宋書卷七十六 列傳第三十六 王𤣥謨

出自と北伐の建策

王𤣥謨、字は彦徳、太原祁の人。六世祖の王宏は河東太守・綿竹侯であったが、従叔司徒王允の難により官を棄て北の新興に居し、新興・鴈門太守となったと自ら叙している。祖の王牢は慕容氏に仕え上谷太守となり慕容徳に従い青州に居した。父の王秀は早世。𤣥謨は幼くして人並みでなく、伯父の王蕤は人物を見る目があり「この子は気概高く、太尉彦雲(王允)の風がある」と評した。武帝が徐州に臨んだ際、従事史に辟召され語らってこれを異とした。少帝の末、謝晦が荊州刺史となった際に南蛮行参軍・武昌太守として招かれたが、晦の敗北の際には主謀でないとして許された。元嘉中、長沙王義欣の鎮軍中兵将軍・領汝陰太守を補す。虜が滑台を陥れ朱脩之を連行した際、𤣥謨は上疏し「王途がようやく開いたのに再び塞がったのは天の時だけでなく人事の失、虎牢・滑台の失陥は将の不良のみならず本づき(後方拠点)の脆弱による。西陽の魯陽・襄陽の南郷から兵を発し二道より淆・澠を目指せば、征士は遠役の憂いなく吏士も休息の歌を歌えよう。もし東国の衆をもって牢・洛を経営すれば道遠く独力での成功は難しい」と論じた。𤣥謨はたびたび北侵の策を陳べ、上が殷景仁に「王𤣥謨の陳説には封狼居(狼居胥山に封じる、匈奴討伐の故事)の志がある」と語ったという。

のち興安侯義賔の輔国司馬・彭城太守となり、義賔の薨後は彭城が水陸の要であるとして皇子の臨州を上表し、孝武が出鎮することとなった。大挙北征に際し寧朔将軍・前鋒として黄河に入り、輔国将軍蕭斌の節度を受け碻磝に向かうと戍主は逃走し、滑台を包囲すること数旬に及んだが陥落せず、虜王拓跋燾が号百万の大軍を率いて至った。𤣥謨は自らの見立てを専らにして殺戮を多く行い、城内の茅屋を火箭で焼く進言を軍実の損失を恐れて聞かず、跡地を穴倉としたのみで、魏の救援が迫っても車営を築く進言も容れず、将士の離反を招いた。また物資取引で暴利をむさぼり布一匹を八百に、梨も同様に暴利を取ったため人心を大いに失った。拓跋燾軍の到来で敗走し部下は散り散りとなった。蕭斌が𤣥謨を斬ろうとしたが、沈慶之が「佛狸(拓跋燾)の威は天下を震わせ控弦百万、𤣥謨の敵うところではなく、戦将を殺すのは自弱の策」と諫めて止めた。𤣥謨は処刑を待つ夢の中で観音経千遍を誦せば免れると告げられ、目覚めて千遍を誦し終えた翌朝、処刑直前に停刑の報が届き、代わりに碻磝の守備を命じられた。

江夏王義恭が征討都督として碻磝は守りがたいとして召還させたところ、魏軍に追われ大破し流矢が腕に中った。二十八年(451年)正月、歴城に還ると、義恭は「敗により成るを聞く、腕の金瘡はまさに金印の徴か」と書を送った。元凶弑逆に際し𤣥謨は益州刺史であり、孝武の逆討に際して済南太守垣護之を派して義軍に応じさせた。事平後、徐州刺史・都督を加えられ、南郡王義宣・江州刺史臧質の反乱に際しては輔国将軍・豫州刺史として柳元景と共に梁山に屯し両岸に偃月塁を築いて対峙、義宣が劉諶之を臧質に合流させ城南に布陣させると、𤣥謨は老弱を城の守備に残し精兵で応戦し賊軍を大破した。この功で都督・前将軍・曲江県侯となる。中軍司馬劉沖之が孝武に「𤣥謨は梁山で義宣と通謀していた」と讒言したが上意は明らかにできず、有司に𤣥謨が宝貨を多く取り戦簿を偽ったと奏させ、徐州刺史垣護之と共に免官となった。

まもなく豫州刺史に復し、淮上の亡命者司馬黒石が夏侯方進を主に推し李𢎞と改名して衆を惑わせた際、𤣥謨がこれを討ち斬った。寧蛮校尉・雍州刺史・都督に遷る。雍土は寓居者が多く、𤣥謨は流民の戸籍改編を求めたが百姓が望まず取りやめた。同年、𤣥謨は九品以上の租を貧富相通ずるよう命じたため境内は皆嘆いた。民間では𤣥謨が謀反を企てているとの噂が流れ、時に柳元景が権を握っており、その弟で新城太守の柳僧景が元景の勢を頼り南陽・順陽・上庸・新城の諸郡に𤣥謨討伐の兵を発させた。𤣥謨は内外を鎮めて誤解を解き、孝武に本末を陳べる馳せ書を送り、帝はその虚報と知り主書の呉喜公を遣わして慰問させ、「梁山の風塵は意に介さぬ、君臣の間は互いに保証し合うもの、卿の眉頭を伸ばさせよう」と答えた。𤣥謨は性厳しく笑ったことがなく、時人は「𤣥謨の眉頭は伸びたことがない」と語っていたため、帝はこれをもって戯れたのである。

のち金紫光禄大夫・領太常となり、明堂建立に際し起部尚書を領し、また北選を領した。孝武は群臣を容貌によってあだ名で戯弄することを好み、髭の多い者を「羊」、顔師伯を歯の欠けを理由に「齴」、劉秀之を吝嗇から「老慳」と呼んだ。黄門侍郎宗霊秀は肥満で起居が不便で、集会のたびに賜物を与えては謝礼で倒れ込むのを見て笑いとし、また霊秀の父光禄勲・叔父の像を木で刻んでその家に送った。柳元景・垣護之も共に北人であったが𤣥謨だけは「老傖」(老いた田舎者)と呼ばれ、四方への文書もそのように呼んだ。かつて𤣥謨のために四時の詩が作られ、「堇荼は春の膳に供し、粟漿は夏の食に充て、○醤は秋の菜を調え、白醝は冬の寒さを解く」と詠まれた。孝武はまた崑崙奴の主という者を寵愛し、杖で群臣を打たせ、柳元景以下皆その害を被った。

𤣥謨は平北将軍・徐州刺史・都督に遷る。北土に飢饉があると私穀十万斛・牛千頭を放出して救済した。領軍将軍に転じ、孝武崩御に際し柳元景らと共に顧命を受け、外朝の監督が𤣥謨に委ねられた。当時朝政が乱れ多門となっていたため、𤣥謨は厳直で相容れず青冀二州刺史・都督に転出。少帝が顔師伯・柳元景らを誅殺し狂悖がますます甚だしくなると、領軍として召還されるにあたり子姪は皆病と称して辞退を勧めたが、𤣥謨は「私は先帝の厚恩を受けた身、どうして禍を畏れて免れようか」と言って赴任した。至ってからもたびたび上表して諫争し、涙を流して刑罰の緩和と殺戮の停止を求め民の安寧を訴えた。少帝は大いに怒った。

明帝即位後は厚遇され、四方が反乱した際には大統領・水軍として南討を命じられ、脚疾のため輿での出入りを許された。まもなく大将軍・江州刺史・副司徒建安王として赭圻に至り、諸葛亮の筩袖鎧を賜った。しばらくして左光禄大夫・開府儀同三司・領護軍となり、南豫州刺史・都督に遷った。𤣥謨は性厳しく薄情であり、部下の将軍宗越はさらに苛酷であったため、軍士は「五年の徒刑を受けるほうがましで、王𤣥謨には遭いたくない、𤣥謨はまだしも宗越はもっと我らを殺す」と語り合った。八十一歳で薨じ、諡は荘公。子の王深は早世し、子の王繢が嗣いだ。

史論

朱脩之・宗慤はいずれも将帥の材にして廉潔の操を持ち、称するに足る。王𤣥謨は苛酷薄情ではあったが、その大節を見れば美と称するに足る。少帝が道を失い多くの殺戮を行った時にも、𤣥謨は危険を冒して輔弼に尽くした。これはまさに身を忘れて国に殉じた者と言えよう。