宋名臣言行錄前集卷六 呂夷簡
出自と経歴
呂夷簡、諡は許国文靖公。字は坦夫。もと莱州の人で、後に寿州に移った。進士に及第し、仁宗の宰相となり、廟庭に配享された。
農具への課税を廃す
河北では五代の末より農具にまで税を課していた。呂夷簡は「王道は農を本とする、これは何ということか」と嘆き、上表してこれを除いた。朝廷はその法を推し広め、これより他路でも農具に課税されなくなった。以上李宗諤が撰した行状による。
王曽に将来を見抜かれる
祥符の末、王沂公(王曽)が知制誥として朝廷での声望が日々重くなっていたころ、ある日中書に至って王文正公(王旦)に会うと、王旦は「あなたは呂夷簡という人物を知っているか」と問うた。王曽が「知りません」と答えると、王旦は「この人物は後日そなたと共に宰相の座を分かつことになる」と言った。王曽が「どうしてそれが分かるのですか」と問うと、王旦は「私もこの人物を知っているわけではない、ただその上奏の内容から分かるのだ」と答えた。王曽が「どのような上奏ですか」と問うと、王旦は「農具に税を課さないことなど数件の事だ」と答えた。後に呂夷簡は果たして王曽と共に宰相となった。
玉清宮の火災と再建の中止
玉清宮が火災にあったとき、章献太后は泣いて「先帝は道を尊び天を奉じてこの宮宇を建てたのに、今にわかに焼け落ちてしまった、どうして遺意に応えられようか」と言った。呂夷簡は太后の意向を知り、また再建しようとしていたが、洪範(書経)の説を推して災異の起こる所以を明らかにし、再建を取りやめるよう請うた。
皇帝の学問を導く
呂夷簡は主上(仁宗)がまだ若年であるゆえ経典の学を導くべきと考え、孫奭らを講席に登用して経義をもって輔導させた。後にはさらに崇政説書・天章閣侍講の職を増設し、皇帝の見聞を広めさせた。
李宸妃の喪礼を厚くする
李宸妃が薨去したとき、章献太后は宮人の礼をもって外で葬儀を行おうとした。呂夷簡は喪礼を厚くすべきと奏上した。章献太后は急いで仁宗を連れて席を立たせ、しばらくして一人で座り呂夷簡を呼んで「一宮人が死んだだけなのに、宰相殿は何を言うのか、あなたに何の関わりがあるのか」と問うた。呂夷簡は「私は宰相の職にあり、事には内外の別なく関わらぬわけにはいきません」と答えた。章献太后は怒って「宰相殿は私たち母子の仲を裂こうとするのか」と言ったが、呂夷簡は静かに「陛下が劉氏(章献太后の一族)のことをお考えでないならば、私は申し上げません。私はなお劉氏のことを思うがゆえに、喪礼は厚くすべきと申しております」と答えた。章献太后は悟って「宮人とは李宸妃のことだ、どうすればよいか」と急に言った。呂夷簡は皇儀殿での喪儀を一品の礼をもって行い、洪福寺に殯するよう請うた。呂夷簡はさらに入内都知の羅崇勲に「宸妃は皇后の服をもって殮い、棺には水銀を満たすように。後日、私が言わなかったなどとは言わせぬ」と告げ、章献太后はすべてこれに従った。後に章献太后が崩御した後、燕王が仁宗に「陛下は実は李宸妃がお生みになった。妃は非業の死を遂げられた」と告げると、仁宗は号泣して身をやつし、数日朝に出なかった。哀痛の詔を下して自らを責め、宸妃を皇太后に追尊して諡を章懿とした。まもなく章献太后の殿舎が終わると、洪福寺に行幸して祭告し梓宮(棺)を開けさせ、皇帝は自ら哭してこれを見た。宸妃の玉のような顔色は生けるがごとく、冠服は皇太后のものであった。水銀を用いたため損なわれていなかったのである。皇帝は嘆息して「人の言葉というものは信じるべきものだ」と言い、これより劉氏(章献太后の一族)への待遇を厚くした。
章懿の喪の真相
章献太后が崩御した後、章懿の喪について疑いを持つ者があり、仁宗は李用和に葬を開かせて確かめた。使者は容貌が生けるがごとくであったと馳せ帰って奏上し、仁宗は章献太后の霊前で香を焚き泣いて「今より大孃孃(章献太后)の生涯は明白になりました」と告げた。
職に留まる理由
呂夷簡が章献太后の朝にあったとき、近臣の多くが言事によって職を去った。ある人が「あなたも退くべきだ」と勧めたが、呂夷簡は「先帝は私を厚く遇し、宗廟の安寧を期して死んでも先帝に恥じないようにと望まれた。だから周勃・陳平は退かず漢を安んじ、狄仁傑は退かず唐を安んじた。私もまた虚名を潔しとして退けば、治乱がどうなるか分からぬ」と答えた。それゆえこつこつと補佐に努め、なすべきことは尽くし、たとえ禍いがまだ形をなしていなくとも、事が起こりそうであれば必ず先んじてこれを防いだ。
荊王の処遇を諫める
太后がかつて荊王を皇太叔に進めようとしたが、呂夷簡は力を尽くして「不可」と争い、これを止めさせた。また荊王の子を宮中で養育し成長しても外に出さなかったことについても、対面の折に「不可」と述べた。太后が「皇帝と共に読書させようと思っているだけだ」と言うと、呂夷簡は「皇帝は今まさに盛年で、自ら儒臣に親しく接して日々典訓を聞くべきです。今童子と共にいることは無益です」と答え、早くその邸に戻すよう求めた。後日太后が「なぜそこまで言うのか」と重ねて問うと、呂夷簡は「前代では母后が幼き者を利用する例が多く、嫌疑を招きかねない際は慎まねばなりません。私は今も中書で沙汰を待っております」と答えた。太后は悟り、すぐにその子を宮から出させた。
内裏火災での毅然たる姿
大内が火災にあい宮室がほとんど焼け尽きた。翌朝、朝臣は皆参内したが日が高くなっても宮門は開かず、皇帝の様子も分からなかった。両府(中書・枢密院)は対面を求めたが返答がなく、しばらくして追班(列を整える)を促す使者が来て、皇帝が拱宸門の楼に上がった。有司が謁見を賛じ、百官は皆楼下で拝礼したが、呂夷簡だけは立ったまま動かなかった。皇帝が人を遣わしてその意を問わせると、呂夷簡は「宮廷に変事があった、群臣は皇帝のお姿を一目拝見したいと願っております」と答えた。皇帝はそのために欄干から身を乗り出して姿を見せ、呂夷簡はそれから拝礼した。
契丹への出兵拒否
契丹が高麗を伐つために兵を借りたいと求め、明粛太后(章献太后)はこれに応じようとしたが、呂夷簡は堅く不可と主張した。太后が「先ほどすでにその使者に少し許してしまった、断れば怨みを生むのではないか、どうすればよいか」と言うと、呂夷簡は「ただ私が承知しなかったとお伝えください」と答えた。まもなく太后はその使者に「本心では応じたくないわけではないが、呂宰相がどうしても不可と言うので」と伝え、使者は何も言わずに去った。
元昊反乱への対処
元昊が反乱を起こしたとき、その官爵を削奪する詔が出され、元昊を生け捕りにする者、あるいは首を斬った者には節度使を与え、さらに銭一万貫を賜うとの募集がなされた。呂夷簡は大名府にあってこれを聞き、驚いて「策を誤っている」と言い、直ちに削るよう上奏して「前代の方鎮が叛くとき、このような誥誓(誓約の文書)はあった。しかし夷狄を防ぐための策ではない。万一元昊が不遜な言葉を発すれば、国体を損なうことにならないか」と述べた。朝廷はまさにこれを改めようとしたが、既に指斥(誹謗)の言葉を聞いた後であった。
治政の要諦を上奏
章献太后が崩御し、仁宗が親政を始めたとき、呂夷簡は手書きの疏を奉り、政治の根本について諷諫した。その内容は、朝綱を正すこと、邪径を塞ぐこと、貨賂を禁ずること、姦壬を弁じること、女謁(後宮の口利き)を絶つこと、近習を遠ざけること、力役を罷めること、冗費を節すること等で、条項は詳細に及んだ。
学校・宗室制度の整備
天下の学校が久しく廃れていたため、呂夷簡は詔を請い、諸州にすべて学校を立てさせた。また国朝の公族が各邸に分散して統一がなかったため、大宗正の設置を請い、睦親宮を建て教授官を置いて諸衛官に授け、庶姓と区別させた。
御史中丞の選任をめぐる公正さ
宝元年間、御史府に久しく御史中丞が欠けていた。ある日李淑が仁宗と対面した際、たまたま憲長(御史中丞)が久しく空席であることを問われ、李淑は「これは呂夷簡が蘇紳を用いようとし、既に蘇紳に約束しているためです」と奏した。皇帝はこれを疑い、後日呂夷簡に「なぜ久しく中丞を任じないのか」と問うた。呂夷簡は「中丞は風憲の長であり、宰相以下すべて彈劾される立場にあります。その選任は聖意によるべきで、私どもがどうして推し量ってよいでしょうか」と奏し、仁宗はこれに頷いた。
遷都議論を退ける
元昊が命に背き契丹が重兵をもって国境に迫っていたとき、皇帝は隙を伺い、議論する者は洛陽に城を築いて遷都する計を請うた。呂夷簡だけは「敵は強者を畏れ弱者を侮る、威をもって制するのがたやすい。洛邑は山川が狭く、強く威を示せなければかえって退縮する」と述べ、大名に都邑を建て、親征するかのように示して敵を伐つ謀とするよう請うた。ある者は「これは虚勢に過ぎない、東都(開封)の城池を増修して契丹の志を挫くべきだ」と言った。呂夷簡は「これは子囊が郢を城で固めた計と同じだ。もし敵が本当に南に向かってくれば城が堅固でも役に立たない」と述べ、結局前の議を通した。まもなく契丹が講和を求めて関南の地の割譲を求め、劉六符らが再び来て桀驁(傲慢)に久しく居座って帰そうとしなかった。呂夷簡は殿外の幕次で敵の使者と会見し、酒を置いて面と向かって議し、これを説き伏せることを請うた。皇帝はこれを是とした。敵の使者は呂夷簡に会って畏れ服し、館伴使に「宰相がこのようであれば、留まっても無益だ」と語り、急いで帰路につき、前の好誼はもとに復した。
范仲淹への寛容
景祐年間、呂夷簡が執政のとき、范文正(范仲淹)は天章閣待制・知開封府として、しばしば呂夷簡の短所を攻撃し、そのために職を落とされて饒州の知事となった。康定元年、旧職に復し永興軍の知事となった。ちょうど呂夷簡が大名から再び宰相に入り、仁宗に「范仲淹は賢者です、朝廷が用いようとするならば、旧職を与えるだけでよいでしょうか」と言い、龍図閣直学士・陝西経略安撫副使に任じた。皇帝はこれを長者の行いとし、天下もまた呂夷簡が旧悪を念わないことを称えた。范仲淹は面と向かって呂夷簡に謝し「かつて公事で宰相を怒らせたのに、思いがけずこのような奨拔を受けました」と言うと、呂夷簡は「私がどうして旧事を念っていようか」と答えた。范仲淹が延州の知事となり元昊に利害を諭す書を送ると、元昊の返書の言葉は極めて悖慢(無礼)であった。范仲淹はその内容を具さに奏上し、その書を焼いて上聞に達しなかった。当時宋庠が参政であった。それまで呂夷簡が執政のとき、諸公は唯々諾々として紙の末尾に署名するだけで、自ら関わろうとしなかったが、宋庠は多くこれと論争した。呂夷簡はこれを喜ばなかった。ある日二人だけが中書にいたとき、呂夷簡は静かに「人臣に外交はない、范希文(范仲淹)は勝手に元昊に書を送り、その返書を得てまた焼いて上奏しなかった、他人にこのようなことが許されるだろうか」と言った。宋庠はこれを聞いて呂夷簡が本当に范仲淹の罪を深く咎めているのだと思った。当時朝廷は范仲淹にその経緯を釈明させたが、范仲淹は「臣は初め虜(元昊)に悔い改める意があると聞いたので、書をもって誘い諭したのです。ちょうど任福が敗れ虜の勢いがますます振るったため、返書は悖慢な内容になったのです。私は、朝廷がこれを見てなお討伐できなければ辱めは朝廷に及ぶと考え、官属の前でこれを焼き、朝廷が初めから知らなかったことにすれば辱めは私一人に留まると考えたのです。それゆえあえて上奏しなかったのです」と奏した。奏文が上がると、両府(中書・枢密院)が共に上申した際、宋庠は急に「范仲淹は斬るべきだ」と言った。当時枢密副使であった杜祁公(杜衍)は「范仲淹の志は忠から出ており、果たして朝廷のために叛虜(元昊)を招こうとしたに過ぎない、どうして深く罪すべきか」と言い、力を尽くして争った。宋庠は呂夷簡が必ず自分に助言してくれるものと思っていたが、呂夷簡は黙して最後まで一言も発しなかった。皇帝が呂夷簡を顧みて「どう思うか」と問うと、呂夷簡は「杜衍の言葉が正しい、軽く責めるだけでよい」と答えた。そこで一官を降して耀州の知事とすることとなった。このとき世論はやかましく騒いだが、宋庠は自分が呂夷簡に売られたことに気づいていなかった。呂夷簡はまもなく揚州の知事に出た。
韓琦・富弼・范仲淹への牽制と評価
呂夷簡は韓琦・富弼・范仲淹の三公を憎み、これを廃そうとしたができなかった。軍が興ったとき、韓琦・范仲淹を西の主将とし、富弼を北への使いに遣わし、名目は用いるように見せながら実は間を裂こうとした。それでもうまくいかず、軍が罷んで老いを願い出て、三公すべてを両府に登用し、宋莒公(宋庠)・夏英公(夏竦)を両府に用いた。これらは皆呂夷簡の仇であった。また呂夷簡は自らの一派である賈文元(賈昌朝)・陳恭公(陳執中)にこれらの間を裂かせ、なおこれを機に三公を失脚させようとした。表面上は范仲淹・富弼をともに王佐の才として太平をもたらしうると称え、天子は再び手詔を賜い、また天章閣を開いてこれを召し、紙筆を出して当時の政治で改革すべき事柄を書き上げさせた。范仲淹・富弼は退いて草案を作り、二人の宦官がかわるがわる督促に赴いた。さらに西北の辺事を管掌させ、まもなく各々十数事を条上した。監司を変え群吏を按じ、磨勘(勤務評定)を減らし任子(子弟の任官)を減らすと、多くの者は不利益をこうむり誹謗が起こった。さらに范公(范仲淹)に日々二事を献ぜよと命じて困らせ、京師に城を築くことを請うに至って人々は初めて笑い出した。もともと呂夷簡は退くたびに主上の意向をうかがい、常にまだ厭かれないうちに去っていたため、三度入朝することができた。老いてもなお西北のことに関わり、大臣を出して三辺を巡らせるよう請い、范公は河東・陝西へ、富公は河北へ遣わされた。
人材登用の慎重さ
仁宗は西戎の勢いが盛んになったことを憂え、人材の乏しさを嘆いて、一芸に秀でた者があれば必ず収録した。杜衍が関中を経略・按撫していたとき、長安の布衣(無官の士)雷簡夫が才器あるとして推薦し、便殿で対面を賜った。雷簡夫は弁が立ち上奏に巧みで、西事の条列を詳しく述べた。皇帝は喜び、中書に詔を下し、真宗が种放を召した故事を検討させた。呂夷簡は「私が見るに、士大夫で口才のある者が必ずしも実効があるとは限りません。今すぐに立派な官爵を与えれば、後日用うるに不十分な点があった際に進退させにくくなります。まずは一官を授けてその能力をゆっくり見極め、果たして用うべきならば後で昇進させても遅くはありません」と申し上げた。皇帝はこれを是とし、耀州の幕官に任じた。雷簡夫は後に累進して員外郎・三司判官に至ったが、その才は実際には大して人に優れたものではなかった。
中書の総例を定める
呂夷簡が中書にあったとき、宋綬に命じて中書の総例を編纂させた。人に「私にこの例があるおかげで、凡庸な者がこれを執っても宰相を務められるようになった」と語った。
病を得ての皇帝の厚遇
呂夷簡が中風にかかったとき、天子は大いに憂え、手ずから詔を書いて司空・平章軍国重事を拝命させ、三日に一度中書に入ることとした。呂夷簡は表を奉って固辞したが、御府から万金の薬が下賜された。皇帝は自ら髭を剪って呂夷簡に賜い、手詔に「古人は『髭は病を癒す』と言った。効くとは限らないが、朕は髭を剪って湯薬に合わせることで我が意を示す」と記した。
薨去への皇帝の哀悼
呂夷簡が鄭で薨去し、訃報が届くと皇帝は震悼し、執政に語る際に呂夷簡のことに及ぶと涙を流し「どこにこのように国を憂え身を忘れて万事を処理し四方を治めた者が、呂夷簡のようにいるだろうか」と言った。
皇帝からの顕彰
皇帝はかつて「方正忠良」の四字を大書して呂夷簡に賜い、また「懐忠之碑」の文を書いて賜った。