宋名臣言行錄前集卷四 畢士安

出自と経歴

  • 畢士安、追封は文簡公。字は仁叟、代州の人。進士に及第し、真宗の宰相となった。

文才と品行への評価

  • 端拱年間、諸王府の官に文を上進させる詔が出た際、帝が近臣に文の巧拙を尋ねると「畢士安が優れています」との答えがあり、帝は喜んで本官のまま知制誥に任じ、後に翰林学士に召した。張洎を推す声もあったが、帝は「張洎は文辞・履歴では劣らぬが、行いの点で畢士安に及ばない」と評した。

契丹対策と寇凖の推挙

  • 契丹が侵犯を謀っていた際、畢士安は真っ先に将の選抜・軍糧の輸送・財政の五事を上疏し、その内容は充実していた。中書に宰相の欠員が生じ参政に進んだ際、帝が「まだ宰相にはしない、共に進むべき者は誰か」と問うと、畢士安は「寇凖は忠義と大事を決する資質を兼ね備え、宰相の器です」と答えた。帝が「剛気に過ぎるとの評もあるが」と難ずると、畢士安は「寇凖は方正で慷慨、大節を重んじ身を捨てて国に殉じる人物です、世俗に阿ることはありません。天下の民が休徳に浴していても西北の脅威が続く今こそ、彼のような人物を用いるべきです」と答えた。帝は「そなたの老練な徳を頼りにこの人物を制御させよう」と述べ、一月足らずで畢士安を平章事に任じ、寇凖も同時に任命されたが、畢士安は監修国史として上位に置かれた。その後、契丹の侵犯が激しくなり、両者は共に真宗の澶淵行幸を進言した。

清廉な家風(劉莘老撰神道碑)

  • 畢士安は貴顕にあっても暮らしぶりは平素と変わらず、子孫のために財を殖やすことがなかったため、世にその清廉が称えられた。王文正(王旦)は真宗に「畢士安は宰相にまで至りながら天下に田園も邸宅もなく、亡くなった後は喪の費用にも事欠き、妻はその費えを私(王旦)の家から借りています。陛下に負うところがないのはこれで明らかです」と奏したという。

史書校訂への見識

  • 真宗が官に「三国志」「晋書」「唐書」の校勘を命じた際、両晋の事跡には卑劣な内容が多く世に流布させるべきでないとの意見が出た。帝がこれを宰相に問うと、畢士安は「悪を記して世を戒め、善を記して後世を勧める、善悪をともに載せるのは春秋の体である」と答え、帝はこれに従い刊行を命じたという。