宋名臣言行錄前集卷五 魯宗道
出自と経歴
魯宗道、諡は粛簡公。字は貫夫。亳州の人。進士に及第し、官は参政事に至った。真宗・仁宗の代の人物。
仁和酒肆と誠実さ
仁宗が東宮であったとき、魯宗道は諭徳(東宮の侍講)であった。その居所の側に「仁和」という名の酒肆があり京師で評判であった。魯宗道はしばしば服を替えて微行し、その中で酒を飲んだ。ある日真宗が急に召したが使者が門に着いたとき魯宗道は不在で、しばらくして仁和の酒肆から飲んで帰ってきた。中使(使者)は先に急いで戻って報告する前に魯宗道と約束し「陛下がもし遅参を怪しまれたら何を口実にすべきか教えてほしい、食い違いがないように」と言うと、魯宗道は「ありのままに答えよ」と言った。中使が「では罪に問われるのでは」と言うと、魯宗道は「酒を飲むのは人の常情だが、君を欺くのは臣子の大罪だ」と答え、中使は感嘆して去った。真宗は果たして使者に問い、使者は魯宗道の答えの通りに具申した。真宗が「なぜ密かに酒家に入ったのか」と問うと、魯宗道は「私の家は貧しく器皿がなく、酒肆にはあらゆる物が揃っており客も我が家のようにくつろげます。たまたま郷里の親しい客が遠方から来たので一緒に飲みました。ただ服を替えていたので市の者も私と気づいた者はいません」と謝した。真宗は笑って「そなたは宮臣なのだから御史に弾劾されるのではないか」と言ったが、これより魯宗道を忠実で大用に足る人物として奇とした。晩年、真宗はしばしば章献太后に大用すべき臣数人を挙げたが、魯宗道もその一人であった。後に章献太后は皆これを登用した。
直言を貫く姿勢
魯宗道が正言であったとき、事に誤りがあれば風聞をもとに弾劾の疏を上げたので、真宗は次第にこれを厭うようになった。魯宗道はある日自ら皇帝の前で「私は諫官の列にあり、諫めることは臣の職務です。陛下がその数の多さゆえに厭われるならば、諫めを納れる虚名を得ながら私に無為に禄を食ませるだけになりましょう。私はこれを恥じます、どうか罷めさせていただきたい」と述べた。真宗はその忠を喜んで慰め留任させ、後日この言葉を追想して御筆で殿の壁に「魯直」と題した。
章献太后への諫言の数々
章献太后が臨朝したとき、魯宗道はしばしば献策・諫言を行った。太后が「唐の武后はどうか」と問うと、魯宗道は「唐の罪人です。あわや社稷を危うくするところでした」と答え、太后は黙した。ある時「劉氏の七廟を立てるべし」と上言する者があり、太后が輔臣に問うたが誰も答えなかった。魯宗道だけが「不可」と答え、退いて同僚に「もし劉氏の七廟を立てれば、後の皇帝はどうすればよいのか」と語った。皇帝と太后が慈孝寺へ行幸するとき、大安輦の前に皇帝を進ませようとしたが、魯宗道は「婦人には三従の道がある、家では父に従い、嫁いでは夫に従い、夫の没後は子に従う」と言い、太后の輦を後にして進ませた。執政の多くが子弟を任用して館閣で読書させていたが、魯宗道は「館閣は天下の英才を育てる所である、どうして富貴の子弟が恩沢によって入る場であってよいか」と言い、自分の子は幼くとも既に京官に任じていたが、終始国の恩を濫用させなかった。枢密使の曹利用は権を恃んで驕横であったが、魯宗道はしばしば皇帝の前でこれを挫いた。当時権勢を用いる貴戚たちも皆これを憚り、その姓にちなみ「魚頭参政」と呼んだ(骨がしっかりして曲げないさまが魚頭のようだという意味である)。