出自と経歴
- 李及、諡は恭惠公。字は幼幾。その先祖は范陽の人で、後に鄭州に移った。進士に及第し、真宗・仁宗に仕えて御史中丞に至った。
曹瑋の後任として秦州へ
- 曹瑋は長く秦州にあり、しばしば上表して交代を求めた。真宗が王旦に「誰が代わりうるか」と問うと、王旦は李及を推薦した。皇帝はただちに李及を秦州の知事とした。人々は皆、李及は謹厚で品行はあるが辺境を守る材ではないと言い、楊億はこの世評を王旦に告げたが王旦は答えなかった。李及が秦州に着任すると、将吏の心にもこれを軽んじる気配があったが、あるとき駐屯の禁軍の兵が白昼に市で婦人の銀の簪を奪う事件があり、役人がこれを捕えて報告した。李及はちょうど書を読んでいたが、犯人を呼んで前に進ませ、簡単に詰問しただけでその者が罪を認めると、書物を読み続けたまま直ちに斬るよう命じ、平然としていた。将吏は皆驚き服し、まもなくその評判は都にまで達した。楊億はこれを聞いて再び王旦に会いこの事を語り、「先に相公が李及を任用されたとき、外廷の議論は皆、李及がその任に堪えないのではと恐れていましたが、今その才器がこれほどとは、相公の人を知る明を信じます」と言った。王旦は笑って「外廷の議論は何と容易いことか。禁軍が辺境を守りながら白昼に市で盗みを働き、主将がこれを斬るのは常のことだ。私が李及を用いた理由はそこにはない。曹瑋が秦州を治めること七年、羌人が畏服し辺境の事は曹瑋がすでにその処置を尽くしている。他の者を遣わせば、必ずその聡明さを誇って多くを変更し、曹瑋の成果を壊してしまうだろう。私が李及を用いたのは、彼が重厚であり、必ず曹瑋の規模を謹んで守れると考えたからにすぎない」と語った。楊億はこれによって王旦の識見の深さに服した。
杭州での清廉
- 李及が杭州の知事であったとき、しばしば孤山に林逋を訪ね、麓を望むと供の者を退け、徒歩でその庵に入った。ある日、雪の降る中を郊外に出たので、人々はきっと酒宴を設けて客を招くのだろうと思ったが、李及はただ独り林逋を訪ね、清談して日暮れに帰った。林逋が死ぬと、李及は喪服をつけて哭泣し墓まで見送った。呉の人々はこの風俗の薄さを恥じたという。(晁以道集)
蔡襄・張詠の評
- 蔡襄(君謨)はかつて小さな呉牋にこう書いた。「李及が杭州の知事であったとき、白居易の全集一部を購入したことを終身の恨みとした。この清節は世の戒めとすべきである。張詠(乖崖)が蜀を鎮めていたとき、遊興の折に士女が周りを取り巻いても、三年の間ついに振り返ることがなかった。この重厚さは、浮薄な者への戒めとすべきである。」