宋書卷六十四 列傳第二十四 何承天

出自と初期の経歴

  • 何承天、東海郯の人。従祖の何倫は晋の右衛将軍。承天は五歳で父母を失い、叔母の徐氏(廣之の姉)の博学な薫陶を受け、幼くして儒史百家に通じた。叔父の何肹が益陽令となった際随行し、隆安四年(400年)南蛮校尉桓偉の参軍となる。殷仲堪・桓玄らの挙兵の際、禍を恐れ職を辞して益陽に帰った。
  • 義旗(劉裕の挙兵)初年、長沙公陶延寿の輔国府参軍となり高祖に敬意を通じ瀏陽令に任じられたが、まもなく辞職。撫軍将軍劉毅の姑孰鎮守に際し行参軍となる。ある時、鄢陵県史陳満が射た矢が誤って直帥に当たり(人には無傷)死罪に問われかけたが、承天は「漢の張釋之が文帝の乗輿馬を驚かせた者を犯蹕罪で罰金のみに処した故事」を引いて過失を軽く扱うべきと議し、軽い罰に留めさせた。
  • 宛陵令、寻陽太守趙惔の司馬を経て辞職、高祖の太尉行参軍となる。高祖が劉毅を討つ際、諸葛長民が密かに異心を抱いていたことを、劉穆之が承天に問うと「西の懸念はないが、別の懸念がある」と答え、高祖が石頭に戻る際の警戒を促した逸話がある。
  • 太学博士、世子征虜参軍、西中郎・中軍参軍、銭唐令を経て、高祖が寿陽で宋台を建てた際、尚書祠部郎として傅亮とともに朝儀を撰した。永初末、南台治書侍御史に補され、謝晦の江陵鎮守に南蛮長史として従った。

尹嘉の獄と謝晦の乱

  • 尹嘉という者が貧困のため母熊が身を売って子の借財を返済したが、これが不孝の罪に問われ死罪とされかけた事件で、承天は「母が子のために借財を返そうとしたのは子を思う情によるもので、殺害を求める告発には当たらない」と議し(趣旨:法文を厳密に照らせば尹嘉母子はいずれも死罪に相当しないとし、疑わしきは軽きに従う原則を説く)、両名とも赦に会い免れた。謝晦は衛将軍に進み、承天は咨議参軍・領記室に転じた。
  • 元嘉三年(426年)、謝晦が討伐されようとした際、弟の黄門郎謝㬭が密報すると、謝晦は承天に対応を問うた。承天は「朝廷の大軍を持って一州を攻めるのは大小が違いすぎる、逆順も異なる。境外に脱するのが上策、次善は腹心の兵を義陽に配し夏口で一戦して敗れれば義陽に退くこと」と答えたが、謝晦は「荊楚は用武の国、兵力は十分ある、決戦してから逃げても遅くない」と拒んだ。
  • 承天は謝晦のために檄文を作らされたが、湘州刺史張邵が謝晦に同調しないと見て千人を派して襲おうとするのを、承天は「張邵の意向はまだ分からず、討つべきでない」と止め、実際に張邵の兄茂度が謝晦と親しかったため兵は送られなかった。
  • 前益州刺史蕭摹之・前巴西太守劉道産が江陵に戻った際、謝晦が両名を殺そうとしたが承天は力を尽くして救い、両名は全免された。謝晦が敗走した後、承天は府に留まり従わず、到彦之が馬頭に至ると自ら出頭して罪を認め、彦之はその誠実さを認めて許し、南蛮府事を代行させた。

尚書殿中郎・法制論議

  • 元嘉七年(430年)到彦之の北伐に右軍録事として請われたが、彦之敗退の際、承天は軍旅の才ではないとして刑責を免れ、尚書殿中郎兼左丞に補された。
  • 呉興餘杭の民薄道挙が劫盗の罪で、その従弟である代公・道生らも同籍の期親として連座し補兵されようとした事件について、承天は「劫の罪により連座する期親の規定は大功親には及ばない。代公らの母が期親であっても、婦人は三従の道により嫁げば夫に従い夫死ねば子に従うもので、叔父が既に亡くなっている以上、代公らは大功親に過ぎず補謫の対象外とすべきだ」と議し(趣旨:法文の文言を機械的に当てはめると婦人の三従の理に反する矛盾が生じるため、代公母子はともに赦されるべき)、認められた。
  • 故司徒掾孔邈の未決の上奏について、邈が既に死去していたため議者は名義変更を求めたが、承天は「亡き者の名で奏上できないという慣例に他意はなく、単に不祥を避けるだけの慣習であり、繁雑な忌避は簡素化すべきだ」と論じた。
  • 承天は性格が剛愎で朝廷の高官に対しても意を屈せず、その長所ゆえに同僚に侮られがちであった。尚書僕射殷景仁の裁定で衡陽内史に出されたが、在任中も士人と協調せず不清廉の廉で糾弾され投獄されたが、赦により免れた。
  • 元嘉十六年(439年)著作佐郎として国史を撰した。年老いていたが同僚の若手(潁川の荀伯子)から「妳母(乳母)」と揶揄されると、承天は「鳳凰が九子を率いるようなもの、乳母とは何事か」と切り返したという。太子率更令・著作を兼務。
  • 丹陽の丁況ら長期間葬儀を行わない者たちについて、承天は「礼にいう『還葬』は凶年の特例であり、久しく棺すら用いない丁況らは薄情のそしりを免れないが、これまで教化・法の適用が不十分だったのに突然厳罰を科すのは酷である」と議し(趣旨:既往は問わず、以後は違反者を糾弾し、三年の除服後には遡って告発しないよう定めるべき)、これが制度化された。
  • 元嘉十九年(442年)国子学を立てるにあたり本官のまま国子博士を領し、皇太子の孝経講義に中庶子顔延之とともに執経を務めた。のち御史中丞に遷った。

安辺論(対北方防衛策)

  • 索虜(北魏)が国境を侵す中、太祖が防御策を諮問し、承天は上表を行った(趣旨:異民族対策の要諦を歴史に照らして論じ、詳細な「安辺論」を撰したので採用を乞う)。以下その論旨。
  • 漢代の匈奴対策は「征伐」と「和親」の二策に大別されるが、いずれも一長一短がある。現状(北魏が青兖を侵し三王が藩鎮に出た情勢)では、まだ大挙討伐の機は熟しておらず、まず民を撫育し敵の自壊を待つのが得策とする。
  • 衛青・霍去病のような大遠征は時勢が異なり、まず淮泗に屯田して青徐を実らせ、兵糧を蓄えたのちに十万の精鋭で一挙に平定すべきとし、拙速な出兵は民の負担を増すだけで益がないと説く。
  • 民が北魏に投降するのは冠服の慕いではなく、残害・剥奪から逃れるためであり、これを討って報復するのは民心を得る道であるが、追撃を深追いすれば敵の困獣の反撃を招くとし、「安辺固守」を長計とすべきとする。
  • 具体策として次の四点を提示:一、遠民を近地に移す(青兖の民を内地に移し、険阻の地を防衛拠点とする)。二、城隍(城壁・堀)を修復する(千戸単位で城に集住させ、戦時に二千の兵で三万の敵に対抗できる体制を作る)。三、車牛を組織し戦車隊を整備する。四、丁数に応じ武具を課し、平時から武備を怠らせない。
  • 管仲・商鞅の富国強兵策を引き、民を軍事に組み込む制度が漢魏以降廃れたことを憂い、移民・城郭修復・族居・武備課税を通じて「耕農の器を府庫の宝とし、田蚕の民を兼城の用とする」体制を提唱。
  • 具体的な国境防衛の細則(弓・鉄の私売禁止、関所の設置、武具の刻印管理、鉅野湖沢の水軍拠点整備など)にも言及した。

晩年と著作

  • 承天は囲碁を好み職務を怠りがちであったため太祖が碁盤を賜り、承天は謝表で「これは張武への金の賜りにも似たことでしょう」と述べた。琴(筝)も能くし銀装の筝を賜った。
  • 尚書左丞謝元と不仲で互いの過失を糾弾し合った。太尉江夏王義恭の歳費(銭三千万・布五万匹・米七万斛)を巡り、義恭が浪費のため翌年分の前借りを求め、謝元が独断で銭二百万を給付した不正を、承天が糾弾して謝元は禁錮終身となった。謝元は後に承天が茭(飼料)を不当な高値で官属に売った件を告発し、承天も一時白衣(無位)で職に留められた。
  • 元嘉二十四年(447年)廷尉に遷るはずが、吏部への内定情報を漏らした罪で免官され、七十八歳で家で没した。かつて八百巻あった礼論を三百巻に整理統合し、雑論とともに世に伝わった。また元嘉暦を考定した(律暦志に詳しい)。

史論

  • 史臣曰く――辺境統治の術は前代に詳しく論じられてきた。異民族は狡猾で機敏なため、必ず障塞を固め烽火・柝を厳にして、往来の道を制するのが肝要である。漢は秦の旧塞により夷を防ぎ、呉魏は江淮を境として地の険を頼みに民と守りを固め耕作しつつ機を伺った。高祖が受命した当初は天下の経略がまだ及ばず、河を越えて守っても兵は孤立し援軍も届かなかった。これは建国当初、内政を優先し外征を後回しにした結果である。以後、州境を分けるのみで囲守・耕戦の備えを欠き、敵が来ないことを恃んで守りを怠った結果、周漢の防備の策が宋では失われ、ついに胡馬の横行を許し、藩落の固めなき民は虜囚の辱めを受けるに至った。哀しいことである。何承天の安辺論は博く篤い議論であり、ここに記録する。