宋名臣言行錄前集卷八 王徳用

出自と経歴

王徳用、諡は魯国武恭公。字は元輔。鄭州の人。父の超の任により官を補せられ、仁宗に仕えて位は枢密使に至った。

婦人に扮した計略で盗賊を捕らえる

邢・洺の間を出入りする盗賊が何年も官吏に捕らえられずにいた。王徳用は氈車に勇士を婦人の服装で盛装させて乗せ、賊をおびき寄せた。賊党が争って前に出て奪おうとしたところをすべて捕らえ、これにより名を知られるようになった。

太后の権に屈しない

章献太后が臨朝していたとき、一軍吏を補任する詔が下った。王徳用は「吏を補任するのは軍政である、あえて詔書を持ち出して私の軍に干渉するのか」と言い、急いでこれを取り消すよう請うた。太后は強くこれを与えようとしたが、王徳用は詔を奉じなかったため、結局止まった。太后が崩御した際、有司は衛士に武装して喪に備えさせるよう請うたが、王徳用は「故事に、太后の喪のために武装して備えることはない」として、これも詔を奉じなかった。これによって天子は王徳用が大事を任せられる人物であると認めた。以上欧陽公が撰した神道碑による。

「黒王相公」と呼ばれる威風

王徳用は容貌魁偉で顔色は真っ黒であった。匹夫の下卒や町の子供から、遠く異民族の君長に至るまで皆その名を知っており、知る者も知らぬ者もこれを「黒王相公」と称えた。北の虜(契丹)はしばしばその名を口にして子供を驚かせたほどで、戎狄がこれを畏服することはこのようであった。蘇紳・孔道輔らは「その邸宅は乾岡に位置し、容貌は藝祖(太祖)に似ている」と言ったが、王徳用は「邸宅が乾岡に位置するのは朝廷の賜物、容貌が藝祖に似るのは父母から生まれつきのものです」と奏上した。

敵の間者を寛容に扱う

王徳用が定州にあったとき、契丹が人を遣わして軍を偵察させたことがあった。ある人が「これを捕らえて処刑すべきだ」と勧めたが、王徳用は「我が軍が整然として和が保たれていれば、偵察する者が実情を得て帰ることこそ、戦わずして敵の兵を屈服させることになる」と答えた。

兵法を軽々しく改めぬ姿勢

宝元・慶暦の間、元昊が反乱を起こし河西での戦は久しく功を挙げられなかった。士大夫たちは争って計策を進め、多くの改革案を出したが、王徳用は笑って「なぜこうも紛紛とするのか、兵法とはこのようなものではない。士に畏敬と愛慕の心を持たせ、怯者を勇敢にし、勇者は驕らないようにし、我が方が勝てる状況を見極めて敵に応じて勝つ、それだけのことだ。どうしてこれほど多くの議論が必要か」と語った。

契丹使との対等な交わり

皇祐六年、再び枢密使となった。この年契丹の使者が来朝し、王徳用は使者と共に弓を射た。使者は「天子があなたに枢密を任せ、富公(富弼)を宰相に用いられたのは、まことに人材を得たことです」と語った。この言葉が伝わると皇帝は喜び、王徳用に御弓一張と矢五十本を賜った。王徳用は弓術に優れ、老いてもなお衰えなかった。かつて皇帝の弓射に侍した際「幸いにも大臣の位を得て、その振る舞いは天下に見られております、私は老いて弓矢に耐えられないのではと恐れます」と辞退したが、皇帝は再三これを促した。王徳用は矢二本を手にとり再拝して一発を放つと的中し、そのまま席に戻ろうとしたが、皇帝はなお勉め促した。再び放つとまた命中し、これによって左右は皆歓呼し、皇帝は襲衣(重ね着の礼服)と金帯を賜った。

陣図の弊害を指摘

王徳用が真定を統率していたとき、皇帝は使者を遣わして辺境の事を問うた。王徳用は「咸平・景徳年間、辺兵二十余万がすべて定武に駐屯し、要害の地を分けて扼守できなかったため、虜兵が国境を侵し澶淵の戦にまで至りました。また当時諸将に陣図を賜っていたため、皆この戦法を死守し、緩急の際に互いに救援できず敗北に至りました。どうか陣図を諸将に賜うことをやめ、臨機応変に奇策を出して功を立てられるようにしていただきたい」と述べた。以上王禹玉が撰した墓誌による。

若き韓琦・宋祁への激励

韓忠献(韓琦)・宋景文(宋祁)が共に召されて試験を受け選ばれたとき、王徳用は平章事の礼をもって謝すべきところであったが、二人は自らを「空疎(学識に乏しい)」と謙遜した。王徳用は「私もかつて程文誠を見たことがあるが、若くして空疎であった、なおさら広く学問を問うべきだ」と言った。二人は大いに堪えがたく思い、宋祁は「我らは一人の老衙官(老いた武官)に、無礼な侮りを受けたようなものだ」と言った。後に二人とも大いに名を成したが、王徳用は既に薨去していた。韓琦は宋祁に「王公は武人であったが、なお先輩として後学を激励し成就させる意があった、これを忘れてはならない」と語った。