宋名臣言行錄前集卷五 王曽
出自と経歴
王曽、諡は沂国文正公。字は孝先。青城の人。郷貢から礼部・御前の試験まですべて首席で及第し、仁宗の代の宰相となった。
及第と応答
青州の発解、南省・廷試とすべて首位で及第した。中山の劉子儀(翰林学士)がふざけて「状元は三場の試験を経れば一生食うに困らぬ」と言うと、王曽は色を正して「私の生涯の志は温飽(暖衣飽食)にはない」と答えた。
祥符年間の瑞応への態度
祥符年間、王曽が掖垣(中書省)にあったとき、瑞応(めでたい兆し)が相次いで起きた。皇帝の下問に対し王曽は「これは国家太平の徳によるもので、願わくは推し戴くだけで自らその功に居ようとはしない。将来もし災異があれば世評を免れるであろう」と奏上し、退いてからも執政にこの旨を伝えた。後に飛蝗・旱魃が起きたとき、王曽は急ぎ登用された。
昭応宮建設への諫言
王曽は昭応宮建設について、不都合な点五条を挙げて上疏し諌めた。他にも多くの論事の草稿は自ら削って残さなかったが、この上疏だけは偶然残った。
章献太后臨朝への危惧を諫止
真宗(章聖)の病重き折、劉后(章献太后)が宰相丁謂に働きかけ、太后が臨朝しようとしたため朝野は動揺し、誰も諫言できなかった。王曽は太后の縁戚である銭惟演に「漢の呂后、唐の武氏はいずれも大位に拠るべき者ではなく、その後子孫は誅戮され、身を全うできなかった。あなたは太后の近親、なぜ皇后に『万一のことがあれば太子が即位し太后が輔政するのが劉氏のためになる。もし称制(太后が政をとる)をすれば天下の疑いを招き、劉氏の禍いとなるばかりかあなた自身にも及ぶだろう』と申し上げないのか」と説いた。銭惟演は大いに恐れてこれを皇后に伝え、その議は止んだ。
真宗崩御後の遺制をめぐる争い
真宗が崩御した当初、外にはまだ知らされておらず、中書省・枢密院が共に寝閤に召され、東面に帷を垂れて明粛太后(劉后)が遺命を伝え、皇太子を輔立し皇太后が軍国の大事を権に決断することとなった。退いて発哀した後、王曽は殿廬で遺制の草稿を作った。丁謂は「権」の字を削り、淑妃を皇太妃に加えようとしたが、王曽は「皇帝は幼く太后が臨朝する、これは既に国家の非常の運であり、『権』の字はなお後世に示すに足る。まして言葉はまだ耳に残っているのに、どうして改められようか。また制書の増減には法があり、範を示すべき地位にありながら先んじてこれを乱してよいものか。なぜ立妃の文を新たに載せるのか。礼を尊ぶべきなら事が定まってから議すべきだ」と強く主張した。丁謂は激怒して「参政(王曽)は勝手に遺制を改めようというのか」と言ったが、王曽は「私は今寝殿から来たばかりで、実際にはそのような言葉は聞いていない。もし本当にあったとしても、どうして改められようか」と答えた。他の公卿も同調せず、結局曖昧なまま行われたが、「権」の字はついに削られなかった。これにより丁謂は失脚し、王曽が最初に登用の命を受けた。
太后臨朝の儀式を定める
章献明粛太后が軍国事を権に処分することとなったが、その聴断の儀式が久しく定まらなかった。王曽は当時礼儀院を判じており、蔡邕『独断』が記す東漢の故事を採用し、皇帝は左、母后は右にあって同殿に垂簾し、中書・枢密院が順に奏事する儀とした。これにより人心が定まった。
丁謂失脚の経緯
丁謂が李迪を衡州に追放し、大々的に貶竄を行い、王欽若・丁度らも皆遠方に流された。当時参知政事であった王曽は「処罰が重すぎる」と不満を漏らすと、丁謂はじっと見つめて「居所を共にする者(同僚)も無事では済まぬかもしれぬ」と言った。王曽は恐れをなし、密かに丁謂を除く謀をめぐらせた。内侍の雷允恭は丁謂に力を貸してきた者で、丁謂もこれを深く徳とした。折しも雷允恭は山陵都監、丁謂は山陵使であったが、雷允恭が山陵の穴を勝手に移したため、丁謂はその誤りを知りながら雷允恭に逆らいがたく黙認した。その後穴に石が現れ、石が尽きると水が出た。王曽はこの一件を詳しく調べ、丁謂が陵地を勝手に変えたことに不審な意図があると見て、上奏しようとしたが機会がなかった。そこで同僚に「私には子がないので、弟の子を養子にしたい。明日奏事の後、少し留まってこの件を奏上したい」と告げた。丁謂はこれを疑わなかったが、太后はこれを聞いて大いに驚き、直ちに官を派して糾弾させた。丁謂はこれを知らなかった。丁謂が処罰された後、山陵は結局下の穴に定められた。丁謂の罪は雷允恭を庇おうとしたことにあったが、その邪謀は根深く、位に在ること久しく心中は測りがたかった。王曽が計略でこれを失脚させたことについて、世論はこれを非としなかった。
丁謂の死を評す
王曽が中書にあって丁謂の死を聞き、同僚に「この人は生涯多智で、海外(左遷先)にあってもなお智を用いて帰り得た。もし死ななければ、数年のうちに再び用いられなかったとは限らない。もしこの人が再び用いられれば天下の不幸は言い尽くせぬほどであったろう。私はその死を喜んでいるのではない」と語った。
古聖賢事跡の編纂
天聖の初め、王曽は古の聖賢の事跡を選録し、全六十事を絵にして献上した。皇帝はこれを嘉納し、詔を下して褒め、板に刻んで刷り、近侍に均しく賜わった。さらに禁中の署に命じて毎月二十軸を描かせて進上させた。また名儒を選んで経筵で講じさせるよう建議し、まもなく孫奭・馮元が交代で経筵に侍することとなった。
范仲淹の諫言に応える
魏公(韓琦)が「王曽が政を執っていたとき、門下から人材を一人も顕著に抜擢しなかった」と言った。范希文(范仲淹)は機会をとらえて「士類を明らかに挙用するのは宰相の任である。あなたの盛徳にはこの一点だけが欠けている」と諷諫した。王曽は静かに「司諫(あなた)は考えていないのか。恩が自分から出たとされれば、怨みは誰に帰することになるか」と応えた。范仲淹は呆然として「真の宰相だ」と嘆じた。
恩怨をめぐる持論
王曽はかつて「大臣・執政たる者は恩を自分に帰し怨みを避けるべきではない」と述べ、「恩を自分に帰そうとすれば、怨みは誰が引き受けるのか」と言った。聞く者は感服した。
人材登用の心得
王曽はかつて「私が初めて大政に参与したとき、故王太尉(王旦)が国政を執っており、朝士を登用するたびに必ずまず名声と実力を見た。ある人が『某は才がある、某は賢い』と言えば、王旦は『確かにこの人物は知っているが、まだ官歴が浅い。しばらく声望を養わせ、それが長く揺るがなければ後に登用する。そうすれば栄達の道は坦々として、朝野ともに納得する』と答えたものだ」と語った。王曽は執政の間、この言葉を実践し、人々は心服した。
洛陽での飢民への処置
王曽が洛陽の留守であったとき、凶作にあたり、穀物を蓄える者があった。飢民が徒党を組んでこれを鄰郡から強奪し、強盗として処断され死者が多く出た。王曽はただ重い笞刑に処して釈放するにとどめた。遠近はこれを聞いて範とし、命を全うした者は数千に及んだ。
誠実を尊ぶ持論
王曽はかつて「昔楊文公(楊億)が『人の身の処し方は誠実に勝るものはない』と言った。私は常にこの言葉を敬服している。誠実を守って揺るがなければ、順境も逆境も一貫できる」と語った。
大名での威望
王曽が再び大名の長官となったとき、治政はますます民に信頼された。民や軍の者は皆その画像を掲げて敬った。当時契丹の使者が往来し境に入るたびに「この地に王公がいる」と言い、必ず沐浴潔服して入った。
楊億との交わり
王曽が閤下(中書省の要職)にあること累年、当時楊文公(楊億)は内制(翰林)にあった。楊億は性格が滑稽で嘲弄を好み、同僚は皆その戯れを受けたが、王曽に対しては「第四庁舎人(王曽)にはあえて戯れを申し上げない」と言った。李昌武(翰林学士)はこれに深く感服し、「王舎人(王曽)はまさに親しむこともできず疎んじることもできない人物だ」と評した。以上『言行録』による。
韓琦の評
魏公(韓琦)は「王曽は徳器が深厚で寡言であり、当時その品題を一言二言でも得た者は誰もが栄誉とした」と語った。韓琦が諫官であったとき、上奏文を提出するにあたり「近頃しばしば章疏を見るが、いずれもこの程度で十分である。これまで高若訥のような輩は多くが利を選び、范希文(范仲淹)でさえ名を求める嫌いを免れなかった。ただ国事に純粋な意を尽くすべきだ」と言った。以上『魏公別録』による。
質素な人柄
王曽は孫沖と同榜(同期及第)であった。孫沖の子・孫京がある日辞去しようとすると、王曽は食事をして行くよう引き留め、子弟に「孫京を引き留めて食事をさせる」と命じ、饅頭を用意させた(饅頭は当時のご馳走であった)。食後、箱に数軸の簡紙を入れて贈ったが、開いてみるとすべて他人からの書簡の裏の余白を切り取ったものであった。その倹約な人柄はこのようであった。以上『韓荘敏遺事』による。
胡安国の評
胡文定公(胡安国)は「李文靖(李沆)は澹然として欲がなく、王沂公(王曽)は儼然として動じない。その資質がそもそもこのようであった上に学問で完成させたので、聖賢に八、九割まで達した地位にあった」と評した。