宋書卷七十三 列傳第三十三 顔延之(延年)
顔延之(字は延年、?–456年)は琅邪臨沂の人。博覧強記で文章の美は当時に冠絶し、謝霊運と並び「顔謝」と称された南朝宋を代表する文人。剛直激烈な性格で権貴を憚らず度々左遷・免官を経験したが、私生活は清廉で財利を求めなかった。子の顔竣が権勢を握った後もその供給を一切受けなかった。享年73。
年表(4件)
- 義熙十二年416年高祖北伐に際し宋公拝受の慶事を告げる使者として洛陽へ赴き、道中で詩を作る
- 元嘉三年426年徐羨之らが誅されると中書侍郎に召される
- 元嘉二十九年452年老病を理由に上表し解職を願い出る
- 孝建三年456年卒す。享年73
出自と若年
- 顔延之、字は延年。琅邪臨沂の人。曽祖顔含は右光禄大夫、祖父顔約は零陵太守、父顔顯は護軍司馬。延之は幼くして父を失い貧しく、城外の陋屋に住んだが読書を好み博覧強記、文章の美は当時に冠絶した。酒を飲んでは細かい行儀に構わない性格で、三十歳になっても未婚であった。妹は東莞の劉憲之(劉穆之の子)に嫁いだが、穆之は延之と縁続きになり、その名声を聞いて仕官前に面会を望んだが、延之は応じなかった。
- 後将軍呉国内史劉柳の行参軍となり、主簿・豫章公世子中軍行参軍に転じた。義熙十二年(416年)高祖の北伐に際し、宋公拝受の慶事を告げる使者として同僚の王参軍と洛陽へ赴き、道中で作った詩二首の文辞が謝晦・傅亮に賞賛された。宋国建国後は奉常鄭鮮之に博士に挙げられ、世子舎人に遷り、高祖受禅の後は太子舎人に補せられた。
- 雁門の周続之は廬山に隠棲し儒学で名高く、永初中に召されて京師に館を開いた際、高祖臨席のもと朝廷の名士が居並ぶ中、まだ官位の低い延之が上席に上げられ続之に「三義」を問わせた。続之は雄弁に構えたが、延之は簡潔な言葉で次々にこれを論破し、上(高祖)が続之に自らの説を改めて述べさせたところ、言葉は明快で聴衆はみな称賛したという。
廬陵王義真との交誼、始安太守への左遷
- 尚書儀曹郎・太子中舎人に転じた。当時、尚書令傅亮は自らの文才に並ぶ者なしと自負しており、延之もまた才を恃んで下風に立たなかったため、亮はこれを深く憎んだ。廬陵王義真は文辞を好み延之を厚遇したが、徐羨之らは延之が義真に与するのではと疑い快く思わなかった。
- 少帝即位後、正員郎兼中書に任ぜられ、まもなく員外常侍に転じ、始安太守に出された。領軍将軍謝晦は「昔、荀朂が阮咸を憎み始平郡に追いやったが、今また卿は始安に出される、二つの『始』というわけだ」と評し、黄門郎殷景仁も「俗は悪を悪み俊異を疵とするものだ」と語った。
- 赴任の途上、汨羅を過ぎた際、湘州刺史張紹に代わって屈原を祭る文を作り、蘭の香りが摧かれ玉が折れることに喩えて堅貞の士が世に容れられぬ悲しみを述べ、屈原の忠誠を偲んだ。
五君詠と永嘉太守への左遷
- 元嘉三年(426年)徐羨之らが誅されると中書侍郎に召され、まもなく太子中庶子、歩兵校尉を歴任し厚遇された。延之は酒を好み奔放で世事に疎く、劉湛・殷景仁が要職を占めることに不満を抱き「天下の事は天下と共にすべきで一人の智で決すべきでない」と激しい言葉で権要を非難した。
- 劉湛に「私の名声が上がらないのは貴殿の家の吏となったせいだ」と言い放ち、湛はこれを深く恨み、彭城王義康に讒言して永嘉太守に出された。延之は怨憤して竹林七賢を詠じた「五君詠」を作り、山濤・王戎が貴顕によって除外された一方、嵆康は「鸞翮ときに鎩がれ、龍性たれか馴らせん」、阮籍は「物故すれば論ずべからず、途窮まりて慟すること無からんや」、阮咸は「屡薦められて入らず、一麾にして乃ち守を出づ」、劉伶は「精を韜めて日に沈飲す、誰か知らん荒宴に非ざるを」と詠んだが、これらは実に延之自身の心境を託した自序であった。
- 劉湛・彭城王義康はこの詩の不遜な語調に激怒し、当初小郡への左遷を計画したが、太祖は義康への詔で処分の緩和を指示した。結局、光禄勲車仲遠が後任となり、延之は仲遠と不仲であったため官を辞して七年間、里巷に籠居した。この間、中書令王球(世事に淡白な名公子)が延之の才を愛し親しく交わり、貧窮の延之を経済的に援助した。
起用と「庭誥」
- 晋恭思皇后の埋葬に際し百官の参列が求められた折、江湛之は義熙元年に叙されて以来の除名処分を理由に延之を邑吏として送り札を持たせようとしたが、延之は酔って札を投げ捨て「顔延之は生者にすら仕えられないのに、どうして死者に仕えられようか」と言い放った。
- 閑居中、延之は「庭誥」と題する家訓の文を著した(後に繁辞を削り本旨のみを残したもの)。その内容は、公と私の別、道と欲の関係、富貴と貧賤の処し方、和と信の重んじ方、喜怒の抑制、交友の道、酒色や浮華への戒め、孝悌の実践、貧富に応じた心の持ち方など、閨庭内で子弟を戒めるための処世訓を多岐にわたり説いたものであった。
劉湛誅殺後の復帰
- 劉湛が誅殺された後、始興王濬の後軍諮議参軍・御史中丞に起用されたが、任にあっても寛容で弾劾を行わなかった。国子祭酒・司徒左長史に遷ったが、他人の田を求めて代金を払わなかったことを尚書左丞荀赤松に弾劾され、「田を求め舎を問うは前賢の卑しむところ、延之は利のみを見て詔恩に依りながら代金の支払いを拒み一年余りも決着させなかった、昔の過ちを許され再び登用されながら悔い改めず怨み誹りが絶えず、交友も卑俗な者ばかりで酒色に溺れ朝士を誹謗している」として弾劾され、免官された。
- 後に秘書監・光禄勲・太常に復した。沙門釈慧琳が才学により太祖に寵愛され、単独で榻に座を与えられるほど厚遇されたことに延之は憤り、酔った勢いで上に「昔、同子(宦官)が参乗した際、袁絲(袁盎)が正色して諫めた、これは三台の座であり刑余の者(去勢された者、僧を暗に指す)を座らせるべきではない」と直言し、上の顔色を変えさせた。延之は性格が偏狭激烈で酒の失もあり率直に過ぎたが、私生活は清廉で財利を求めず、布衣粗食で郊外で独酌する姿を人目を憚らず楽しんだという。
- 元嘉二十九年(452年)上表して老病を訴え、「百里を行く者は九十里を半ばとす」の古語を引きつつ晩年に至って初めてその真意を知ったと述べ、頭痛・眼病・手足の冷痺・食欲不振などの病状を詳しく訴え解職を願い出た。翌年、元凶劉劭が弑逆して即位すると光禄大夫とされた。
元凶劉劭の下での機知、世祖の下での晩年
- 子の顔竣は世祖の南中郎諮議参軍として、義軍の挙兵に際し密謀に参画し檄文を起草していた。劭は延之を召してその檄文を示し「これは誰の筆か」と問うと、延之は「竣の筆です」と答え、その理由を問われると「息子の筆跡を私が知らぬはずがありません」と述べた。さらに「言辞がここまで激しいのはなぜか」と問われると、「竣は老父さえ顧みない者、まして陛下に何を憚りましょうか」と答え、劭の怒りは解けて罪を免れた。
- 世祖即位後、金紫光禄大夫領湘東王師に任ぜられた。子の竣は権勢並ぶ者なき地位に昇ったが、延之はその供給を一切受けず、器物も宅も改めず、粗末な牛車に乗り、竣の儀仗行列に出会うと道端に避けるほどであった。馬に乗って里巷を遊行し旧知に会えば鞍上から酒を求め、酔いつぶれることを楽しみとした。かつて竣に「生涯、要人に会うのを好まなかったが、不幸にもお前に会うことになった」と語り、竣が邸宅を新築した際には「上手くやれ、後世の人に拙いと笑われるな」と戒めた。
- 表を奉り師傅の職を辞し親信三十人を加給された。孝建三年(456年)卒した。時に年七十三。散騎常侍特進金紫光禄大夫を追贈され、諡は憲子とされた。延之は陳郡の謝霊運と並んで文才を称され、潘岳・陸機以後の文人で及ぶ者なしとされ、江左では「顔謝」と併称された。著作は世に伝わった。竣には別に伝がある。竣の弟惻もまた文才で知られ、江夏王義恭の大司徒録事参軍に至ったが早卒した。太宗即位の際、延之がかつて自らの師であったことに触れた詔により、惻の子㚟(延之の第三子とされる)が中書侍郎に抜擢された。
史論
- 史臣曰く、身を捧げて主君に仕える以上、義において私情を忘れるべきだとはいえ、君と親とは本来並び立つものではなく、子として、また臣としての道はそれぞれの立場に応じて全うすべきものである。文書の起草や軍政の慣例といったことは成敗の要ではないにもかかわらず、筆を執って親を仇に売り渡すような真似をし、慈しみ深い母をも虎口に投げ込むような行いをもって忠と称することは、古の教えにも聞いたことがない。自らの親を平然と忍びうる者は、必ず他人の親をも忍びうるものであり、自らの孝を忘れて他人に孝を求めさせるのは、我が子を食らわせて鹿を放つ類の話に等しい。「八十の者は一子は徴発せず、九十の者は家を挙げて徴発せず」というのは、年老いて桑楡(晩年)の憂いが迫れば、たとえ官職にあっても朝廷は事を免じるものだからである。まして人の生死が測りがたい戦乱の道であればなおさらのこと、顔延之の言葉が穏当で義に適っていなければ、竣もまたどうして罪を免れ得たであろうか。