宋名臣言行錄前集卷五 薛奎

出自と経歴

薛奎、諡は簡粛公。字は宿藝。絳州の人。進士に及第し、仁宗に仕えて官は参政に至った。

馮拯に見込まれる

薛奎が進士のとき、馮魏公(馮拯)に贄をもって謁見した。第一篇に「囊に書を負い自ら負う、早晩明君に達せんと」の句があり、馮拯は巻物を巻いて「秀才は何を負うているのか分からない」と言った。だが第三篇まで読み進むと「春詩」に「千林も喜びあるがごとく、一気自ずから私無し」とあり、馮拯は「秀才が負うところはこのようなものか」と言った。

治政の評判

薛奎は開封にあったとき、厳をもって治め京師を粛清し、京師の民は互いに「これは犯してはならない」と戒め合った。蜀に居たときは恵愛をもって知られた。蜀人は乱を好み動揺しやすかったが、薛奎は無事をもって治め、また姦を破り隠れた悪事を発いて的中しないことがなかったため、蜀人はこれを愛し畏れ、張詠に比しつつも苛烈さがないと評した。

契丹使への対応

契丹の使者・蕭従順が来朝したとき、荘憲明肅太后(劉太后)が垂簾聴政していた。蕭従順は「南朝(宋)の使者は契丹に来れば皆太后に会う」と言い、自らも会見を求めた。朝議はこれに困惑して決めかねたが、薛奎はひとり理を尽くしてこれを断り、蕭従順は取り下げた。

参政任命への感激と剛毅な性格

参政に拝命し謝礼に参内したとき、皇帝は「先帝がかつて『卿は用いるべき人材だ』と言われた、私は今そなたを用いる」と言い、薛奎は感激して自らを励んだ。もとより剛毅で節を守り軽々しく人に合わせず、執政に加わってからはますます確固として動かされず、天下すべてに規矩をあてはめようとした。それがうまくいかないと家に帰って嘆息し憂え、食事も取らなかった。家人はこれを笑って「どうしてそこまでするのか」と言うと、薛奎は「私は古人に及ばぬことを恥じ、後世の譏りを恐れるのだ」と答えた。以上欧陽公が撰した墓誌による。

明鎬を見抜く

明粛太后が袞冕を着て太廟に謁しようとしたとき、諫めの疏がいくつも上がったが、宰臣の考えもこれを止められなかった。薛奎は関右(関中)の人で語気が明快で飾らず、ひとり簾外で「陛下は大謁の日、漢の男子の拝礼をなさるのか、それとも女子の拝礼をなさるのか」と口奏した。明粛太后は答えず、その夜のうちに沙汰は止んだ。薛奎が開封にあったとき、明鎬が府の曹官であったが、薛奎はこれを厚く遇し、公輔(宰相となる器)として期待していた。後に薛奎が秦・益の長官になったときも特に招いて随行させ、優遇は格別であった。ある人が「なぜこの人物が必ず貴顕になると分かるのか」と問うと、薛奎は「その人柄は端正謹厳で、言葉は簡にして理を尽くしている。おおよそ人は簡にして重厚であれば自ずから尊厳が備わる、これは貴臣の相である」と答えた。後に明鎬は果たして参政にまで至った。