出自と北伐反対論
- 何偃、字は仲弘、廬江灊の人。司空何尚之の中子。州の議曹従事に辟され秀才に挙げられ、中軍参軍・臨川王義慶の平西府主簿を経て太子洗馬に召されたが拝さず。元嘉十九年(442年)丹陽丞、廬陵王友・太子中舎人・中書郎・太子中庶子を歴任。義陽王劉昶が東宮に在るとき、何偃がその国事を代行した。
- 二十九年(452年)、太祖が再度の北伐を群臣に諮った際、何偃は「敵に確かに残虐があるなら討伐は難しくないが、廟算に遺漏がなくとも将兵の練度は未熟で、辺境の鎮戍は充実しておらず、辺民は流散して未だ本業に復していない。物資を辺境に注げば根本(内地)を損なう恐れがある。往年の敗戦に続き内訌もあり、乱に乗じるのは容易に見えるが、淮泗の諸州も疲弊し流民は未だ帰らず傷も癒えていない。加えて攻守の形勢は対等でなく、迫れば苦戦し囲めば長期化し、その間に奸謀が生じる恐れがある。今の弊害はまだ致命的ではなく、来たるべき敵の脅威も深刻ではない、しばらく忍んで天の時を待つべきだ」と論じ、北伐に反対した。
- 始興王劉濬の征北長史・南東海太守に遷る。元凶弑立後は侍中となり詔誥を掌った。当時父の何尚之は司空尚書令であり、父子ともに権要の座にあることを人々は危ぶんだが、尚之と偃は機を巧みに捉え、時の誉れを得た。世祖の即位後も待遇は変わらず、大司馬長史に除せられ、侍中領太子右庶子に遷った。百官に率直な意見を求められた際、偃は「農を重んじ本を恤み、官を併せ事を省き、考課によって能否を知り、俸給を増やして官吏の不正をなくし、良い太守には長くその職を全うさせ、都督と刺史の任は分けるべきだ」と論じた。驍騎将軍を改め領し、旧臣以上の親任を受け、吏部尚書に転じた。父尚之が選挙の任を去って五年足らずで偃がその跡を継いだことは世の栄誉とされた。
顔竣との軋轢と晩年
- 侍中顔竣がこの頃出世し、何偃とともに門下に列し、文義の交わりで親しくしていたが、竣は自らの寵任は厚いのに位次が偃と大差ないことに不満を抱くようになった。偃が竣に代わって選挙を掌ると竣の憤懣はいよいよ募り、両者の間に隙が生じた。竣の権勢は朝野を傾けるほどとなり、偃は不安から心悸の病を発し、意識も乱れ、上表して職を辞し病と称して出仕しなくなった。世祖は偃を深く遇し、名医と良薬を尽くさせて治療させ、ようやく回復した。
- 上(世祖)の長女山陰公主は寵愛一時に傾き、偃の子何戢に嫁いだ。戢は玄学の談論を好み『荘子』逍遥篇に注を作り世に伝わった。大明二年(458年)、偃は官にて卒した、時に四十六歳。世祖は顔竣への詔で「何偃はついに異界の人となった、長く続くはずの志は失われた、姻戚として親しく交わってきた、哭に臨んで悲しみを禁じ得ない、逝ってしまった、どうしようもない、散騎常侍金紫光禄大夫を追贈し本官はそのまま、諡は靖とせよ」と述べた。子の何戢は昇明末に相国左長史となった。