宋名臣言行錄前集卷三 陳恕

出自と経歴

  • 陳恕、追封は晋公。字は仲言、洪州の人。進士に及第し、参知政事に至った。

忠実な奏事態度(沂公筆録)

  • 陳恕は長く財政(計司)を統括し、便殿での奏事の際、太宗の意に沿わず叱責されることもあったが、板を抱えて壁際に控え、帝の怒りが解けるのを待って再び元の奏をそのまま繰り返し、意見を変えなかった。これを三、四度繰り返すこともあったが、太宗はその忠実さを認めて多くをその議に従わせ、当時「職務に忠実な者」の第一に陳恕を挙げたという。

塩鉄使としての改革

  • 陳恕は算勘に長け、鹽鐵使として旧弊を除いて大いに利益を興し、太宗はその功を深く評価して殿の柱に「真塩鉄陳恕」と自ら題したという。

茶法の三等策(東軒筆録)

  • 三司使として茶法を制定するにあたり、陳恕は数十人の茶商を集めて利害の条件を出させ、これを三等に分けて検討した。副使の宋太初は「上等の説は利を取りすぎ商人には行えても朝廷には不適、下等は杜撰で取るに足らない、中等こそ官民ともに利する」と述べ、陳恕はこれを裁量して「三説法」として実施した。数年で財貨が流通し公用も足り民も富み、当時「三司使の才は陳恕を第一とする」と評された。後に李諮が使となり法を改めたが、茶の利は次第に失われ、旧法の完成度には及ばなかったという。

長年の勤務と後継者の推薦(東軒筆録)

  • 陳恕は判官から鹽鐵使、総置使を経て参政となり、再び三司使を務めること通算十八年、吏事に精通し朝廷はその才を頼りにしたが、晩年病により権限の返上を願い出た。真宗が後継を問うと、当時樞密使を退いていた寇凖を自ら推薦し、寇凖が三司使となり、陳恕は集賢学士判院事となった。寇凖は陳恕が定めた制度の記録(方冊)を検討し、その後の三司使はみなこの旧規に従ったが、後に李諮が茶法を改めてからは陳恕の遺した規模も次第に失われていったという。

財政の実情を軽々しく報告しない配慮

  • 真宗が中外の銭穀の総額を求めた際、陳恕はすぐには奏上しなかった。督促されてもなお進めず、執政に理由を問われると「陛下はまだ若く、府庫が充実していると知れば奢りの心が生じかねません、それゆえ進めずにいるのです」と答え、真宗はこれを聞いて善しとした。

人材の抜擢

  • 陳恕が春官(礼部)を司った際、王曾(沂公)を首席に選び、劉子儀を無名の中から抜擢し、「この二人は当代の俊才を得た」と自負し、人を知る眼力に恥じぬものであったという。

仏教への批判

  • 陳恕は元来仏教を好まず、訳経院の廃止を強く求めたが、真宗は「三教の興りは久しく、これを廃した前代の例も多いが、ここは存置してあえて論じぬのがよい」と答えた。

死を悼む詩(乖崖語録)

  • 張詠(忠定)が邸報を読み「惜しいことだ」と繰り返すので、門人の李畋が尋ねると「参政の陳恕が亡くなった、彼のような人物は得難い。彼だけが国のために怨みを一身に負う仕事をしてきた」と答え、詩を作って哭したという。

茶法増収の実情

  • 世間では陳恕が茶法を改め税収がほぼ十倍に増えたと称えるが、後任の三司使が帳簿を精査したところ、実際には景徳年間の北虜侵入以来、河北の糴便の法が崩れ茶利の九割を失った後の一時的な回復にすぎず、旧額には及ばなかったという。今なお美談として語られるが、実情に照らせば過大評価であるとされる。