宋名臣言行錄前集卷二 王旦

王旦(追封は魏国文正公)。字は子明、魏州の人。進士に及第し、太尉に至り真宗廟庭に配享された。父・王祐は太祖に直諫して左遷されたが「次男が宰相になる」と予見し、庭に槐を三本植えたと伝わる(三槐王氏の由来)。真宗朝の宰相として長く政務を執り、公正な人事・裁定と清廉な暮らしぶりで知られた。

年表(2件)
  • 大中祥符年間蝗害の際、死んだ蝗を根拠とした百官の慶賀に一人反対し、後に生きた蝗の大群飛来で的中させる
  • 景徳年間科挙の採点を巡り、不注意の李迪を採り故意の異説を立てた賈辺を退ける裁定を下す

出自と経歴

  • 王旦、追封は魏国文正公。字は子明、魏州の人。進士に及第し、太尉に至り真宗廟庭に配享された。

父王祐の予言と三槐の由来

  • 王旦の父・王祐(王晋公)は太祖に仕え知制誥となり、太祖の命で魏州に赴いた際、節度使の符彦卿への讒言(飛語)があったが、王祐は自ら「百口をもって符彦卿の無実を保証する」と述べ、「五代の君主の多くが猜忌から無辜を殺したために国祚が短かった、陛下はこれを戒めとされよ」と直言した。太祖は怒ってその直言を退け、王祐は華州へ左遷された。送別の折、人々は王祐が宰相になるはずだったと惜しんだが、王祐は「私はなれずとも、次男(王旦)がなるだろう」と語り、その予見を信じて庭に槐を三本手植えし「我が子孫に必ず三公となる者が出る」と述べたという。のちに果たしてその通りとなり、世に「三槐王氏」と呼ばれた。

常平倉の建言と太祖の期待

  • 王旦は鄭州通判として、天下に常平倉を置いて豪族の兼併を抑える策を建言した。学士として奏事を終え退出する様子を見て、太祖は「朕のために太平を実現するのはこの人物であろう」と語ったという。

皇太子への教育論

  • 真宗がまだ皇太子であった頃、諭徳の官が「太子は書法に優れておられます」と称えると、王旦は「諭徳の職務はそれだけのことか」とたしなめた。同様に張士遜が皇太子の書の巧みさを称えた際にも、王旦は「皇太子は科挙を受けるわけではない、書を学ぶ必要はない」と言い、これにより文懿(張士遜)は以後、道理を尽くして太子を導くようになったという。

趙徳明への糧穀策

  • 趙徳明(李継遷の子)が飢饉により百万斛の糧を求めた際、大臣は「徳明は誓約を破ってまで求めるのか」と詔書で責めるべきだと言ったが、真宗が王旦に問うと、王旦は所司に命じて京師に百万斛の粟を用意させ、徳明に取りに来させるよう進言した。徳明は詔を受け取って恥じ入り、「朝廷には人物がいる」と拝したという。

契丹との折衝と蝗害への慎重な奏上

  • 契丹が歳幣の増額を求めた際、王旦は「東封(泰山封禅)が近く朝廷の意向を探っているだけだ」と見抜き、歳幣三十万のうち各三万を借りる形にとどめ、翌年の額から差し引くと定めた。契丹はこれを受け大いに恥じ入り、翌年以降は借用せず定額どおりとなった。
  • 大中祥符年間、蝗害が広がった際、真宗が死んだ蝗を示すと、ある宰相が「もう蝗は死に絶えました、百官で慶賀しましょう」と提案したが、王旦一人はこれに反対した。数日後、生きた蝗が天を覆って飛来し、真宗は王旦に「もし百官が慶賀した後にこうなっていれば天下の笑いものだった」と語った。

宦官・地方官への公正な処遇

  • 宦官の劉承規が忠勤により節度使を求めて臨終間際に願い出た際、真宗が王旦に相談すると、王旦は「これを許せば後に樞密使を求める宦官が出よう」と固く反対し、以後内臣の官は留後を超えないことが慣例となった。
  • 転運使を辞任する薛奎(簡粛公)に王旦がただ「東南の民力は尽きている」とだけ告げると、薛奎は「これぞ真の宰相の言葉だ」と語った。また江西転運使となる張士遜には「朝廷の恩義は既に十分だ」とだけ告げ、張士遜は生涯これを守り、識者は「最も大体を心得た運使だ」と評した。

科挙採点を巡る公正な裁定

  • 景徳年間、李迪と賈辺はともに評判の進士であったが、試験官はいずれも合格圏から外していた。李迪は賦の押韻の誤り、賈辺は経義の異説(「当仁不譲於師」の解釈)が理由であった。王旦は「李迪は不注意による過ちで許せるが、賈辺のように故意に異説を立てれば後進が穿鑿に走る弊が続く」として李迪を採り賈辺を退けた。

宮中火災での責任の取り方

  • 宮中で火災が起きた際、真宗が「両朝で蓄えた財を一朝で失った」と嘆くと、王旦は「陛下は天下の富をお持ちで財の損失は憂えるに及びません、憂うべきは政令賞罰の当否です、宰相として天災の責は私が負います」と述べ、詔を下して自ら罪を認め、中外に上書を求めた。後にある大臣が「これは天災ではなく某王宮の失火だ」と告げ、数百人を処罰しようとしたが、王旦は「初め天災として陛下自ら罪を認められたのに、今さら人に咎を帰せば信を失います。火に何らかの兆しがあったとしても、それも天譴でないとは言い切れません」と諫め、数百人の命が救われた。

誤用の印を巡る寇凖との応酬

  • 中書と樞密院の間で書類の取り扱いに詔の格式に反する誤りがあった際、寇凖はこれを真宗に報告し王旦は咎めを受けたが、堂吏を処罰するにとどめた。ひと月経たぬうちに樞密院側でも同様の誤りが生じ、堂吏が喜んで報告に来たが、王旦は「あちらの誤りは正しかったか」と問い、「正しくなかった」との答えに「ならば我々も真似すべきではない」と告発を控えさせた。寇凖はこれを知って大いに恥じ、「同年の大度量には及ばない」と語ったという。

王欽若らの争いの調停

  • 王欽若・陳堯叟・馬知節が樞密院で口論となった際、真宗の御前でも収まらず、真宗が王旦を呼ぶと王欽若はなお喧しく騒いでいた。王旦は王欽若を一喝し、真宗が怒って投獄を命じたが、王旦は「陛下のご機嫌がすぐれないのを見て取り、まず内へお引き取りを、明日改めて裁決を」と取りなした。翌日、王旦は「陛下の御前での争いで大臣を処罰すれば、外国に聞こえて威信に関わります」と諫め、しばらく罷免を待つよう進言し、ひと月あまり後に穏便に処分された。

公正な人事批准と真宗の信頼

  • 王曾・張知白・陳彭年が参政となった際、「奏事の内容を陛下がすべて閲覧されないまま裁可されるのは如何なものか」と王旦に問うたが、王旦は取り合わなかった。ある日、彼らが真宗に直訴すると、真宗は「王旦は朕の側にあること多年、一切の私心がないことは分かっている。東封以来、小事は一任している、そなたらも謹んでこれに従うべきだ」と述べ、彼らは恥じ入って謝した。王旦は後に「陛下からそう仰せがあったからには、これからは諸公の助けを頼む」と語ったという。

寇凖の使相要求と後の推挙

  • 寇凖が樞密使を罷免される際、私的に使者を送って使相の地位を求めたが、王旦は「将相の任は求めて得るものではない」と驚き、これを受け入れなかった。寇凖は深く恨んだが、まもなく制書が下り寇凖は武勝軍節度使同中書門下平章事に任ぜられた。寇凖は真宗に涙して「陛下でなければこの地位はありませんでした」と述べたが、真宗は王旦の推薦によるものだと明かし、寇凖はようやく王旦の器量に及ばぬことを悟った。

静かに実力を待たせる人材観

  • 諫議大夫の張師徳が向敏中に「王旦の門を二度訪ねたが会えなかった、悪く言われているのではと恐れている、取りなしてほしい」と訴えた。向敏中が王旦に取り次ぐと、王旦は「張師徳は名門の子弟で品行方正、状元は間違いない、ただ静かに機を待つべきで、みだりに競い進もうとすればかえって害になる」と語り、決して悪意はないと説明した。この一件は、才ある者を焦らせず戒める王旦の識見を示すものであった。

任中正への交代人事を支持

  • 成都を治めた張詠が朝廷に召還される際、任中正を後任にとの議に反対する声があったが、王旦は「任中正でなければ張詠の施政を守れない、他の者ならば安易に変更してしまうだろう」と支持し、真宗もこれを容れた。人々は王旦の人物眼に感服した。

病中の後継者推薦

  • 王旦が病を理由に辞職を願い出た際、真宗は「大事を託そうとしていたのに」と嘆き、皇太子に王旦への拝礼をさせた。王旦は皇太子の盛徳を称え、代わって重用すべき大臣を十余人推薦した。その多くはのちに名臣となったが、宰相にまでは至らなかったのは李及・凌策の二人だけであったという。
  • 病がなお癒えぬ王旦を、真宗は輿で禁中に呼び、「万一のことがあれば天下の事を誰に託せばよいか」と問うた。王旦は「臣を知るのは君に及ぶ者はありません」と答えるにとどめ、張詠・馬亮の名を挙げられても答えなかったが、重ねて問われ「私見では寇凖に及ぶ者はいません」と述べた。真宗が「寇凖は性剛褊だが」と難ずると、王旦は「他に人物はおりません」とだけ答えた。王旦の死の翌年、真宗は果たして寇凖を宰相に用いたという。

寇凖の擁護と度量

  • 王旦の推薦で宰相となった寇凖が、真宗の前でしばしば王旦の短所を挙げる一方、王旦は寇凖の長所ばかりを語った。真宗が「そなたは彼を褒めるが彼はそなたを謗る」と告げても、王旦は「私が久しく相位にあれば政事の欠失も多いはず、寇凖が陛下に隠さず申し上げるのは忠直の証、これゆえに彼を重んじるのです」と答えた。また寇凖が生日に山棚を設けて豪奢な宴を催し批判された際、真宗が「寇凖は朕を真似ているのか」と怒ると、王旦は「寇凖は賢い人物だが、この点だけは愚かなのです」ととりなし、真宗の怒りは解けた。長安での寇凖の同様の失態にも、王旦は「これも寇凖らしい愚かさだ」と笑い、寇凖に自ら過ちを悟らせるよう取り計らったという。

符瑞・佞臣への警戒

  • 翰林学士の陳彭年が科挙の条項改定案を携えて面会を求めた際、王旦はこれを地に投げ捨て、「翰林学士たる者がなぜ天下の進士を苦しめる真似をするのか」と叱った。別の日にも陳彭年が符瑞を進言しようとした書面を見ずに封じたまま処理させた。
  • 王旦はかつて楊億と人物評をした際、丁謂の才を認めつつも「道を語らせれば未熟だ、徳のある者に助けられれば大成するが、独り権を握れば必ず身を滅ぼす」と評した。後に丁謂は流罪となり、その通りとなった。

王欽若の宰相化を阻止

  • 真宗が王欽若を宰相にしようとした際、王旦は「王欽若は既に厚い恩遇を受けている、樞密院の職に留めれば両府のつり合いも取れる。祖宗以来、南方の人が国政を執った例はなく、賢士ならば方角を問わぬとはいえ、真に賢者でなければ私が宰相として抑えねばならない、これも公議です」と諫め、真宗はこれを聞き入れた。王旦が退いた後、王欽若はついに宰相となり「王旦のせいで十年出世が遅れた」と語ったという。

清廉倹約と大きな度量

  • 王旦は下賜品があると家人にそのまま庭に置かせ、目を閉じて「民の膏血をこれほど使ってよいものか」と嘆いた。子弟には常に倹約を教え、富貴にあっても驕らせなかった。甥の睦が進士を目指した際も「私は常に盛りすぎを恐れている、貧しい士と争って登用されるべきではない」と語り、自身の死に際しても子の素はまだ無官のままで、遺表に恩沢を求めなかった。
  • 田宅を持たず「子孫はそれぞれ自立を志すべきで、財を残せば争いの種になるだけだ」と語り、実弟の粗暴な振る舞いにも黙って耐え、その弟が家廟の祭祀の壺を叩き割った際にも一言も咎めず立ち去り、弟は後に感化されて改心したという。子弟の衣服が華美に過ぎると見れば目を閉じて「我が家の質素な家風がこうなってしまったか」と嘆き、玉帯を持ってきた弟にも「私の腰にはこの品は不釣り合いだ、生涯賜った帯以外は身につけない」と返させた。
  • 家人が王旦の度量を試そうと羹に墨を混ぜても、ただ食べずに「今日は肉が好きでない」とだけ言い、飯に墨を入れられても「では粥を用意せよ」と告げるのみであった。厨房の肉が少ないと訴える子弟にも「決まった量の半分でも十分ではないか」とたしなめ、破損した邸の門を修理する間、側門を低く屈んで出入りしても文句を言わず、五年仕えた馬丁の顔さえ知らなかったことに気づくと厚く報いたという。

李沆との対話と天書封禅への妥協

  • 李沆が宰相であった頃、王旦は参政として辺境の憂いのなさを喜んだが、李沆は「聖人でなければ内憂は必ず生じる」と答えた。李沆の死後、契丹との和議が成って軍事の憂いが薄れると、案の定、土木・祈祷が盛んになった。王旦はこれを憂いつつも一身の引退を選ばず、李沆や王曾ら二十余人を朝廷に薦めて小人に対抗させ、仁宗の治世の礎を築いたとされる。
  • しかし澶淵の盟後、王欽若が真宗に「あの盟約は屈辱的な城下の盟だ、天瑞を得て泰山を封禅すれば汚名を雪げる」と説き、天瑞は人為で作り得るとまで唆した。真宗が「王旦は反対しないか」と問うと王欽若が説得を請け負い、王旦も渋々従った。真宗はなお決めかね、たまたま夜に会った学士の杜鎬に「河図洛書とは何か」と問うと、杜鎬は「聖人が神道を以て教えを設けたものです」と当意即妙に答え、真宗の意を後押しした。真宗は王旦を招いて酒を賜り「持ち帰って妻子と分かち合え」と告げたが、それは実は珠であった。以後、天書・封禅の事業に王旦は異論を唱えなくなった。宰相として過ぎたる才を持ちながら、この一件では力を尽くして諫めなかったことを、当時の識者は惜しんだという。

晩年の逸話

  • 真宗の治世が長く続き内外無事であったため、群臣が王旦に美妓で楽しむことを勧めた。王旦は元来倹約で侍妾を持たなかったが、真宗は側近に命じて銀三千両とともに「宰相のために妾を求めよ」と迫った。王旦は不承不承これに従い、以後衰えを見せ数年で世を去った。かつて没落した沈倫家の子孫が銭塘の錢氏由来の銀器を売ろうとした際も、王旦は「我が家にこれは不要だ」と眉をひそめて断っていたが、姫妾を持ってから改めてその器を求め喜んで使ったという逸話は、栄華が人を変える様を示している。