廷の典礼はすべて二人が討論した。王曾(沂公)はかつて「孫奭(八座)が典故を調べるときは、必ず前代の中正で法にかなった事例に照らして陳べるので、政府はこれを疑いなく奉行できる。馮元(貳卿)は博く求めるが典正を専らとしないので、政府はこれを奉行する際に執奏に煩わされる。これによって二人の優劣が分かれる」と語った。(沂公言行録)