宋名臣言行錄前集卷三 張詠

張詠(追封は忠定公)。字は復之、濮州の人。進士に及第し、工部尚書に至った。李順の乱平定後の成都知府として善政を敷き、峻厳な軍規と裁きで知られる一方、清廉倹約な私生活を貫いた。陳搏(希夷)に「天下を得れば公卿、得ずとも帝王の師となる」と評された人物。号は乖崖公。

年表(2件)
  • 淳化四年冬両川で旱害による飢饉が起こる
  • 淳化五年正月賊首李順が成都を陥落させ、張詠が成都知府に任じられて糧穀の確保と軍の引き締めにあたる

出自と経歴

  • 張詠、追封は忠定公。字は復之、濮州の人。進士に及第し、工部尚書に至った。

崇陽での農本の政

  • 張詠は崇陽で茶を生業としていた民に対し「茶は利が厚い分、いずれ官に統制されるだろう、今のうちに転業せよ」と述べ、茶を抜かせて桑を植えさせた。後に茶を統制する法が敷かれると他県は生業を失ったが、崇陽の桑は既に成木となり、絹の産で年々百万匹を得るほど富んだという。
  • また崇陽の城門で、菜を市場で買って帰る里人を見つけ「田里に住みながら自ら作らずに買って食うとは怠惰だ」と叱り、杖打って追い返したという。

直諫の逸話(韓魏公撰神道碑)

  • 銀台にあった頃、并代帥の張永徳の配下の小校が罪により杖罰で死んだ事件で処罰の詔が下ったが、張詠は「張永徳は辺境の重責にある、その配下の小校を処罰すれば帥の威信が損なわれ小人が上を侮るようになる」と詔書を差し戻した。その後、実際に将校を脅して殺す事件が起きたことから、真宗は張詠の見識を認め慰労したという。

李順の乱平定と成都の善政

  • 淳化四年冬、両川で旱による飢饉が起こり、翌年正月に賊首李順が成都を陥れると、朝廷は王継恩を招安使として派遣し、張詠を成都知府に任じた。張詠が赴任すると城内に三万の兵がいながら半月分の食糧しかなかった。塩価が高いと知ると相場を下げ、米と交換に応じることで一月足らずに数十万斛の米を得た。軍中は喜び「この翁こそ真に国事を成せる者だ」と称えた。招安使の王継恩が功に驕り出兵を怠り兵が略奪に及ぶと、張詠は招安司の吏を庭に集めて叱責し処罰を迫って引き締め、兵糧の扱いを巡っても駆け引きを用いて王継恩を出兵させた。二年分の軍糧を確保して陝西からの輸送の停止を上奏し、真宗は「以前は益州から輸送の催促ばかりだったが、張詠が来て一月余りで二年分の備えを作った、もう何も憂うことはない」と喜んだという。李順の残党についても、脅されて賊に加わった良民には自首を促して赦し、王継恩がなお処刑しようとした賊もすべて既に自首済みの者だったため、張詠は「李順が民を脅して賊にしたのに対し、私は賊を民に戻しただけだ」と応じ、両月あまりで両川は平定された。

反乱残党の掃討

  • 西川都巡検使の韓景祐が広武卒の劉旰に敗れ、懐安軍・卭州・蜀方面まで賊が迫るとの急報があったが、張詠は宴を続けたまま動じず、賊の勢いが驕り城に迫っている今こそ好機と見て、上官正に方井での迎撃を指示し、果たして一戦で劉旰を斬り残党を平定した。
  • 劉旰討伐の帰還後、実際には戦っていない者が首級を求めて訴えた際も、張詠は前線で負傷しながら戦った者たちの功をまず記録し、後から首級持参の者を扱うよう命じたため、軍の賞罰が公正であるとして将士は喜び従ったという。

峻厳な軍規と裁き

  • ある吏が処罰に不服を唱えた際、張詠が「剣を喫うか」と迫ると吏はなお反抗したため、そのまま斬って軍中に示し、以後号令は絶対のものとなった。
  • 益州知府に着任するとまず前任者に重用されていた不正な猾吏を市中で罪状とともに処刑し、それが李順を見逃した吏であったことを民に告げた。
  • ある僧が挙動不審として捕らえられた際、張詠は「これは殺人犯だ、本物の僧ではない」と見抜き、実際に別の民が僧を殺して度牒を奪い出家を装っていたことが判明した。額に頭巾の跡が残っていたのを見抜いたのだという。
  • 耕牛を殺して罪を逃れようと逃亡した李順党の一人については、母を十日拘束しても出頭せず、妻を一晩拘束するとすぐ現れたことから、その薄情さを判詞で断じ、市で処刑した。この判決を機に他の逃亡者も相次いで自首し、民は安堵したという。

流言の鎮圧

  • 「白頭の老人が午後に人を食う」との流言が広まった際、張詠は犀浦に人を遣り、市中の噂を広める者を捜し出して処刑させると流言は即座に収まり、夜市も元通りになった。張詠は「妖言には形があり訛言には声がある、これを止めるには見識をもって断じることであり、まじないによるものではない」と語った。

軍の統率と民心収攬

  • 兵火の後、人心が疑心暗鬼にある中、大規模な軍事閲兵を行った際、兵士たちが万歳を三たび唱えたが張詠は動じず馬を下りて東を望み三礼しただけで衆を静めた。後にこれを聞いた韓魏公も「あの場では自分もこう対処するしかなかっただろう」と評した。
  • 兵士の子が父を怒って蹴った様子を見た張詠は「この地はもとより悖逆の風習がある、幼くしてこれでは成長後には必ず乱を為す」として処刑したという。

米価安定策と労役制度

  • 蜀の地は狭く遊民が多いため、水旱の際に民が困窮しやすいと見た張詠は、諸邑の田税の額に応じて米六万斛を折納させ、春に城中の細民に籍を作って券を給し元の価格で買えるようにする永制を上奏した。これにより七十年を経ても蜀の民が飢えに苦しむことはなかったという。
  • 土木の役に際しては工匠を四班に分けて十日交代とし、夏は卯の刻から午の刻まで、冬は暮れまでとし、寒さには木札で薪を給するなど配慮した。雨の日に休みたいと願い出た瓦職人には「天晴なら瓦を葺き、雨天なら泥をこねよ」と判じ、些細な事にも通じていたという。

明察の統治と人物眼

  • 張詠は寝室に灯火と香を絶やさず一晩中座り、楼上の太鼓・水時計の刻限を厳密に管理し、少しでも狂えば係の者を必ず問責した。「鼓角は中軍の号令、これすら曖昧では他の事はなおさら乱れる」と語った。
  • 人物の推薦・評価に優れ、推挙する者はみな廉直で控えめな士であった。「競い進もうとする者は放っておいても自然と出世する、私が挙げる必要はない」と述べた。
  • 転運使の黄虞部が功名心の強い人材を推挙しようとした際、張詠は「推挙すべきは進んで退く(謙虚な)者だ、そうした者は忠節を尽くす。奔競する者は媚びへつらいで自ら知られようとする、そうした者は必ず事を誤る」と戒めた。
  • 蜀で二十年近く科挙合格者が出ず学校も荒廃していた頃、張及・李畋・張逵ら学徳のある者を見出して奨励し、三人とも科挙に及第、両川の学風が振るったという。

判語による教化(湘山野録)

  • 張詠は事件の裁定に際し、情状は軽いが法が重い場合、あるいはその逆の場合に必ず判語を作って読み聞かせた。蜀人はこれを板木に刻んで「戒民集」と呼び、風俗を敦くし孝義を篤くする教材とした。

杭州での遺産争いの裁定

  • 杭州に住む富民が死に際し、幼い子(三歳)の後見と財産の管理を娘婿に託し、「他日、財の十分の三を子に、七を婿に分けよ」との遺書を残した。子が成長すると財産を巡り訴えを起こし、婿は遺書通りの分配を求めた。張詠はこの書を見て酒を地に注ぎ、「そなたの妻の父はまことに賢明な人物だ、幼い子に代わって多くをそなたに託したのだ、そうでなければ子は生きられなかったろう」と述べ、命じて財の三を婿に、七を子に分け与えると、両者は泣いて謝したという。

蜀再任と善政の継続

  • 張詠が蜀を離れる際、後任には諫議大夫の牛冕が充てられたが、張詠は「牛冕には撫御の才がない、統治できまい」と見抜いた通り、翌年に王均の乱が起こり、牛冕は益州を追われた。乱が平定された後もなお民心が落ち着かないため、朝廷は再び張詠を樞密直学士・刑部侍郎知益州として派遣し、蜀の民は歓喜して迎えたという。真宗は「そなたが蜀にいれば朕は西方を憂えることがない」と語り、嘉州・卭州での大銭鋳造の権も与えた。
  • 張詠は李畋に「百姓は本当に私を信じているだろうか」と問い、李畋が「前任の際はまだでしたが、今回はようやく信を得たでしょう。秀才、信頼を得るには五年かかるものです」と答えたという。
  • 殿直の范延貴が兵を率いて金陵を通過した際、張詠が良吏の噂を尋ねると、范延貴は袁州萍郷県の令・張希顔について、道路や橋が整い田畑が開墾され賭博もなく夜も安心して眠れる様子から善政を推し量った。張詠は「希顔もさすがだが、天使(范延貴)もまた良い官員だ」と笑い、二人をともに朝廷に推薦した。希顔は後に発運使、范延貴も閤門祗候となり、いずれも能吏として知られたという(東軒筆録)。

丁謂・王欽若への抗論と陳州での慟哭

  • 金陵から都へ帰る途中、悪性の腫れ物を患い拝謁できなかったが、養生を許された不満から、丁謂・王欽若らが真宗に侈心を起こさせ国庫を空にし民の膏血を無用の土木に費やしていると三度上疏したが取り上げられず、陳州の知事として出された。
  • 陳州にいたある日、邸報を読みながら食事をしていた張詠は、報を見るなり慟哭し、その後指を弾きながら罵り続けた。それは丁謂が寇凖(萊公)を追い落としたとの報せであった。張詠は自分にも禍が及ぶと察し、有力者三人を邸に招いて博打の席を設け、賭けに勝った金で田宅を買い蓄財に走る風を装って自らを汚し、身を守った。時の権臣(丁謂か)もこれを聞いて害さなかったという。ある論者はこの振る舞いを「智者のすることであり賢者のすることではない、賢者は義があるのみで禍を避けはしない」と評した。

若き日の剛胆さと晩年の清貧

  • 若い頃、ある士人が僕から不法の弱みを握られ、娘を妻に差し出すよう脅されているのを知った張詠は、旅先でその僕を単騎連れ出し林の中で斬り捨てて助けたという。
  • 寝室には侍女も飾りもなく質素であった。門人の李畋がこれを禅室のようだと言うと、張詠は「私は栄華のためにここまで来たのではない、若い頃に及第した折に詩人・傅霖に贈った『前来失脚下漁磯、苦戀明時未得歸、寄與巢由莫相笑、此心不是愛輕肥』の句こそ今も変わらぬ心境だ」と笑って答えた。

蜀再赴任時の廉直

  • 王均・李順の乱の後、蜀に赴く官はみな家族を伴わなかったが、張詠も単騎で赴任し、部下が侍女を置くのを憚る中、張詠自ら一人の婢を買って身の回りの世話をさせた。人情を絶やさぬための配慮であり、以後部下たちも少しずつ侍妾を置くようになった。都に戻る際には婢の父母を呼び、金を与えて嫁がせたが、婢は処女のままであったという。
  • また水銀を白金に変えられると称する術士が現れた際、張詠は水銀百両を買わせ一度で成功させると、その全てを大慈寺の香炉の材料として寺に寄進し、術士には酒だけを与えて縁を絶ったという。

陳搏との交流と「乖崖」の号

  • 張詠は陳搏(希夷)を訪ねた際、厚く遇されたが、陳搏は子弟に「この人は名利に淡泊で、天下を得れば必ず公卿となり、得ずとも帝王の師となるだろう」と語ったという。
  • 若い頃に華山で陳図南(陳搏)に隠遁の志を相談した際、陳図南は「隠居を語るのは、家が火事で燃えているのに救いに行かぬようなものだ、まずは官途に赴くべきだ」と諭したという。
  • 蜀を去る際、張詠は封をした書状一巻を僧の希白に託し「十年後にこれを開け」と言い残した。十年後、張詠は陳州で没し、蜀の人々は市を閉じて哭泣した。希白が大会を開いて封を開くと、それは張詠自らの画像に自賛を添えたもので、「乖(世俗に逆らう)に則れば俗に違い、崖(角立つ)に則れば物を絶つ」との銘があり、以後「乖崖公」と呼ばれるようになった。

処世の教え

  • 張詠は「君に事うる者は廉にして貧を語らず、勤にして苦を語らず、忠にして已の功を語らず、公にして已の能を語らない、それでこそ真に君に事えるといえる」と語った。
  • また李畋に「大小の事はすべて智を用いよ、智は水のようなもので流れなければ腐る、事の起こる前に智を用いなければ大事の際に智は出てこない」と説いた。
  • さらに「事に臨んでは、見抜くこと・見抜いて実行すること・実行を果敢に決断すること、この三つが難しい」と語った。
  • 公事には陰陽があり、「字を著す前は陽に属し変化しうるが、字を著した後は陰に属し刑に関わるゆえ、名分は改めてはならない」とも説いた。
  • 施政の要諦として「信を民に及ぼしてから教え、義を説いてから勧め、礼をもって動いてから化し、私心なく静であってこそ民は安んじて楽業できる、この四つはまず己の身から実行すべきだ」と語った。
  • 病から癒えた李畋に「病中に心を移す法を会得したか」と問い、「君父に対するように病を畏れ慎めば、静かに癒える」と教えたという。

蘇軾の評

  • 蘇軾は張詠の手紙に跋を寄せ、「寛によって得た愛は一時に限られ、厳によって得た畏は力の及ぶ限りに留まる、それゆえ寛にして畏れられ、厳にして愛されることは聖賢にしかできない稀有なことだ」と述べ、諸葛孔明の蜀治世に似た厳格な治政と遺愛が今も蜀の地に祀られていることを評した。