宋書卷六十二 列傳第二十二 王微

出自と学芸

  • 王微、字は景玄、琅邪臨沂の人、太保王弘の弟の子。父の王孺は光禄大夫。微は若くして学を好み通覧しないものはなく、文章に長け、書画をよくし、音律・医方・陰陽術数にも通じた。十六歳で州の秀才に挙げられ、衡陽王劉義季の右軍参軍にも推されたがいずれも就かなかった。司徒祭酒として起家し、主簿、始興王劉濬の後軍功曹・記室参軍、太子中舎人、始興王友を歴任。父の喪により去官し、服除後は南平王劉鑠の右軍諮議参軍に除せられたが、微はもとより仕官の意欲がなく、病と称して就かなかった。中書侍郎、さらに南琅邪・義興太守に擬されたがいずれも固辞した。

吏部尚書からの推挙への拒絶

  • 吏部尚書江湛が微を吏部郎に推挙すると、微は湛に長い書を送って強く拒絶した。その要旨は、自分は心身に病があり吏部郎という選挙の要職には全く適さないこと、噂になれば世の物笑いの種になること、名門の子弟だからといって才もない者を無理に登用すべきでないこと、自分は十年近く兄姉から遠ざかり体も不自由で、とても選挙という重責を担う状態にないことなどを、多くの故事を引きながら痛烈に論じ、決して受けないと表明した。
  • その後、微は始興王劉濬の府吏となっており、濬がたびたび気遣いの言葉をかけると、微は返書に凝った文辞を飾って応じたが、その文は古めかしく抑揚に富んでいたため、袁淑はこれを見て屈辱を訴えるものだと評した。微はこれを受け従弟の王僧綽に書を送り、自らは名利を求めず節度を守ることこそ王家代々の家風であり、たとえ人から誤解されても意に介さないと述べ、自らの生き方を弁明した。
  • 世間には、微が推挙された背景に廬江の何偃も議に関与していたとの噂があり、何偃はこれで微に恨まれることを恐れて書を送り自ら弁明したが、微は返書で、何偃が以前義興で自分を褒めたことに触れつつ、自分はもとより風流に疎い庸才に過ぎず、官職への欲がないことを重ねて説明し、恨みに思っていないと伝えた。

弟王僧謙の死と哀傷

  • 微は門屋の一室に住み、書を読み古を玩ぶ生活を十余年続けた。太祖はその占筮の才を認め、名高い蓍(占い道具)を賜った。弟の王僧謙もまた才誉があり太子舎人となったが、病を得て微が自ら治療にあたったところ、僧謙は服薬の量を誤り亡くなってしまった。微は深く自らを咎め、以後自分の病も治療せず、僧謙への哀痛が止まらず、書を作って霊に告げた。その文では、僧謙が幼い頃から聡明で謙虚な人柄であったこと、共に書を読み琴を聴き語り合った日々、自らの過った処方によって弟を死なせてしまった痛恨、婦人の貞節(再嫁すべきでないという当時の考え、劉新婦・殷太妃らの貞節の例を引く)について弟と語り合った思い出などを綴り、自らも長くは生きられないだろうと述べた。
  • 元嘉二十年(443年)、王僧謙は二十九歳で病没した。王微はその四十日後、自らも後を追うように卒した。遺言で薄葬を命じ、輀車・喪旗・鼓や引き綱などの飾りを設けさせず、五尺の牀を霊座として二晩で撤去させ、生前弾いていた琴をその牀の上に置かせた。何長史(何偃)が弔問に訪れると、その琴を彼に与えた。子はなく、家人はその遺志に従った。著した文集が世に伝わった。世祖即位後、詔に「王微は志操貞潔で文行敦厚、名門に生まれながら安らかに隠棲し、その生き方は薄俗を厚くするに足るものであった、不幸にも早世した、朕は深く悼む、秘書監を追贈せよ」とあった。

史論

  • 史臣曰く、燕の太子が一言発すると田光先生は舌を吞んで死に、安邑の令が屠者を戒めると閔仲叔はその場を去り沛へ赴いた。これはひとえに内に矜持を懐き、軽々しく人に干渉されることを潔しとしなかったからである。袁淑の戯れの笑い一つに対し、王微は幾枚もの書簡を連ねて弁明した。これもまた名を惜しむ士が自らを珪璋(玉の礼器)のように清らかに保ち、塵や汚れがその身に及ぶことを許さなかったからである。