宋名臣言行錄前集卷七 杜衍
出自と経歴
杜衍、諡は祁国正献公。字は世昌。越州の人。進士甲科に抜擢され、仁宗の宰相となり、太子少師として致仕した。
幼少時の逸話
杜衍が幼いとき、祖父が帽子を脱いで持たせた。折しも山水が急に押し寄せ、家人は皆散り逃げたが、姑(叔母か)が竿を投げ与えてこれに掴まらせた。杜衍は片手で帽子を握ったまま流され、しばらくして救われて助かったが、帽子は最後まで濡れなかった。
精緻な裁判と平易な統治
杜衍は訴訟を聴くにあたり明敏でありながら審査は極めて精緻で、しばしば疑獄を解決したため人々はこれを神のようだと評した。帳簿の出納は毫髪まで分析し、一日中疲れる様子を見せなかった。条目を定める際は必ず吏が姦をなせないようにしたが、民に施す政については簡にして行いやすかった。乾州の知事となって一年に満たぬうちに、安撫使がその治績を見て杜衍を鳳翔府の権知事とした。両郡の民が境界で争い、一方は「これは我らの公である、そなたたちが奪うのか」、他方は「今は我らの公である、そなたたちに何の関わりがあるのか」と言い合った。
課税の負担軽減
夏人が反乱した際、陝西は科斂(臨時課税)に苦しみ、吏はこれに乗じて侵漁し、徴発を督促して民は破産に至り、自ら首をくくったり水に身を投げたりする者が後を絶たなかった。杜衍は永興にあって人々に「私はそなたたちを免れさせることはできないが、労苦を減らすことはできる」と言い、物の有無・貴賤・道里の遠近を計り、期限を緩めて順に輸送させた。これにより物価が急騰することなく、車牛や飼葉、宿食の往来は平時のようになり、吏は手をこまねき何もできなかった。民は他州に比べて費用が十のうち六、七を省くことができた。
吏部の人事の刷新
吏部審官は天下の吏員を掌るが、その職にある者は多くが久しくならぬうちに転出するため、吏が姦をなす余地があった。杜衍が初めて銓事(人事)を視るようになったある日、選任される三人が同じ空席を争った。杜衍が吏に問うと、吏は丙から賄賂を受けていたため「甲と乙で争ってはいけません」と答え、他の空席を授けた。数日後、吏が丙に甲がある事で不当を訴えるよう教えたが、杜衍は悟って乙を呼んで問うと、乙は「私は既に他の空席を得ましたので争いません」と謝った。杜衍はやむを得ず丙に与えたが、笑って「これは吏の罪ではない、私が銓法をまだ知らなかっただけだ」と言った。そこで諸曹に各々格式・科条をまとめて報告させ、「これで全部か」と問うと「全部です」と答えた。翌日、諸吏に堂に上がることを禁じ、座って文書を聴くだけとさせた。これにより吏は銓事に関われなくなり、任免はすべて杜衍から出るようになった。審官にあったとき、賄賂によって官を求める者がいたが、吏はこれを断って「我が公には賢名がある、久しからず登用されるだろう、しばらく待つがよい」と言った。
内降の抑止
慶暦の初め、皇帝は西方の戦が久しく続き民の疲弊が極まったことを厭い、急ぎ富弼・韓琦・范仲淹を用いた。この三人は諸事をことごとく改革し紀綱を修めようとしたが、小人や権幸の者は皆これを喜ばなかった。杜衍だけがこれを補佐し、とりわけ僥倖を厳しく退けた。内降(皇帝直々の恩沢の指示)や恩沢に類することは一切許さず、たまるたびに十数件をまとめて封じ、面と向かって返却した。訴えを退けられた者は恥じ入り涙を流して去ることもあった。皇帝はかつて欧陽修に「外部の者は杜衍が内降を封じ返していることを知っているか。私は禁中にいて恩沢を求める者があれば、たびたび『杜衍が不可という』と告げて止めた例が、実際に封じ返された数より多い。彼は私を大いに助けてくれている。これは外部の者も杜衍自身も知らないことだ」と語った。
軍事上の的確な判断
杜衍は本朝の故実に詳しく、大事を的確に決した。かつて辺将が大挙して夏人を撃つべしと議論した際、韓公(韓琦)ですら可とみなしたが、杜衍だけは不可と争った。大臣の中には杜衍を軍を挫く罪に問おうとする者すらあったが、後に果たして兵は出せなかった。契丹と夏人が銀瓮族をめぐって黄河の外で大戦し、鴈門・麟府がともに警戒態勢となったとき、范文正(范仲淹)が河東を安撫していて兵をもって従おうとしたが、杜衍は「契丹は必ず来ない、兵を妄りに出すべきではない」と述べた。范仲淹は怒って言葉で杜衍を非難したが、杜衍は恨みに思わなかった。後に契丹は結局来なかった。以上欧陽公が撰した墓誌による。
蔡襄の左遷を取り消す
杜衍が宰相であったとき、蔡君謨(蔡襄)の孫の翰が諫官としてしばしば地方に出ることを願い出た。そこで蔡襄を福州、翰を安州に任命することとなったが、杜衍は「諫官が理由なく地方に出るのは終には美事ではない」と述べ、まず旧のままにするよう願い出て、皇帝はこれを許した。退いて聖語を記そうとしたとき、陳恭公が執政としてこれを書き記すことを拒み「私は初めから聞いていない」と言って恐れ、その記録を焼いてしまった。これにより杜衍は宰相を罷めることとなった。世論は「杜衍は翌日を待って詳しく奏上すべきであり、その書を急いで焼いてしまうべきではなかった」とした。杜衍は初め枢密院にあったとき、皇帝はしばしば中書の事を訪ねたが、宰相になってからは中書の事もまた訪ねられなくなった。これをもって「君臣の間で始めから終わりまで全うするのは難しいものだ」と語った。
士君子の心得
杜衍はかつて門生に「凡そ士君子が事を行い自ら身を処すには中道を踏むべきであり、矯飾すべきではない。矯飾が実を過ぎれば偽りに近づく」と語った。
寛容な統治観
また「今の上に立つ者の多くは下位の者の小節を摘発する、これはまことに恕(思いやり)に欠ける」と語った。杜衍が兖州の知事であったとき、州県の官で家族が多く貧しい者には公租から得たものを均しく分け与え、公租が足りなければ公帑(公金)で継ぎ足し、大小に応じて自足させた。それでもなお侵擾を繰り返す者は真の貪吏であり、道義的に責めるべきだとした。また「私は州の知事、提転(転運使)、安撫使を歴任したが、一人も官員を潰したことがない。その間、職に適さない者があれば事を任せて怠る暇を与えず、慎まぬ者には禍福を諭して自ら新たにさせ、これにより善に遷る者は多かった。必ずしも法で縛る必要はない」と語った。また文学・政事に優れた行い、絶えた徳を持つ者があれば、たとえ面識がなくとも力を尽くして朝廷に推薦した。一つの善、一つの長所があれば必ずその能力に応じて推挙した。
門生への処世訓
ある門生が県令になったとき、杜衍はこれを戒めて「そなたの才器は一県令にとどまらぬ器だ。しかしよく才を隠し角を露わにせず、方正すぎる角を丸くして人と合わせ、中庸を求めるのがよい。そうしなければ事に益なく、ただ禍いを招くだけだ」と言った。門生は「あなたは生涯正直と誠実さで天下の重んじるところとなったのに、今なぜこのように私に教えるのですか」と問うと、杜衍は「私は長く官を歴任し、初めは帝王に知られ、次いで朝野に信頼されたからこそ志を伸ばせたのだ。今そなたは県令の身であり、進退栄辱は長吏に握られている。良い二千石(太守)は容易には得難い、もし朝廷に知られていなければどうやって志を伸ばすことができようか、ただ禍いを招くだけだ。だから私はそなたに角を丸くして中庸を求めるよう望むのだ」と答えた。
清廉と沈黙の勧め
杜衍はかつて門生に「官となる第一は清廉と畏れであり、人に知られることを求めてはならない。もし人に知られたいと思えば、同僚のうち慎まぬ者は多く自分を讒言する。上に立つ者もまた明察できなければ、それだけで禍いを招くことになる。ただその間をゆったりと過ごし、黙って行い、心に恥じることがなければよい」と語った。
国事への深い思い
ある日杜衍が憂いの色を見せると、門生が「今日はなぜご不快なのですか」と問うた。杜衍は「たまたま朝報を見て、某事を行い某事を行うことが便宜ではないと知ったので憂えているのだ」と答えた。また別の日には喜びの色を見せ、門生がまだ問わぬうちに杜衍は「今日朝報を見ると、某人が登用され某人が登用された、これは社稷の福である」と語った。杜衍はまた「孔子は『その位に在らざれば、その政を謀らず』と言うが、私は国恩を深く受け、退いてからは家事は何一つ関心を持たないが、国のことだけは忘れられない」と語った。
節倹な暮らし
杜衍は家では麺一つ飯一つを食すだけであった。ある人がその倹約を褒めると、杜衍は「私はもとより一介の措大(貧書生)に過ぎない。名位も服も用いる物も皆国家のものであり、俸禄の余りで貧しい親族を助けている。常に不当な蓄えを恐れているのに、どうして自分に贅沢できようか。もし名位や爵禄を国家に返上する日が来れば、再び一介の措大となる、そのとき何によって自らを養うことができようか」と語った。また門生を戒めて「天下では浙人がとりわけせっかちで動きやすく、柔弱で自立心が乏しい。私は幕府にいたときから監司に至るまで、人々は私を信用しなかったが、三司副使になって幾度も皇帝の前で議論を通し譲らないでいると、人々は初めて信じ、かえって『杜衍がこうも堅固なのは両浙の生まれではないのでは』と言うようになった。彼らの我が郷里への軽視はこのようなものだ。そなたの見識・思慮は高遠で、志は端正堅実だ。将来必ず郷里の誉れとなろう、決して時勢に流されるな」と言った。
悔いを語る
門生がある日静かに杜衍に問うた。「あなたは宰相の位にあること一年にも満たずして地方に出られた、民は皆あなたの恩沢を十分に受けられず、天下は深くあなたを待望しています」。杜衍は「私は才が至らぬまま久しく賢路を妨げてきた、急いで解任されたことは私の心にかなうことだ、ただ一つの悔いがある」と言った。門生が「その悔いとは何ですか」と問うと、杜衍は「私は生涯、某の賢を聞けば某の任にふさわしい、某の才を聞けば某の用にふさわしいと思ってきたが、それをすべて推挙し尽くさぬまま去ることになった、これが悔いである」と答えた。
韓琦との公明な関係
韓公(韓琦)は「杜衍は公心で人と善を楽しみ、その人物を知ってからは疑いを持つことがなかった」と語った。韓琦が枢密副使であったとき、いくつかの事案を議論するにあたり、杜衍は「あなたが見て良しとするなら見なくてもすぐに持ってきて署名するように」と言った。韓琦はますます心を尽くし軽んじることがなかった。これにより杜衍の存心が至公であり、自分から出たことを是とせずとも、人より遥かに優れていることが見て取れる。
質素な接待
杜衍は客をもてなす際、多く漆器を用いた。客の一人が「あなたは宰相となってこれほど清貧なのですか」と面と向かって感嘆すると、杜衍は侍人に命じて白銀の宴会用の器をことごとく取り出させ前に並べさせ「私はこれが不足しているわけではない、ただ雅として好まないだけだ」と言った。しかし杜衍は施しを好む性格であったため、結局蓄えることはなかった。張唐公(張方平)侍読は「あなたの施しを好む性格は人が及ぶところだが、その施しを見せびらかさぬところは人が及ばぬところだ」と評した。
退隠後の質素な暮らし
杜衍が退いて南都に寓居したとき、資産を殖やすことなく、住居は簡素であったが、悠然として暮らした。烏帽子・粗末な絹の袍・革帯という質素な姿でいたので、親戚故旧の中には「居士の服を着てはどうか」と言う者もいたが、杜衍は「老いて職を辞したくらいで、どうして高士の名を騙ってよいものか」と言った。