宋書卷六十三 列傳第二十三 殷景仁

出自と出仕

  • 殷景仁、陳郡長平の人。曾祖の殷融は晋の太常、祖父の殷茂は散騎常侍・特進・左光禄大夫、父の殷道裕は早世した。景仁は幼くして大成の器量があり、司徒王謐がこれを見込んで娘を娶らせた。
  • はじめ劉毅の後軍参軍、高祖の太尉行参軍となり、百官に人材推挙を義務づけその成否で賞罰を定める制度を建議した。宋台祕書郎・世子中軍参軍・主簿を経て驃騎将軍道憐の主簿、衡陽太守、宋世子洗馬、中書侍郎を歴任。
  • 文才は華美でないが思慮深く、口では議論せずとも理を極め、国典・朝儀・旧章・記注をすべて記録し、識者は彼に当世を担う志があると認めた。
  • 高祖に重用され太子中庶子に遷り、少帝即位で侍中に補されたが辞退の上表を重ねた(趣旨:自らの器量が身に余る官職に不相応であると謙遜する内容)。詔により黄門侍郎に降格し、のち射声校尉を兼ね、左衛将軍に転じた。
  • 太祖即位後さらに厚遇され、侍中・左衛のまま。当時、侍中の王華・王曇首・劉湛と並び「四人の侍中」として並び称され、近来の美事とされた。
  • 元嘉三年(426年)、太祖が謝晦を征する間、司徒王𢎞は中書省に入って留守を統べ、景仁は長く直宿してともに任にあたった。謝晦平定後、到彦之に代わり中領軍・侍中となる。
  • 太祖の生母章太后が早世していたため、太祖はその生母代わりの蘇氏に篤く仕えていたが、元嘉六年(429年)蘇氏が没すると太祖自ら哭しに赴いた。詔により、蘇氏の待遇を漢代の推恩の典(外戚に准じた恩典)に倣うべきか諮問された。
  • 景仁は「至徳の感応で瑞祥が現れ、皇統の正統性はすでに明らかである。蘇夫人への私情による特別待遇は先例なく、公正を重んじるべきだ」と議論し、太祖はこれに従った。
  • 母の喪に服し終えると領軍将軍に起用されたが固辞し、太祖は綱紀に代拝させ中書舎人周赳に輿を持たせて府に送らせた。元嘉九年(432年)喪が明けて尚書僕射に遷る。
  • 太子詹事の劉湛が代わって領軍将軍となる。劉湛と景仁は元来仲が良く高祖の代からともに宰相の器と目されていたが、王𢎞・華・曇首が相次いで亡くなり景仁が湛を都に呼び戻して政事に参加させたところ、湛は自分より地位の低かった景仁に先を越されたことに憤り、司徒彭城王義康に深く結んで景仁を陥れようとした。
  • 元嘉十二年(435年)、景仁は中書令・護軍僕射に遷り、さらに僕射のまま吏部を領した。湛はいよいよ怒り、義康にその言を吹き込んで景仁を太祖に讒したが、太祖の景仁への信任はかえって篤くなった。景仁は親しい者に「彼を引き立てて入朝させたら、入るなり人に噛みついてきた」と嘆いた。
  • 病と称して官を辞そうとしたが許されず、太祖は黄門侍郎を遣わして病を見舞わせた。湛は密かに刺客を送って景仁を殺そうと謀ったが、太祖がその計を察し景仁を宮禁に近い西掖門外の旧鄱陽王邸に移し護軍府としたため計画は実現しなかった。
  • 景仁は病臥すること五年、表向きは太祖に会わなかったが、密かに日に十数通の上奏を交わし朝政の大小を諮っていた。その挙動は極めて秘匿され、誰もその実情を窺い知る者はなかった。
  • 劉湛が収監された日、景仁は衣冠を整え、その夜太祖が召すと脚の病を装いつつ小輿で参内し、政務処理を一任された。義康に代わり揚州刺史・僕射・領吏部となったが、印綬を授かる儀式のあと様子が急変し、寛厚な性格が急に苛烈になった。
  • ある冬、大雪の中「今年は男女の婚礼が多い」と語り、また輿の中で「なぜ閤に大樹があるのか」と驚き「私の見間違いか」と言うなど、病状は篤くなった(劉湛の祟りとも言われた)。太祖は州での不祥を案じ僕射下省に留まらせたが、月余りで没した。享年五十一。
  • 侍中・司空を追贈、諡は文成公。太祖は荊州刺史衡陽王義季への手紙で殷僕射の死を深く惜しんだ。世祖大明五年(461年)、行幸の途上で景仁の墓を通った際、祭祀を命じる詔が下された。
  • 子の道矜は幼くして不慧、官は太中大夫に至った。道矜の子の恒は太宗の代に侍中・度支尚書となったが、父の病を理由に有司に弾劾され、散騎常侍に降格された。