宋名臣言行錄前集卷四 王曙

出自と経歴

  • 王曙、追封は文康公。字は晦叔、河南の人。進士に及第し、さらに賢良方正科にも挙げられ、仁宗の宰相となった。

蜀での厳法統治

  • 益州の知事となった際、王曙は盗賊を軽重問わず一律に処刑し、蜀中は震え上がって数か月のうちに賊は消え、諸郡は門を閉じずに済むほど治まった。先に張詠が蜀を治めた際、春に廩米を市価の三分の一で貧民に売り、十戸を一保として一戸の犯罪を連座させることで賊を防いだ制度があったが、後に建言によりこの法が廃されて窮民が再び盗みに走ったため、王曙は奏してこの旧法を復活させた。

苛法への批判と弁明

  • 王曙の統治は法に厳格すぎるとの批判もあり、劉煜が召し戻されて右正言となった際、真宗が凌策と王曙のどちらの蜀統治が優れているかを問うた。劉煜は「凌策は豊作の年で寛容な治め方ができたが、王曙は凶作で民が盗みに走ることを憂えて法で治めた、立場を入れ替えても同じ結果になったであろう」と答え、真宗はこの見解を良しとした。

薛簡粛との共通の対処

  • 王曙と薛簡粛(薛奎)はともに蜀を治めた経験があり、いずれも名声を得ていた。章献太后の代、二人が共に執政であった時、蜀での経験を語り合い、王曙は「私が蜀にいた時、戍卒が謀反を企てているとの告発があり、直ちに捕らえて営門で斬った、それで何事も起きなかった」と語り、薛奎も「私が蜀にいた時も同様の告発があったが、追い出しただけで何事も起きなかった」と応じたという。

玉清昭応宮の火災と諫言

  • 玉清昭応宮が焼失した際、守衛の者たちが皆投獄された。王曙は上疏し、魯の桓公・僖公の宮廟の火災を孔子が「親のつながりが尽きた廟だから焼けたのだ」と説いた故事、遼東の高廟や高園陵の便殿の火災を董仲舒が「本来あるべき場所でないから災いが起きた」と論じた故事、魏の崇華殿の火災を高堂隆が「天が台榭宮室を戒めたのだ」と説いたにも関わらず文帝が聞き入れず翌年再び焼けた故事を引き、「今建てられた宮殿は経義にかなっておらず、災異はまさに天の警告です、その地を廃し諸々の祈祷を止めて天変に応じるべきです」と説いた。仁宗と太后はこれに感じ入り、守衛者の罪を軽くし、以後宮殿を再建しないことを天下に布告した。

厳格さと友の忠告(洛陽留守として)

  • 謝希深・欧陽永叔(欧陽脩)が洛陽在任中、嵩山に遊んだ帰りに龍門で雪に降られた際、留守の銭文僖公は厨房の膳や歌妓を遣わして労い「山歩きはさぞ疲れたろう、龍門で雪見をしてゆっくりなさい、留守の仕事は簡素で急ぐこともない」と厚遇したという。王曙が銭文僖の後任となると、部下への監督は湿った服を絞るように厳しく、諸公はその圧に堪えかね、頻繁に外出することを咎めては「諸公は自らを萊公(冦凖)になぞらえるつもりか、萊公でさえ奢侈放縦の末に禍を招いて貶死したのだ、まして下位の者はなおさらだ」と戒めた。謝希深以下は誰も答えられなかったが、欧陽永叔だけは笏を手に立ち上がり「萊公の禍は酒盃にあるのではなく、老いてなお退くことを知らなかったことにあります」と切り返した。王曙は当時すでに高齢であったためこの言葉に心を動かされ、後に欧陽永叔を推薦して館職に迎え入れたという。