宋書卷八十六 列傳第四十六 劉勔

出自と初期の官歴

劉勔は字を伯猷といい、彭城の人。祖父の劉懐は義始興太守、父の劉頴之は汝南新蔡二郡太守で、林邑征討中に病没した。勔は若くして志操があり文事も好んだが家は貧しかった。広州増城令となり、刺史劉道錫に揚烈府主簿として登用された。元嘉二十七年、北魏の南侵に際し道錫の使者として都に赴き、太祖に謁見して応対が評価され寧遠将軍・綏遠太守に任ぜられた。元嘉末年、蕭簡が広州で反乱すると挙兵して討ち、南門を焼いた。刺史宗慤にも府軍主簿として用いられ、功により大亭侯・員外散騎侍郎。孝建初年、荆江の反乱では宗慤の下で寧朔将軍・湘東内史として安陸に出陣し、平定後は晋康太守、のち鬱林太守に転じた。大明初年帰都、徐州刺史劉道隆の寧朔司馬となる。竟陵王劉誕の反乱では道隆に従い沈慶之の指揮下で戦功を挙げ、金城県五等侯に封ぜられた。西陽王劉子尚の撫軍に仕え入直閤。費沈による林邑討伐失敗を受け、龍驤将軍・西江督護・鬱林太守として現地を平定し、名馬や珊瑚連理樹を献上し上を大いに喜ばせた。新安王劉子鸞の撫軍中兵参軍となるが母の喪に服す。前廃帝即位で振威将軍・屯騎校尉として入直閤。太宗即位で寧朔将軍を加える。

晋安王の乱と殷琰討伐

江州刺史晋安王劉子勛が反乱を起こし四方が呼応すると、勔は建平王劉景素の輔国司馬として梁山に進駐した。豫州刺史殷琰が反乱するとすぐに召還され、仮輔国将軍として討伐にあたり、甲仗を帯びた三十人で六門に入城、山陽王劉休祐の驃騎司馬を兼ねた。宛唐で劉順を、横塘で杜叔宝を破った(詳細は殷琰伝)。輔国将軍・梁郡太守・仮節に除せられるが赴任せず。殷琰は寿陽で籠城を続け、薛道摽・龐孟虯もこれに呼応したが、勔は内外から攻め守りに戦えば必ず勝ち、寛厚な統率で将兵の信望を集めた。将軍王広之が勔の愛馬を所望した際、諸将は広之の厚かましさに憤り処罰を勧めたが、勔は笑って馬を与えた。使持節督広交二州諸軍事・平越中郎・広州刺史に除せられるが赴任せず。殷琰の開城降伏に際しては軍紀を厳守させ、城内の民は一切被害を受けず、百姓は「来蘇(生き返った)」と喜び生祠碑を立てた。益寧二州刺史に改められるがこれも赴任せず、京都に戻り太子左衛率・鄱陽県侯・食邑千戸となる。

対北魏戦と賈元友の建策への反論

殷琰がかつて北魏に救援を求めたため、魏の大軍が汝南に駐屯していた。泰始三年、勔は征虜将軍として西討前鋒諸軍事を督した。常珍奇はもと汝南に拠り琰に呼応していたが、琰降伏後は魏に降っていた(琰伝に詳しい)。魏の西河公・長社公が汝陰太守張景遠を攻囲すると、景遠は楊文萇とともに撃退したが病没、冠軍将軍・豫州刺史を追贈され含洭県男・食邑三百戸に封ぜられ、文萇が後任となった。勔は右衛将軍、のち使持節都督豫司二州諸軍事・征虜将軍・豫州刺史。四年、侍中・領射声校尉を辞退し右将軍に進号。魏の趙懐仁が武津県に侵攻すると龍驤将軍曲元徳が撃退、魏の子都公閼于抜が輸送隊(闕)千両を汝陽台東で警護していたところ元徳が単騎で斬り、汝陽台を陥落させ車千三百乗・首級百五十を得た。孫台瓘が弋陽以西で魏軍を大破、勔は許昌で荒残の民を糧に反撃し魏軍を撃退・焼米させた。

淮西の賈元友が太宗に上書し、懸瓠攻略により陳郡・南頓・汝南・新蔡四郡を回復すべきと説いた。上はこれを勔に示し検討を命じた。勔は元友の議に条を分けて逐一反論した。要旨は、魏主が幼弱で内紛があるという情勢認識は当てにならないこと、七千余家の蓄積で二万の兵を数年養えるとの見積もりは実際には年四十八万斛・五年で二百四十万斛を要し到底足りないこと、懸瓠を攻めずに郾城を先に攻めるのは順序が逆であること、水陸運糧を断つ好機との主張は堅城・駅道の実情に反すること、四郡の民が魏の圧政二十七年に恨みを抱くとしても垣式宝らの動向を見れば当てにならないこと、荆雍二州から精兵三千で郾城を突くという策は嶮路・兵站の点で成功例がないこと、汝陰を二年守った張景遠の功を軽兵での遠征正当化に用いるのは論理が矛盾すること、龍山ら地方勢力を頼みとする策も実情に合わないこと、四郡の農地荒廃を運糧遮断で解決しようにも兵站が追いつかないことなどである。過去、元嘉以来こうした境界の避難民の進言はしばしば国の威信を損ね兵力を浪費してきたとも述べた。太宗はこれを容れ、元友の議は退けられた。

勔は常珍奇に書を送り魏への離反を勧め、珍奇は子の超越・羽林監式宝とともに譙で魏の子都公費抜ら三千余人を殺した。勔がこれを上奏すると太宗は大いに喜び、珍奇を使持節都督司北豫二州諸軍事・平北将軍・司州刺史・汝南新蔡県侯・食邑千戸、超越を輔国将軍・北豫州刺史・潁川汝陽(闕)三郡太守・安陽県男、式宝を輔国将軍・陳南頓二郡太守・真陽県男・食邑三百戸とした。しかし珍奇は魏軍に攻められ南へ退き、追撃を受けて山中に逃れ寿陽に至り、超越・式宝は殺害された。五年、汝陰太守楊文萇が荆亭などで再び魏軍を破ると、勔は平西将軍・豫州刺史に進号(不拝)。

侍中・領軍としての晩年と桂陽王の乱での戦死

その年、散騎常侍・領軍を拝命したが、世事の煩わしさから東陽郡への転出を願い出た。上がこの願書を朝臣に示すと尚書僕射袁粲以下皆賛同したが、上は「巴陵王・建平王も同様の隠棲の志があるが、世が平安になれば聞き届けよう」として保留した。勔は鍾山の南に別荘を営み石や水を配して丘壑を模し、士人が多く遊びに訪れた。六年、常侍を侍中に改める。南兖州刺史の斉王が淮陰に出鎮すると、勔は使持節都督南徐兖青冀(闕)五州諸軍事・平北将軍・侍中・中領軍として広陵に出鎮したが、侍中・軍号は辞退し仮平北将軍とした。七年、都督・仮号・節を解かれる。太宗は臨終の顧命により勔を守尚書右僕射・中領軍のまま鼓吹一部を賜った。廃帝即位で兵五百人を加える。

元徽初年、天文に凶兆(月が右執法を犯し、太白が上将を犯す)があり、辞職を勧める者もあったが、勔は「我が心と行いに恥じるところはない、才薄く任重ければ災いは避けがたいが、それを避けようとすること自体天道に反する」として動じなかった。桂陽王劉休範の反乱が都に迫ると、勔は使持節領軍置佐史として石頭に鎮した。賊が朱雀航の南に迫った際、右軍の王道隆が急使で勔を呼び寄せた。勔は到着すると航を閉じるよう命じたが、道隆はこれを聞かず勔に渡河・進撃を促した。勔は桁の南で戦って敗れ、その場で戦死した。享年五十七。事平定後、詔により忠義を称えられ、散騎常侍・司空を追贈、鄱陽県開国侯はそのまま、諡は忠昭公。子の悛が跡を継ぎ、順帝の昇明末年に広州刺史となったが斉の受禅で除国された。弟の斆は大始中に寧朔将軍・交州刺史となり赴任途上で病没、都郷侯の爵位があり諡は質侯。

史論

史臣曰く、後漢の呉漢が蜀を平定した際は城内に流血が踝を浸すほどの惨状であったが、その後こうした苛烈さは漢の世に語り継がれることはなかった。呉の陸抗が西陵を平定した際は歩氏一族が幼児にまで累が及んだが、その子の陸機・陸雲は結局晋(上国)で処刑された。これに対し劉勔が寿春を攻略した際には、城内の士民に糧秣欠乏の嘆きはなく、老幼を助け合いながら歌いつつ包囲を出た。まことに美事というべきである。