宋名臣言行錄前集卷三 曹瑋

出自と経歴

  • 曹瑋、追封は武穆公。字は宝臣、武恵王曹彬の子。父の任により補官し、樞密使に至り真宗廟庭に配享された。

涇原・環慶の要図を献上(荊公撰行状)

  • 渭州の知事となった際、涇原・環慶両路の山川・城郭・戦守の要所を図に描いて真宗に献上し、一部は樞密院に、一部は本路に置いて諸将が出兵の際にこの図に基づき戦略を議したという。

父・曹彬の見立てと秦州での厳格な統治

  • 曹彬(曹侍中)が臨終の際、太宗に後事を問われ、二子の璨と瑋のうち瑋の器量が優ると答え、後にその通りとなった。曹瑋は秦州の知事となった際、城壁の遮箭版(矢よけの板)が高すぎるのを見て低くするよう命じたが、係の老吏が「昔からこの高さです」と答えると、曹瑋は怒って「昔からのものを改めてはならぬのか」と斬罪に処した。周囲は老吏の功労を惜しんで助命を諫めたが聞き入れなかったため、軍中は震え上がったという。また辺境で兵士十数人が虜の側へ逃亡した際、報告を受けても曹瑋は囲碁を続け動じず、「私が行かせたのだ、何を騒ぐ」と一喝した。この様子が虜側に伝わると、逆に虜は謀略を疑い逃亡者を皆殺しにしたという。

辺境統治の巧みさ(東莱記事)

  • 辺境の蕃部の不穏な動きは事前にすべて平定しておき、送別の宴を口実に郊外に出兵の合図を隠し、食事の品目を出兵のタイミングの暗号として用いるなど、緻密な統率で捷報を得ていたという。

四十年にわたる不敗の将才

  • 曹瑋は将としておよそ四十年、一度も敗れず、特に西方の統治に功があった。羌が中国人を殺した際に羊馬で贖罪する慣行を「中国の威信を損なう」として禁じ、朝廷に許しを求めた。辺境の廃地を用いた弓箭手の制度を整え、一定の田地に応じて兵一名・馬一名を出させ、馳射の技を競わせて優秀な者には田地を加増するなど、精兵の育成と辺境の実質的な防衛体制を築いた。要害の地には堡塁を築いて塹壕で囲み、馬社(共同で馬を維持する組織)を設け、辺境の濠も深く広く掘らせるなど、後世まで法として受け継がれた。その威名は西方諸族に広く知られ、唃厮囉は曹瑋の名を聞いただけで敬意を表し、契丹の使者も魏の地を通る際は声を潜め足早に通過するほど畏怖したという。

寛容と厳正の使い分け

  • 天雄軍で法を犯した兵士があった際、周囲は死罪必至と思ったが、曹瑋は通常の法で処し、これを疑問視する声に「辺境で敵と対峙する際は軍令違反者を斬るが、それは私が殺人を好むからではない、内地の統治に同じ厳しさは不要だ」と答えた。山東の知名の士・賈同が曹瑋を訪ねた際、随行の兵三千が音も立てずに整然と行動する様を見て「曹瑋こそ真の名将だ」と語ったという。曹瑋の統治は父・曹彬の寛大さとは異なる独自の一家をなしていたとされる。

学問への志

  • 曹瑋は読書を好み、赴任先には必ず数輌の書を携え、特に「春秋」(公羊伝・穀梁伝・左伝)に通じ、なかでも左氏伝に精通していたという。

元昊の危険性を見抜いた予言

  • 宝元年間、樞密使であった王忠穆公(王曙)の代、西夏の李元昊が反乱を起こした際、辺境の備えを問われても輔臣は誰も答えられず、翌日に樞密の四人が罷免され、王忠穆自身も虢州に左遷された。学士の蘇儀がこれを訪ねると、王忠穆は「この左遷は十年前から予見されていた」と語った。かつて三司塩鉄副使として河北を巡視していた際、定州の帥として着任したばかりの曹瑋(南院)から一日の逗留を求められ、翌日簡素な食事の後に人払いをして「あなたは面相からして枢密副使、あるいは辺境の帥にはなるが、宰相にはならないだろう。ただし十年以内に必ず樞密の実権を握ることになるだろう、その時西方に必ず事変が起こる、今から人材の登用と防備の整えを進めておくべきだ」と告げられたという。曹瑋はさらに、かつて西方の趙徳明が馬の取引の利が薄いことに怒り殺そうとした際、その子(当時十余歳)が「戦馬を隣国に渡すだけでも失策なのに、さらに商人まで殺せば誰も我々のために働かなくなる」と諫めたという話を伝え、「この子は必ず異志を抱く、市中で密かに肖像を描かせて確かめてみたが、まことに只者ではない相貌であった。この者が辺境の患いとなる時、あなたが政を執っているだろうから心して備えよ」と語った。王忠穆は当時これを本気にしなかったが、後にその肖像の人物こそ李元昊であったことを知ったという。