宋名臣言行錄前集卷六 程琳

出自と経歴

程琳、諡は文簡公。字は天琳。中山の人。服勤詞学科に挙げられ、仁宗の宰相となった。

契丹使への儀礼を守る

程琳が契丹の使者を接待していたとき、使者は「中国の使者が契丹に来れば座席は殿上の高い位置に着くが、契丹の使者が来れば座席は低い、当然位を上げるべきだ」と強く要求した。皇帝と大臣たちは些細な理由として争うに足りないと考え、これを許そうとしたが、程琳は「小さなことを許せば必ず大きなことも許すことになる」と考え、不可としてこれを止めさせた。

大火の冤罪を晴らす

程琳が開封の知事であったとき、禁中で大火があり両宮に延焼した。宦官が獄を取り調べ、縫人(裁縫の職人)の火斗(アイロン)が原因と自白させられ、府に送られてきた。程琳に獄を仕上げるよう命が下ったが、程琳は直ちにそれが誤りであると弁じた。禁中には自由に入れず、そこで工に火の経路を図に描かせたところ、後宮は人が多く住居が狭く、竈が板壁に近く、長年の乾燥で焼けたことが分かった。程琳は「これがどうして一日の火事であろうか」と述べ、これはおそらく天災であり罪人に帰すべきではないと建言した。皇帝はその獄をゆるめ、結局死者は出なかった。以上欧陽公が撰した墓誌による。

忠孝の建言と誤解

章献太后が垂簾聴政していたころ、方仲弓という者が上書して武氏(唐の武后)の故事に倣って劉氏の廟を立てるよう請うた。章献太后はその疏を見て「私はこのようなことをして祖宗に背くつもりはない」と言い、これを引き裂いて地に投げ捨てた。仁宗が側にいて「これもまた忠孝の心から出たものです、表彰すべきです」と言い、方仲弓は開封府司録に任じられた。しかし章献太后が崩御すると罷免されて汀州司馬に貶された。実は程琳もかつて同様の請いをしたことがあったが、人々はこれを知らなかった。ある日皇帝が邇英閣にいて講官に「程琳は心行が正しくない、章献太后の朝にあってかつて劉氏の廟を立てることを請い、さらに七廟の図を献じたことがある」と語った。当時王洙が侍読としてこれを聞いていた。しかし皇帝は性格が寛厚であったため、程琳は結局宰相にまで至った。これは皇帝が積年の怒りを持たなかったためである。