出自と経歴
- 馬知節、追封は正惠公。字は子元、幽州の人。父の功により補官し、樞密使に至った。
若くしての軍才
- 馬知節は十八歳で彭州の兵馬を監督し、その厳格さは老将のように恐れられたという。
博州・延州での備え
- 博州の兵馬監督であった頃、劉延譲が君子駅で契丹に敗れて撤退した際、馬知節は独り丁壮を集め糧秣を蓄え城の修繕・武具の整備を進め、契丹の来襲に備えた。吏民は当初これを煩わしく思ったが、果たして契丹が来襲すると、備えの厚さを見て攻めずに退いたという。
- 延州の知事となった際も、羌が上元節(灯篭祭り)の隙を狙って侵犯を図ったが、馬知節が備えを固めていたため、羌はついに事を起こせなかった。
用兵を忘れぬ諫言(王荆公撰神道碑)
- 樞密副使となった当時、契丹とすでに和議が成っていたため大臣たちはこぞって瑞祥を語る中、馬知節だけは常に異を唱え「天下は安泰でも戦を忘れてはならない」と力説し、真宗もその言葉を正しいとすることが多かったという。
王欽若の欺瞞を見抜く
- 真宗晩年、王欽若は奏事の際に手にした複数の上奏文のうち一、二だけを提出し残りは隠し持ち、退出後に自分の意向で処理していた。馬知節はある時、王欽若が退出しようとするのを見て「懐にある残りの上奏文をなぜ全部出さないのか」と指摘したという。
王欽若への直言と王旦の言葉
- 馬知節は同僚との奏対の場で厳しい声で「王欽若らは箚子を読み尽くしていない、陛下を欺くつもりか」と糾弾した。退出後、怒りの色をなお残していたところ、王文正(王旦)が「先ほどの議論はどうしたのか」と尋ねると、馬知節は「思わず笏で王欽若を打ち殺したいほどだったが、君主や宰相を驚かせるのを恐れて堪えた」と語り、王旦はその剛直さに感嘆したという。
東封泰山での直言
- 真宗が泰山封禅に赴いた際、道中は帝以下随行の者もみな精進料理を通した。封禅の礼が終わった後、真宗が王旦らに「長らく精進食で難儀させた」とねぎらうと、旦らは再拝して応えたが、馬知節だけは「精進を通したのは陛下お一人だけです、王旦らは道中こっそり肉を食していました」と正直に申し出て、王旦らも「まさに馬知節の言う通りです」と再拝して認めたという。