宋書卷八十一 列傳第四十一 顧琛

出自と初期の経歴

  • 顧琛は字を弘瑋といい、呉郡呉県の人。曽祖顧和は晋の司空、祖父顧履之、父顧惔はともに司徒左西掾であった。琛は謹厳で華美を好まず、州従事・駙馬都尉・奉朝請から出身した。
  • 少帝景平年間、太皇太后の崩御に際し大匠丞となり、彭城王義康の右軍・驃騎参軍、晋陵令、司徒参軍、尚書庫部郎、本邑の中正を歴任した。
  • 元嘉7年(430年)、太祖が到彦之を派遣して河南を経略させたが大敗し、兵甲は武庫まで空にしてしまった。のち太祖の宴会で北方から帰化した者が同席した際、上が琛に武庫の武具の数を尋ねると、琛はとっさに「10万人分ある」と偽って答えた。実際の武庫の武具は秘して数を明かさぬ決まりであったため、上は問うたことを後悔していたが、琛の機転に喜んだという逸話がある。
  • 尚書省の門には、八座以下の門生でともに入る者は各々定員があり士人を混えてはならぬ決まりがあった。琛は同族の顧碩頭を尚書張茂度の門籍に寄せて碩頭と同席したため、翌年これが咎められ中正の職を遣り出された(尚書の官は大罪なら免官、小罪なら遣り出しとし、遣り出された者は百日で代人がなければ復職できる)。
  • 琛はやがて彭城王義康に招かれ司徒録事参軍・山陰令、また司徒録事となり少府に還った。元嘉15年(438年)義興太守に出た。当初義康は琛を腹心にしようとしたが、琛は劉湛に仕えることを承知せず、まもなく外に出された。元嘉19年(442年)東陽太守に移り、大将軍彭城王義康の防守にあてようとされたが固辞して聖旨に逆らい、廃黜されて数年家にいた。

元嘉末から泰始の変事

  • 元嘉27年(450年)索虜が瓜歩に南下すると、琛は仮の建威将軍とされ、まもなく東海王褘の冠軍司馬・会稽郡事行として任じられ、隋王誕が褘に代わると誕の安東司馬となった。元凶弑逆の際、会稽の五郡を分けて会州を置き誕を刺史としたとき、琛は会稽太守・五品将軍を加えられ将佐を置いた。誕が挙兵すると冠軍将軍を加えられ、事平らかになると呉興太守に遷った。
  • 孝建元年(454年)五兵尚書に徴されたが未拝のまま、再び寧朔将軍・呉郡太守となり、起義の功で永新県五等侯に封ぜられた。
  • 大明元年(457年)、呉県令張闓が母の喪に無礼な振舞いをして廷尉に下されたとき、判決を下した銭唐令沈文秀の処置に誤りがあるとされ弾劾されそうになったが、琛が「文秀を弁護して留めるべし」と衆に言いふらしたことが世祖の怒りを買い、琛は罪を上に転嫁したとして免官された。琛の母は老いて家に留まった。
  • 大明3年(459年)、竟陵王誕が広陵で反すると、かつて誕の佐官であった琛や張牧らも書板を送られ、琛の子らも誕方の役職を受けた。世祖は琛が誕と結んで異心があるのではと疑い、呉郡太守王曇生に琛父子の誅殺を命じたが、たまたま使者の到着が先んじ、琛らは即座に使者を捕えて斬り、二子に首を送らせて世祖に上啓し、忠誠を示した。世祖はこれを嘉して呼び戻し、西陽王子尚の撫軍司馬とした。
  • 琛の母孔氏は当時百余歳。かつて晋の隆安初め琅邪王廞が乱を起こした際に女官を組織し孔氏を司馬に任じ、孫恩の乱後は飢饉で人が人を食う中、孔氏が家の糧を分けて郷里を賑わせ多くの命を救ったため、その徳を慕って孔の名を子につける者が多かったという。
  • 琛は呉興太守に留まったが翌年、郡民が銭を切り削り私鋳したことで免官。のち大司農・都官尚書、新安王子鸞の北中郎司馬・東海太守を歴任し、前廃帝即位で再び呉郡太守となった。太宗(明帝)泰始初め、四方が同時に反した際、琛も呼応して敗れ母を奉じて会稽に逃れたが臺軍が到着すると帰順した。子の顧宝素は琛とはぐれ自殺した。
  • 服喪ののち員外常侍・中散大夫となり、後廃帝元徽3年(475年)86歳で没した。子の顧宝先は大明中に尚書水部郎となったが、かつて琛が左丞荀万秋に弾劾されたことがあり、宝先が郎となったとき万秋がなお在職していたため拝を辞したが、世祖は「劾は職務であり私怨に依るべきでない」と詔した。
  • 当時、江東の名家として会稽の孔季恭(子の孔霊符)、呉興の丘淵之、そして顧琛はいずれも呉音を改めなかった。丘淵之は字を思玄といい呉興烏程の人で、太祖が高祖に従い北伐した際、彭城に留まった冠軍将軍徐州刺史のもとで長史を務め、太祖即位ののち侍中・都官尚書・呉郡太守を歴任し太常のまま没した。