宋名臣言行錄前集卷六 韓億

出自と経歴

韓億、諡は忠献公。字は宗魏。もと真定の人で、後に開封に移った。進士に挙げられて仁宗に仕え、官は参政に至り、太子太傅として致仕した。

貧しき日の友情

韓億が布衣であったとき、李康靖と行動を共にし、一つの氈を共有し同じ床で寝ていた。ある日互いの道が分かれることとなり、氈を割いて分けた。汝州に至ると太守の趙学士が李康靖を門客に招き、とりわけ厚く遇したが、韓億が訪れるたびに趙学士は猪肉を用意させた。李康靖はかつて簡(手紙)に戯れて「久しく肉の味を思っている、兄よ早くお訪ねください」と書いた。趙学士に娘がおり、韓億との縁談が持ち上がった。試験を経て趙学士は人を遣わして娘を送らせ、京城外の旅店に着いたところ、その夜のうちに娘は病で急死した。韓億は素服を整えてこれを哭しに行った。李康靖が長社の官であったとき、毎日壁に百銭を掛け、使い切れば終わりとするほど貧しく倹約していた。以上『荘敏遺事』による。

李若谷との厚誼

韓億は参政の李若谷とまだ及第しない頃、共に貧しく、共に京師で試験を受け、外出のたびに互いに従者を務め合った。李若谷が先に及第し許州長社簿を授かり赴任するとき、自ら妻の乗る驢馬を御し、韓億は一箱を背負って随行した。長社まで三十里のところで李若谷は韓億に「県吏が来るかもしれない」と言い、箱の中の銭六百のうち半分を韓億に分けて別れた。翌年、韓億も及第し、後に二人はともに参政に至り、代々婚姻を結んで縁を絶やさなかった。

建策と辺境への配慮

韓億は裏行(御史台の見習い官)四員を置くよう上奏し言路を広げ、枢密院にあっては武臣を推薦して任用に備え、兵法をまとめて諸将に授けること、広南で土着の兵を募ることなど数事を建議した。景祐年間、唃廝囉が元昊と交戦し、使者が来てその勝利を報告した。執政は夷狄同士の争いを中国の福とみなし、唃廝囉に節度使を加えようと議論したが、韓億は「二族はともに藩臣であり、当然仇を解き恨みを解消させて遠方の民を安んずるべきです。かつて元昊にも姓を賜ったことがあります、今夷狄が互いに攻めているところに褒賞を加えれば、かえってその怒りを激発させ辺境の患いを生むだけで無益です」と述べた。皇帝はこの議を是とし、唃廝囉の使者に厚く賜って帰した。

冤罪を晴らす

韓億が洋州の知事であったとき、大校の李申という者が財をもって郷里で豪勢に振る舞い、兄の子を他姓の子と偽り、里の老婆で容貌の似た者に賄賂を贈って自分の子と認めさせた。またその嫂(兄嫁)を酔わせて他家に嫁がせ、その持参財産をすべて奪った。嫂と甥は州に訴え、さらに提転(転運使)にも訴えたが、李申は獄吏に賄賂を贈り、嫂と甥は逆に鞭打たれ自ら誣服させられ、杖を受けて放免された。それが十数年続いたが、韓億が着任すると再び訴えがあり、韓億はその冤罪を見抜いた。前後の案牘を調べると、いずれも乳母や医師を証人として引用していないことが分かった。ある日、その一党をすべて庭に召し出し、乳母や医師を示すと、皆罪に服した。子と母は元通りに戻った。

范仲淹の推薦を受けて参政となる

范文正(范仲淹)が開封の知事であったとき「百官図」を献上し、宰相の任免が不公平であることを指摘した際、密かに韓億を用いるべきと推薦していた。范仲淹が貶されたとき、仁宗はこれを韓億に告げた。韓億は「もし范仲淹が私を公のために推薦したのであれば、私の拙直さは陛下がご存じの通りです。もし私事のために推薦したのであれば、私は仕官して以来、誰にも取り入ったことはありません」と答え、これにより参政に任じられた。

官吏への寛容

韓億が中書にあったとき、諸路の職司が官吏の小さな過失をあげつらうのを見るたびに不快に思い「天下太平のもと、主上の心は虫魚草木に至るまでその居場所を得させたいと願っておられる。ましてや仕官する者は大にしては公卿を望み、次いでは侍従・職司・二千石を望み、その下でも京朝・幕官を望む。どうして聖世にあってこれを縛り付けてよいものか」と語った。

厳格な家訓

韓億は子を教えるにあたり厳粛で犯すべからざるものがあった。亳州の知事であったとき、次男の舎人(韓子師)が西京から帰省の挨拶に来た。康公(韓億の子か)と右相、および甥の柱史・宗彦がいずれも甲科(進士上位)に及第して帰ってきたので、韓億は喜んで酒宴を設け、親しい僚属を招いた。子らを座の隅に座らせ、宴半ばに突然「二郎(次男の舎人)よ、私は西京に疑獄があり奏讞(上奏して裁決を仰ぐ事件)があったと聞いている、その詳細はどうであったか」と問うた。舎人は考えたが答えられず、韓億は叱りつけて再び問うたが答えられなかった。そこで机を押しやり杖を求めて大いに怒鳴り「そなたは朝廷の厚い禄を食み、一府の副官として、事の大小に関わらず心を尽くして究めるべきである。大辟(死刑)の奏案すら記憶していないとは、細かな職務も果たしていないことが分かる。私は千里の外にいてこの件に何の関わりもないのに、それでも知っている。そなたはこのように禄を叨り、どんな顔で国に報いるつもりか」と激しく責め、まさに打とうとした。多くの賓客が力を尽くして止め、ようやく収まった。子らは股が震え、数日間その恐れが解けなかった。家法の厳格さはこのようであり、それゆえに多くの賢い子孫を得たのである。以上『蘇氏談訓』による。