母への追慕と高祖の寵愛
- 張敷、字は景胤、呉郡の人、呉興太守張邵の子。生まれて間もなく母を失い、数歳の時に母の行方を尋ねると、家人は死別の理を告げた。敷は幼いながら思慕の色を見せ、十歳あまりの頃、母の遺品を求めて自らの持ち物をすべて分け与え尽くしたが、母の遺品として得たのは絵扇一本のみで、これを箱にしまい大切にし、感慨のたびに箱を開けて涙を流した。従母(叔母)に会うと常に悲しみむせび泣いた。性格は端正で気品高く、玄学の書を好み文論にも通じ、若くして盛名を得た。高祖はこれを愛し世子中軍参軍に任じ、たびたび引見した。永初初め秘書郎に遷り、省中に宿直していた際、中書令傅亮(権勢厚い重臣)が敷の好学を聞いて訪ねたが、敷は臥したまますぐに起きず、亮は怪しんで帰った。
太祖の勅命への拒否と朝廷での矜持
- 父の張邵が湘州の職を去ると、敷は太祖に付き従い西中郎参軍に板任された。元嘉初め員外散騎侍郎・秘書丞となる。江夏王義恭が江陵に鎮すると撫軍功曹に任じられ、のち記室参軍に転じた。義恭が太祖に学識ある沙門を求めた際、その沙門が同行を求めたが、折しも敷が休暇から江陵に帰る途中であったため、太祖は沙門に「張敷が西へ向かうから同乗させよう」と告げ、敷が暇乞いに来た際にも「撫軍は道心ある人物を求めている、そなたは後の船に彼を乗せ、道中語り合ってやってほしい」と命じたが、敷はこれに従わず「私の性分は雑多な同乗を好みません」と答え、上は大いに不快に思った。
- 正員郎に遷る。中書舎人狄当・周赳はともに要務を管掌しており、同じ省の名家である敷を訪ねようとした際、赳は「彼が快く迎えぬなら訪ねぬ方がましだ、軽々しく行ってよいものか」と言ったが、当は「我々も既に員外郎の身、同席できぬはずがない」と答えた。敷は先に壁から三、四尺離して二つの牀を用意し、二人の客を迎えて歓談したが、その後左右に「私から遠い客の席を動かせ」と命じ、赳らは顔色を失って去った。敷の自負とはこの通りであった。音声・容儀を大切にし、細やかで悠揚たる趣を尽くし、人と別れる際は手を握り「またお会いしましょう」と言い、その余韻は長く消えなかった。張氏の後進は今日まで彼を慕い、その家風の源流は敷に始まるという。
父の死と哀毀
- 黄門侍郎・始興王劉濬の後軍長史・司徒左長史に遷ったが拝命前、呉興にいた父が没したとの報を病篤しと聞き、敷は駆けつけ、都を発って呉興に着くと喪服に着替え、十日余りしてようやく水を口にし、葬儀が終わっても塩や野菜を口にせず、ついに衰弱して病となった。伯父の張茂度がたびたび諭したが、そのたびに感極まって気を失い、また息を吹き返すことを繰り返し、茂度は「そなたを慰めることで益があればと思ったが、かえって悪化させた」と言い、以後訪ねなくなった。喪が明けきる前、四十一歳で卒した。琅邪の顔延之は張茂度に弔いの書を送り「賢弟子(敷)は若くして正しい道を歩み、長じては道理を大切にし、清らかな気風は生まれつきのものであった、初めて言葉を交わして以来忘年の交わりを結び、離れていても心の通いは絶えなかった、まだこれから慰め合えると思っていたのに、中年で急逝されるとは、その訃報に接し悼みは尋常でない、あなたの家の教えは篤く、また実に家の宝であった、それを一朝に失われたお心はいかばかりか」と述べた、その敬重ぶりはこの通りであった。
- 世祖即位後、詔に「司徒故左長史張敷は貞心にして簡素、幼くして風格を樹て、喪に居て哀毀のあまり命を落とし、孝道はまことに篤かった、追贈して顕彰すべきだ、侍中を追贈せよ」とあり、その住まいのあった里は「孝張里」と改称された。子はなかった。