宋書卷六十 列傳第二十 王韶之

『晋安帝陽秋』の撰述

  • 王韶之、字は休泰、琅邪臨沂の人。曽祖の王廙は晋の驃騎将軍、祖父の王羨之は鎮軍掾、父の王偉之は本国郎中令。韶之は家が貧しく、父が烏程令であったため県境に住み、史籍を好み博渉多聞であった。初め衛将軍謝琰の行参軍。偉之は若くして志があり、詔命表奏を自ら書写し太元隆安の時事の大小を撰録しており、韶之はこれをもとに私に『晋安帝陽秋』を撰した。完成すると史職に適すると評され著作佐郎に除せられ後事を続けさせられ、義熙九年(413年)完成、叙事は巧みで後代の佳史とされた。尚書祠部郎に遷る。
  • 晋帝は孝武帝以来内殿に常在し、武官・主書が中で取り次ぎ、一人が詔誥を掌る任にあり西省と呼ばれ、傅亮・羊徽が相次いでこの西省の事を領した後、王韶之が中書侍郎としてこれを引き継いだ。安帝が崩じた際、高祖は韶之に帝の左右と共に密かに毒殺させたという。恭帝即位後、黄門侍郎に遷り著作郎を領し西省もそのまま、詔奏はすべて韶之の文であった。高祖受禅後、驍騎将軍・本郡中正を加えられ黄門はそのまま、西省の職は解かれたが再び国史編纂を掌った。

刑罰・休暇制度をめぐる駁論

  • 有司が東冶の士朱道民が三人の脱走士を捕らえたことにより慣例で赦免しようとした際、韶之は上啓して、罪により士(苦役)に落とされた十余の条項の中で、父母を偽って死んだと届け出た者・父母を誣告した者・淫乱で義を破った者・反逆した者の四条は特に重く、命が助けられ士籍に落とされただけでも寛大な処置なのに、さらに服役を免れさせて平民同様に扱うべきではないと論じ、この四条は贖罪の恩赦の対象とすべきでないとした。侍中禇淡之も韶之に同調し、他の三条はそのままとすることが認められた。
  • また員外散騎侍郎王実之が休暇を請うた事案について、旧制では六十日、太元中の改制で百日、さらに千里外の場合は次年限を合わせて二百日認められていたが、これは一時の便法であり、会稽は千里に満たず百日で足りるはずで、私的な事情があれば別途上表すべきで、朝籍にありながら長く私邸に留まるべきでないと駁論した。ただ河洛・嶺沔漢のような遠方在住者は道が険しく長いので別途条例を定めるべきとし、これも認められた。

晩年の治績

  • 璽封の誤りにより黄門を免ぜられた(事は謝晦伝に見える)。韶之は晋史の序で王珣の貨殖・王廞の反乱を記したが、珣の子王弘・廞の子王華がいずれも貴顕であったため、韶之は陥れられることを恐れ徐羨之・傅亮らに深く結んだ。少帝即位後侍中に遷り驍騎はそのまま。景平年間、呉興太守に出た。羨之が誅されると王弘が入朝し揚州刺史を領したが、弘は韶之とは絶交しなかったものの未面識の弟たちは往来を絶った。韶之は郡にあって常に弘に糾弾されることを恐れ勤勉に政務にあたり、治績は美しく、弘もまた私怨を抑えた。太祖は両者を共に嘉した。在任数年で良守と称され秩を中二千石に加えられた。十年(433年)、祠部尚書に召され給事中を加えられたが、郡を去る際に不正な取り立てを行ったため免官、十二年(435年)再び呉興太守に出て、その年卒した、時に五十六歳。七廟歌辞は韶之の作。文集が世に行われた。子の王曄は尚書駕部・外兵郎・臨賀太守。