宋名臣言行錄前集卷九 田錫

出自と経歴

  • 田錫、字は表聖。嘉州の人。進士に及第し、太宗・真宗に仕えて諫議大夫に至った。

布衣の頃からの志

  • まだ官についていない頃から風化(教化)に志を持ち、上書して郷飲酒礼・籍田礼の復興を求めた。睦州の知事となった際には、着任早々孔子を祀る祠を建てて民に学問を興させ、上表して国子監に紙を納め経籍を印刷することを願い出た。詔により紙は本人に返された。范仲淹(文正公)がその墓誌を撰した。

太宗との皇王の道問答

  • 太宗がかつて侍臣と帝王の道を論じた際、田錫は「皇王の道は微妙で広大です。今、太原を平定してから既に二年、まだ軍功に対する恩賞を行っていません。郊祀の機会に功に報い、交州の戍兵を罷免して、辺境の瘴癘の地で民を死なせることを免れさせたく存じます」と奏上し、太宗はこれを嘉納した。

趙普への直言

  • 趙普が国政を執っていたとき、田錫は彼に謁見して「公は元勲として国政を執っておられるので、事は簡素であるべきです。今、群臣の上奏がまず中書を経ることは王を尊ぶ体ではなく、諫官の上疏を閤門に届け出させることは台諫の権威を弱めています」と述べた。趙普は過ちを認めて容を正し厚く謝し、共にこれらの制度を廃止した。(玉壺清話)

直諫の姿勢

  • 田錫は直諫を好み、太宗はときにこれに耐えかねることがあった。田錫は落ち着いて「陛下は日々月々聖性を養っておられます」と奏上し、太宗はますますこれを重んじた。

軍国の要務と朝廷の大体を論ず

  • 太宗の時、田錫は軍国の要機一件、朝廷の大体四件を上言した。太宗はかつて田錫を「文才と行いがあり、あえて言をなす」と評した。真宗即位後もしばしば召し対して政事を論じ、御覧抄略三百六十巻の作成や、経史の要言を集めた御屏風十巻の編纂を請うて、閲覧の便とした。田錫の死に際し、真宗は劉沆に「田錫は直臣である。なぜ天は彼を早く奪ったのか。朝廷にわずかな欠失があれば、まだ思案しているうちに田錫の上奏はすでに届いていたものだ」と語った。

真宗の評

  • 真宗は田錫を見るときいつも表情が厳粛になり、「朕の汲黯である」と評した。

遺表

  • 田錫が危篤となり遺表を進めたとき、真宗は御医を急派して救わせたが間に合わなかった。まもなく宰相を召し、袖からその表を取り出して示し「朕が即位して以来、この種の上表を読むことは多かったが、宗族への恩沢を祈るか子孫への恩恵を望むものばかりで、田錫のように生死をかけて国家を思い、朕を戒める者はいなかった」と嘆息し、特別な贈典を命じた。

龍図閣にて

  • 皇帝がかつて龍図閣に行幸して書を閲覧した際、東北の隅の書架の一つの漆塗りの箱で、自ら封をしたものを指し、学士の陳堯咨に「これは田錫の上疏である」と語り、しばらく悲嘆にくれた。

蘇軾の評(奏議序)

  • 蘇軾は田錫の奏議に序して次のように述べた。太平興国以来、咸平に至るまでは天下太平と称すべき時代であったのに、田錫の言は常に測り知れない憂いが朝夕に迫っているかのようであった。それは、古の君子は治世を憂い明主を危ぶむものだからである。明主は人に優れた資質を持つゆえに臣下を軽んじがちで、治世には畏れるべき防備が無くなりがちである。優れた資質は臣を軽んじさせ、防備の無さは民を侮らせる。これこそ君子の深く懼れるところである。漢の文帝の代、刑罰は用いられず兵革も試されなかったのに、賈誼は「天下には長太息すべきこと、流涕すべきこと、痛哭すべきことがある」と言った。後世はこれを以て漢の文帝を軽んじることなく、また賈誼を過激とも見なさなかった。これによって見れば、君子が治世に遇い明主に仕えるとき、道理として当然そうあるべきなのである。