出自と経歴
- 向敏中、追封は文簡公。字は常之、開封の人。進士に及第し、真宗の宰相となった。
儺祭を利用した反乱計画の鎮圧
- 太宗が張詠・向敏中の名を飛白書で中書に付し「二人は名臣なり、忘れぬように記せ」と命じた。向敏中が永興軍の知事であった頃、地元の儺祭(追儺)に乗じて反乱を企む禁卒がいるとの密告があった。向敏中は密かに兵を鎧に隠して廊下に伏せさせ、翌日賓客・兵官を集めて宴を開き誰にも気取られぬまま儺行列を城門から中門まで進ませ、階に上がったところで合図し、伏兵が一斉に躍り出て短刀を隠し持つ首謀者たちを全員捕らえて即座に誅殺した。その後は速やかに庭を片付け、音楽を鳴らして何事もなかったかのように宴を続けたため、居並ぶ賓客はみな震え上がったという。
右僕射拝命時の静かな人柄
- 向敏中が右僕射に任ぜられた日、翰林学士の李昌武が真宗に「即位以来、右僕射を除するのは初めてです、これは破格の栄誉です」と言われた。真宗は「向敏中は今日、賀客が多いだろう、様子を見てきて、明日私に話せ、私の意向は言うな」と命じた。李昌武が向敏中の邸を訪ねると、門前には一人もおらず、自ら祝いの言葉を尽くしても向敏中は「はい、はい」と応じるのみで多くを語らなかった。厨房で宴席の様子を尋ねても親戚や賓客は誰も来ていなかった。真宗はこれを聞き「向敏中はよほど官職に慣れている(動じない)な」と笑ったという。
名裁判の逸話
- 向敏中が西京にいた頃、ある僧が夜に民家に宿を求めたが断られ、代わりに門外の車廂で夜を過ごすことを許された。その夜、盗賊が家に入り婦人と財物を奪って逃げたが、僧はそれを見て「自分が疑われる」と恐れて逃げ出し、荒れ地の枯れ井戸に落ちると、既に殺されていた婦人の遺体があった。翌朝、家人が捜索して僧を井戸から捕らえ、拷問により僧は「息子の嫁と密通し逃げようとしたが露見を恐れて殺した」と自白し、獄は成立したが、盗品が見つからなかったことに向敏中だけが疑いを持ち、何度も僧を尋問した末に真相を明かさせた。密かに人を遣わし賊の足取りを追わせ、村の茶店で耳にした噂から真犯人の村の若者を突き止め、捕らえて自白させた。この裁きに府中の誰もが感服したという。
実務に励む姿勢
- 当時、宰相を退いて地方に出た者の多くは実務を軽んじる中、向敏中だけは政事に勤め、赴任地でその名を高めた。真宗は「地方に出た大臣で民事に心を尽くすのは向敏中だけだ」と述べ、これが再び中央で用いる契機となったという。