出自と世祖の寵遇
- 江智淵、済陽考城の人。湘州刺史江夷の弟の子。父の江僧安は太子中庶子。智淵は初め著作郎、江夏王義恭の太尉行参軍、太子太傅主簿、随王劉誕の後軍参軍を歴任。世父の江夷は盛名があり、夷の子江湛もまた清名を得て父子とも顕達していたが、智淵の父は若くして名声がなかったため、湛は智淵への礼遇を簡略にし、智淵はこれを常々恨みに思い、節句のとき以外は湛の門に入らなかった。随王誕の佐官として襄陽にあった頃、誕は智淵を手厚く遇した。当時咨議参軍謝荘・府主簿沈懐文は智淵と親しく、懐文は常々「人が持つべきものはすべて持ち、人が持つべきでないものは何一つ持たない、それが江智淵だ」と称えた。
- 元嘉末、尚書庫部郎に除せられた。当時、高い家格の者は台郎には任じられない慣例だったが、智淵は後ろ盾のない孤立した身でこの選に入ったため、意に沿わず固辞して拝さなかった。竟陵王誕に再び板任され騎軍・のち主簿、随って司空主簿・記室参軍・領南濮陽太守を歴任、従事中郎に遷った。誕が反逆を企てると智淵はその気配を悟り、暇を請うて先に都へ戻り、事が発覚すると中書侍郎に除せられた。
- 智淵は文雅を愛し詞采清らかで、世祖に深く知遇され、その恩礼は朝廷随一であった。上の私的な宴は頻繁で、群臣を数人ずつ招いて集わせることが多かったが、智淵は常にその筆頭であり、同僚がまだ前に進まぬうちに独り先に召し入れられた。智淵はそのたびに衆を抜きん出ることを恥じ、喜びの色を見せたことはなかった。行幸に従い群僚と共にある際、伝詔の使者が馳せてくるのを見て自分が呼ばれると悟るたび、恥じ入った様子を隠さなかったといい、論者はこれを美点とした。驍騎将軍・尚書吏部郎に遷った。
諫言と晩年
- 上は酒宴のたびに群臣を辱め、互いに嘲弄させて笑いの種にした。智淵はもとより慎み深く次第に上の意に沿えなくなった。あるとき王僧朗にその子王景文を嘲弄させようとした際、智淵は正色して「このような戯れはふさわしくないのではないでしょうか」と諫めると、上は怒って「江僧安(智淵の父)は愚か者だ、愚か者同士で庇い合うのか」と言い放った。智淵は席に伏して涙を流し、これ以後寵愛は大きく衰え、新安王劉子鸞の北中郎長史・南東海太守に出され、寧朔将軍を加えられ南徐州事を代行した。
- 先に上の寵姫宣貴妃殷氏が卒した際、群臣に諡を議させ、智淵は「懐」と上議した。上はその諡が十分に讃美していないとしてこれを深く恨んだ。後に車駕が南山に行幸し馬で殷氏の墓に至った際、群臣が皆騎馬で従う中、上は馬鞭で墓の石柱を指して智淵に「ここには『懐』の字などあってはならない」と言い、智淵はますます恐れた。大明七年(463年)、憂いのうちに卒した、時に四十六歳。
- 子の江季筠は太子洗馬となったが早く卒し、後廃帝即位の際、皇后の父として金紫光禄大夫を追贈された。季筠の妻は王氏、平望郷君。智淵の兄の子江槩は早くに孤児となり智淵が我が子のように養った。槩は黄門吏部・侍中・武陵王北中郎長史・南東海太守・行南徐州事を歴任、後廃帝の元徽中に卒した。
史論
- 史臣曰く、将帥とは衆を統べる者の名であり、士卒とは一人一人の力を用いるものだ。座して兵略を論じ千里の勝敗を制するというが、盾を掲げて先陣を切り、腸を踏み血を渡るような実戦の場に身を置いてこそのものではないか。山濤が羊祜を評して「大将は筋力を要さぬとはいえ、軍中ではやはり頑健であるべきだ」と言ったが、この言に従えば杜預(叔子)の体力は弱いということになろう。杜預は文士儒生であり弓は札を貫けず馬に跨ったこともなかったが、一朝にして二十余万の大軍を統べ平原都督となった。王戎は林に手を組んで入るような文人でありながら専征の任を受けた、何も山西の猛士や六郡の良家の出でなければ朝堂で兵を任され推轂の重責を担えないわけではない。虜兵が深く侵入し徐々に恐慌が広がった際、張暢の正論がなければ彭城・汴水の地は危うかった。自ら矢玉を防ぎ雲衝(攻城兵器)を打ち払ったわけではないが、それでも窮まった城壁に仮初めの命脈を保たせ、危城を安んじたのである。仁者の勇はいたずらな机上の説ではない。