宋名臣言行錄前集卷六 陳堯佐

出自と経歴

陳堯佐、諡は文恵公。字は希元。閬州の人。進士に及第し、仁宗の宰相となった。

鰐魚を退治する

潮州の通判であったとき、鰐魚が人を食い近づくことができなかった。陳堯佐はこれを捕えさせ、市で鼓を鳴らし文をもって告げて処刑した。これより鰐の害は止んだ。

飢饉での救済

寿州の知事であったとき、大飢饉に遭った。陳堯佐は自ら米を出して粥にし、飢えた者に食べさせた。吏民は陳堯佐にならって皆競って米を出し、数万人を救った。陳堯佐は「私はこれを私恩と思ってやっているのではない。命令で人を率いるより、自ら先に立って人が喜んで従うようにする方がよいのだ」と語った。

民のための減税

河東転運使であったとき、その地が寒冷で民が貧しいため、石炭税を除き官営の鉄治の課税を年数十万減ずるよう上奏し、民の便を図った。「転運使は利を集める官だが、利には本末がある。下に余裕があれば上も足りる。私はどうして俗吏になれようか」と語った。

黄河決壊の治水

黄河が決壊し滑州を破壊したとき、陳堯佐は自ら風雨にさらされて昼夜督促し、木龍を創案して巨木を並べて水面に浮かべ、その勢いを殺いで堤を完成させた。さらに外側を守る長堤を作り、滑の人々はこの堤を「陳公堤」と呼んだ。

誠信をもって治める

開封の知事であったとき、陳堯佐は「治めることが煩雑な地では、威をもって強者を撃ち、詳察をもって姦を防ぐというやり方は、水を激しく動かしてそれを澄ませようとするようなものだ」と考え、誠信をもって政を行った。毎年正月の夜、灯籠を放つ祭りの折には、悪少年をすべて名簿に記して禁固していたが、陳堯佐はこれを召して「私はお前たちを悪人として扱っているが、お前たちは本当に悪をなす気があるのか」と諭し、すべて放免した。五夜にわたって法を犯す者は一人もいなかった。

知制誥の試験免除

故事として知制誥に任じられる者はまずその文辞を試された。天子は陳堯佐の文学が天下に知られているとして、改めて試験を課さなかった。国朝以来、試験を経ずに知制誥となった者は楊億と陳堯佐の二人のみであった。

昇進を求めぬ姿勢

陳堯佐は官にあって濫りに進取を求めなかった。太常丞であったこと十三年、遷らず、起居郎であったこと七年、遷らなかった。銭塘の堤についての議論で丁謂に退けられ、後に丁謂がますます権勢を振るうようになると、旧知の子弟の中には陳堯佐が久しく地方にあることを心配して進取を勧める者もいたが、陳堯佐は「長くあってこそ私の節操が分かるのだ」と語った。このように十五年を過ごし、当代の天子が即位して丁謂が失脚すると、陳堯佐は召し出されて登用された。

初めての宰相就任時の進言

陳堯佐が初めて宰相になったとき、唐の劉蕡の対策(策問への答え)を進めて「天下の治乱は朝廷から始まり、朝廷の賞罰は近臣から始まります。劉蕡が論じたことはすべて今日の弊害であり、私が申し上げたいことであり、陛下が既に行われていることでもあります」と述べた。天子はこれを嘉納した。以上欧陽公が撰した神道碑による。

呂夷簡の後任として推薦される

呂申公(呂夷簡)がたびたび致仕を願い出たとき、仁宗が「そなたが本当に退けば、誰が代わりになろうか」と問うと、呂夷簡は「陛下が英俊で経綸の才ある人物を用いたいとお考えならば、私には分かりません。もし老成で百事を鎮撫し天下の状況をよく知る者を求められるならば、陳堯佐に及ぶ者はいないでしょう」と答えた。皇帝はこれを深く是とし、大いに拝相させた。

陳氏一族の栄誉

陳堯佐の父・秦国公省華には三人の子があり、長男の堯叟は同中書門下平章事、末子の堯咨は節度使であった。三人とも進士の第一を及第しており、三男が既に貴顕を得ても秦国公はなお存命であった。賓客が訪れるたびに陳堯佐と兄・弟は左右に侍立し、座した客は落ち着かず去りたがったが、秦国公は笑って「これは我が子供らのことだ」と言った。それゆえ天下の人は秦国公の子を教えるさまを模範とし、陳氏を栄誉ある家とした。

母による叱責

陳堯咨は弓矢に精通し自ら「小由基(伝説の弓の名手)」と号した。知制誥から荊南の知事として出て帰ったとき、母の馮氏が「そなたは名藩を治めて、何か特別な政績があったか」と問うた。堯咨は「州は要衝にあり、通りかかる人々が私の巧みな弓射に感嘆しない者はいませんでした」と答えた。母は「そなたの父はそなたに忠孝をもって国家を輔けよと教えた。今仁政善化に努めず、ひたすら卒伍の一芸に専念するとは、そなたの先人の意にかなうことか」と言い、杖でこれを打つと、金魚(官位の印)が地に落ちた。