出自と初期の経歴
- 裴松之、字は世期。河東聞喜の人。祖父の裴昧は光禄大夫、父の裴珪は員外郎。松之は八歳で論語・毛詩に通じ博く典籍を読み、身を持すること簡素であった。二十歳で殿中将軍を拝命し、東晋孝武帝太元年間、名家の子弟から人材登用を革新した際に琅邪の王茂之・会稽の謝輶と並び選ばれた。
- 舅の庾楷が江陵で松之を招こうとしたが、事情により実現せず、新野太守に任じたが赴かず、員外散騎侍郎を拝した。義熙初年、呉興故鄣令として治績を挙げ、尚書祠部郎に入る。
- 世に私碑を建てる風潮が実情に反することを憂え、碑銘は真に功徳ある者にのみ許されるべきだとする上表を行った(趣旨:功業・徳行なき者にまで碑を立てる風潮は虚偽の常態化を招く、以後は碑を建てようとする者は必ず朝議の許可を得るべきである)。この議は朝廷に容れられ、以後の勝手な建碑は禁じられた。
- 高祖の北伐で司州刺史を領する際、州主簿・治中従事史となり、洛陽平定後、高祖は「裴松之は廟堂の才であり辺務に長く留めるべきでない」として世子洗馬に召し、殷景仁とともに用いた。五廟の楽制を議する際、妃臧氏の廟楽も四廟と同じくすべきと論じた。
- 零陵内史を経て国子博士に召され、太祖元嘉三年(426年)徐羨之ら誅殺後、天下に大使を分遣し風俗・政績を巡察させる中、松之は湘州の巡察を命じられた(同時に派遣された使者:袁渝・孔邈・陸子真・甄法崇・范雝・龎遵・孔黙・王歆之・車宗・阮長之・殷道鸞・李躭之・殷斌・阮園客・潘思先。それぞれ揚州・荊州・南兖州・南北二豫州・徐州・青兖州・雍州・益州・広州・梁州南秦州・交州・寧州を分担)。
- 巡察に際し下された詔(趣旨:王者が巡狩し諸侯を訪ねる古の礼に倣い、政治の得失を問い民の苦しみを聞き、善行を挙げ悪弊を糺すべし)に応じ、松之は復命の上奏で二十四条にわたる詳細な報告を行った(癸卯の詔に基づき風俗の得失を逐一条奏)。その奉使の姿勢は当時大いに称賛された。
- 中書侍郎・司冀二州大中正に転じ、太祖の命により陳寿『三国志』の注釈を行い、伝記資料を博く集めて異聞を増補、完成すると太祖は「これは不朽の業だ」と絶賛した。
晩年
- 永嘉太守として百姓を慈しみ吏民に慕われ、都に戻り通直・常侍として二州大中正を再び領し、南琅邪太守を経て元嘉十四年(437年)致仕し中散大夫を拝した。のち国子博士・大中大夫を領し、何承天の国史編纂を継ぐ役目を負ったが未完のまま元嘉二十八年(451年)八十歳で没した。子の駰は南中郎参軍。松之の文論・晋紀、駰の『史記』注はともに世に行われた。