宋書卷七十九 列傳第三十九 桂陽王休範
桂陽王休範
桂陽王休範、文帝の第十八子。孝建三年(456年)九歳で順陽王・食邑二千戸。大明元年(457年)桂陽王に改封、冠軍将軍・南彭城下邳太守。三年、江州刺史・征虜将軍・食邑千戸。秘書監・領前軍将軍を経て七年、左衛将軍・給事中。前廃帝永光元年(465年)中護軍・領崇憲衛尉。太宗(明帝)の定乱後、使持節都督南徐徐南兗兗四州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史・鼓吹一部。薛安都の彭城反乱で従子索兒が南侵すると広陵に進み督北討諸軍事・南兗州刺史・征北大将軍・散騎常侍を加えられ、京口に戻って兗州を解かれ増邑二千戸(受五百戸)。泰始五年(469年)中書監・中軍将軍・揚州刺史。翌年、使持節都督江郢司広交五州豫州之西陽新蔡晋熙湘州之始興四郡諸軍事・征南大将軍・江州刺史、開府儀同三司を加えられたが赴任前に都督南徐徐南兗兗青冀六州諸軍事・驃騎大将軍・南徐州刺史に改められ、これも赴任せぬまま驃騎大将軍のまま江州に戻り、督越州諸軍事・三望車一乗を給された。太宗の遺詔により司空、常侍を侍中に、班剣三十人を加えられた。
休範は生来凡庸で兄弟から軽んじられていたが、太宗はかつて王景文に「休範の才は及ばぬが我が弟ゆえ富貴に生まれた、仏の言う『願わくば王家に生まれん』とはこのことか」と語った。太宗晩年、晋平王休祐は乱暴で禍を招き、建安王休仁は権勢を疑われ、巴陵王休若も害されたが、休範だけは謹直で才乏しく疑われず生き延びた。太宗崩御後、幼主のもとで寒門・近習が権を握り、休範は宗戚として自分こそ宰輔たるべきと自負したが望みが叶わず怨憤を募らせ、勇士を招き武器を整え、尋陽を通る旅人を厚遇して人心を集めた。母荀太妃を廬山に葬り帰還せぬ意志を示し、侍中を解かれた。元徽元年(473年)、朝廷が夏口の守りを固めるため第五皇弟晋熙王燮を郢州刺史とし休範の勢力圏を分断しようとしたことに激怒し、典籤許公輿と挙兵を謀り、城池・楼堞を整備した。大尉に進んだ翌年五月、ついに挙兵。
挙兵に際し袁粲・褚淵・劉秉に長文の書を送り、漢魏の宗室弱体化の教訓、竟陵王誕・晋平王休祐・建安王休仁・巴陵王休若ら宗室の非業の死への不満、太宗晩年の側近政治(阮佃夫・王道隆ら)への批判、自らの挙兵の正当性を縷々論じた。二万の兵・数百の鉄騎を率い尋陽から昼夜兼行で進軍。大雷戍主杜道欣の急報に朝廷は震撼し、平南将軍斉王(蕭道成)が新亭に、領軍将軍劉勔が石頭に、征北将軍張永が白下に布陣、衛将軍袁粲・中軍褚淵・尚書左僕射劉秉らが宮省を守った。休範は新林から歩上し新亭壘に迫ったが、屯騎校尉黄回が偽って降伏を申し出て休範を油断させ、二子(徳宣・徳嗣)を人質に取ったうえで斬殺、黄回と張敬児が休範の首を斬った。
しかし休範の別動隊杜墨蠡・丁文豪らは休範の死を知らぬまま朱雀門を突破し、劉勔は戦死、王道隆も乱兵に殺され、宮省は一時大混乱に陥った(庫蔵は尽き皇太后・太妃が宮中の金銀器を供出したほど)。羽林監陳顯達が杜姥宅で墨蠡を破り、宣陽御道で賊は潰走、墨蠡・文豪らは斬られ、許公輿も新茶村の民に斬られて送られた。晋熙王燮の軍が夏口から尋陽を平定し、休範の子徳嗣の弟青牛・智蔵も誅せられた。建康・秣陵両県に戦死者の埋葬が命じられた。
史論
俗に「鼠を打とうとして器を壊すことを憚る」という。まことにその通りである。阮佃夫・王道隆が主命を専らにし臣が君の道を行った時、義を知る者は皆これを馬上で斬ろうと思ったであろう。桂陽王休範が兵を魏の矢が君の屋に及ぶがごとく走らせた時、忠臣義士は皆肝を潰して先を争った。邪をもって君に付き従う者すら自ら免れることがあるというのに、まして正義を仗んで主のために争う者においてをや。