宋書卷八十三 列傳第四十三 吳喜

出自と初期の経歴

  • 吳喜は呉興臨安の人。もとの名は喜公であったが太宗が「喜」に改めさせた。初め領軍府の白衣吏から出身し若くして書に通じ、領軍将軍沈演之が起居注を写させると全て記憶し諳んじられるほどであった。演之が譲表を作って未提出のまま失った際、喜は一度見ただけの内容を漏れなく書き起こし、演之はその才を大いに認め、これをきっかけに史書・古今の事に通じるようになった。演之の門生朱重民が主書となった際に喜を主書に推挙し、主図令史に進んだ。
  • 太祖がかつて図書を求めた際、喜が巻物を逆さに差し出したため太祖は怒って退けたが、たまたま太子歩兵校尉沈慶之が蛮討伐に出る際、太祖に喜を随行させることを願い出て許された。以後、命を受けて往来するうち世祖に才を認められ、世祖が巴口で建義した際は病のため従えなかったが、事が平定すると世祖は喜を主書とし、次第に親任されて諸王学官令・左右尚方令・河東太守・殿中御史に至った。
  • 大明中、黟・歙の二県で亡命者数千人が県邑を攻め落とし官長を殺す事件が起き、揚州にいた豫章王子尚が三千人の兵を再度率いて討伐に赴かせたが失利を重ねた。世祖は喜に数十人だけを与えて二県に赴かせ賊を説得させたところ、賊は即日帰順した。
  • 太宗即位後、四方が反乱し東方の情勢が特に急迫した際、喜は精兵300を得て東方に赴くことを願い出て許され、建武将軍として羽林の勇士を配された。議者は「喜は文書役で将として用いた前例がない」と反対したが、中書舎人巣尚之は「喜はかつて沈慶之に従い軍旅を経験し武勇にも通じている、任せれば必ず成果を挙げる」と主張した。
  • 喜は員外散騎侍郎竺超之・殿中将軍杜敬真らと東討に赴き、永世で庾業・劉延熙の尋陽王子房への檄文の書状を得た。喜への挑発の書状に対し喜は毅然と返信し、聖主が神武で乱を平定しつつあること、彼らも国恩を受けた身であることを説いた。喜は世祖時代から民に慕われる寛厚な性格であったため、東討の際も百姓が喜(吳河東)の来訪を聞くと望んで降伏し、行く先々で勝利を収めた(事は孔覬伝にある)。
  • 歩兵校尉・将軍のまま竟陵県侯・食邑千戸に封じられ、東土平定後さらに南討して尋陽太守に遷り、南賊が退くとこれを追討して荆州を平定、前軍将軍・食邑300戸増となった。泰始4年(468年)東興県侯に改封、交州刺史などに任じられたが赴任せず、豫州出兵で荊亭で虜を大破し長社公を敗走させ戍主帛乞奴を降した。翌年豫州を援護し索虜を拒んだ功で節督豫州諸軍事を加えられ京都に帰還した。

泰始の変事と最期

  • 喜は東征に際し太宗に、尋陽王子房や賊帥を得れば東方で梟斬すると申し出ていたが、東土平定後は南賊がなお盛んなことを慮り後の翻意による禍を避けるため子房を都に送り返した。顧琛・王曇生らの主だった帥も皆助命した。上は喜の新たな大功を問題にしなかったが、内心密かに怨みを抱いた。喜が荊州平定の際に恣に略奪した財宝は計り知れず、また賓客の前で「漢の高祖・魏の武帝は元来何者であったか」と発言したため、上はますます不快に思った。夏寂之が誅殺された際、喜も内心恐れて中散大夫への転任を願い出たが、上はいよいよ疑いを深めた。
  • 上が病に伏した際、身後の安全のため喜が人望を得ていることを危ぶみ、幼主に仕えられないと見て死を賜った。享年45。喜が死ぬ前日、上は喜を宮中に召して談笑し宴を賜り美食と金銀の食器を与えたが、命の使者に食器を喜の家に留めさせぬよう命じた。上は忌み事が多く、凶事のあった家に食器を残すことを避けたのだという。
  • 喜が死ぬ一日前、上は劉勔・張興世・斉王に詔して喜の罪状を長文で列挙した。詔の大意は次のとおりである。喜は卑賎の出で口先が達者、狡猾な性で元嘉以来書記の小役から出て権威を弄び物情を得ていたが、内実は阿諛の徒で党与を結んでいた。かつて大明中の黟・歙の乱の説得成功、泰始初めの東討における三百人での快進撃も、実は積年の姦計と三呉の人心の掌握によるものであった。東征の際は初めに劉子房を得れば袁標らを一人残らず斬ると豪語していたが、平定後は却って賊帥に恩を施し賄賂を受け取って逃がし、降伏を偽装させて子房を無事に帰した。三呉が最初に南賊に降ったときも喜はその一党を殺さず密かに誠意を通じていた。南賊の軍糧が窮乏する中で朝廷が売官までして急場を凌いだのに、喜の軍中で兵糧130斛を盗んだ者を鞭30で済ませ弁済も求めなかった。荊州平定後は誅求を極め、公私の財を奪い尽くし、蜀の平定を口実に帰還を遅らせ、蛮への使いと称して私腹を肥やし、部下を各地の富豪に遣わして利を貪った。凡そその軍中の兵は劫盗の徒が多く、賊であっても殺さず取り込んで功を偽装させ、義人(真に功を立てた者)が却って冷遇される事態を招いた。喜の一族・門生も東方の名県を連ねて占拠し、公権に代わって私権を振るい、州郡の官吏も手出しできない有様であった。近ごろ突然に軍務辞退と中散大夫への任官を願い出たことも、身の危険を悟った上でのことであろう。今、辺境がなお平穏でない時にこそ喜は謹んで身を慎むべきなのに、身の程を弁えず、これは自らの罪状を悟った上での不穏な策動と見るべきである。喜の心根はもはや文の主(幼主)に仕えるに堪えない。功はあるが罪もまた山積し、除くべきである、と。
  • 喜が死ぬと、詔で子の喜徽に爵位を襲がせた。斉が受禅すると国は除かれた。