出自と銭貨存廃の議
- 孔琳之、字は彦琳、会稽山陰の人。祖父の孔沈は晋の丞相掾、父の孔殿は光禄大夫。孔琳之は剛直で志力があり、文義を好み音律に通じ、囲碁を能くし草隷に妙を得た。郡の主簿の命に応じず、のち本国常侍に辟された(輕之尉、原文どおり)。
- 桓玄の時、銭を廃して穀帛を用いようとする議が出た際、孔琳之は『洪範』八政において貨は食に次ぐとされることを引き、交易の要である銭を廃すれば農・工それぞれの本業が妨げられると論じ、聖王が無用の貨(銭)を制して有用の財を流通させた由来を説き、穀帛を貨として用いれば毀損・浪費が多く、鍾繇や司馬芝の議論(魏で銭を廃した弊)、魏明帝の時代に三十年銭を廃した後に不便のため復用した先例を挙げ、銭を廃せば貧民は坐して困窮すると論じ、救弊の術は銭を廃することにはないと結論した。
肉刑復活への反対
- 玄乂(の一派)が肉刑の復活を議した際、孔琳之は、唐虞の象刑・夏禹の立法など時代により刑が寛猛を異にしてきたこと、『書』に「刑罰世軽世重」とあるように時に随うべきことを述べ、漢文帝が肉刑を廃して刑措と称されたが実際には名軽実重となり景帝がこれを緩めてかえって民を慢らせた経緯、また棄市の刑がもと斬右趾であったのを漢文帝の誤りをそのまま承け改めなかったこと(鍾繇・陳羣の議も右趾を棄市に代えるべきとした)を述べ、軽い刑罰でも人の性命を全うし生育を蕃す効があると論じ、肉刑復活には反対した。この議は権貴の意に沿わず、孔琳之は用いられなかった。
印璽制度・喪儀・軍服・食への上言
- 楚台員外散騎侍郎に遷ったが母の喪により去職、服除後に司徒左西掾となり、父の致仕により自ら解官。のち司馬休之の会稽内史・後将軍の長史となり、父の喪でまた去官、服除後に太尉主簿・尚書左丞・揚州治中従事史を歴任し、居るところ功績を残した。衆官の別議として、以下を上言した。
- 印璽は襲用すべきで、内外の官が異動のたびに印を鋳直すのは金銀銅炭の浪費であり、新設の官や印の不足がある場合のみ鋳るべきだと論じた。
- 凶門柏装(葬礼の飾り)は礼典に出自がなく末代の習俗であり、費用がかさみ民の負担となるので廃して素扇で凶を示すべきだと論じた。
- 事故(戦乱)後の飢饉で米穀・綿絹が高騰したが、その後米価は戻ったのに絹だけ倍のままである理由として、軍の袍襖裲襠の需要増による綿帛の浪費を挙げ、侍衛以外は旧の鎧を用い袍襖の使用を減らせば価格は下がると論じた。
- 肴饌の奢侈が長年改まらないことを憂え、食は一味で足り皿は方丈に及ぶ必要はないとし、奢侈を貶め倹約を勧める風化を勧めた。
- 尚書吏部郎に遷り、義熙六年(410年)高祖が平西将軍を領した際にその長史、大司馬琅邪王従事中郎、高祖の平北・征西の長史を歴任し、侍中に遷った。宋台建つと宋国侍中となり、呉興太守に出て公事により免ぜられた。
御史中丞としての徐羨之弾劾
- 永初二年(421年)御史中丞となり、法を明らかにし屈しなかった。尚書令徐羨之を弾劾する奏を行い、皇太子の正会に参列した際、車を出す際に何者かが馬で車前に乗り入れ、収捕させようとしたところ、尚書令の下人が威儀(儀仗の従者)を牽いて孔琳之を撃ち、収捕を妨げたことを詳細に述べ、尚書令省事の倪宗がこれを主導したこと、徐羨之がこれを禁じなかったか禁じても止められなかったことを咎め、羨之の免官を請うた。詔は「小人は検御しがたい、司空(羨之)を問うには及ばない、その他は奏の通りとする」とし、羨之は自ら朝端に居りながら憲を犯す振る舞いを示したくないとしてこれを受け入れた。
- 羨之が揚州刺史を領していたとき、孔琳之の弟孔璩之が治中となり、羨之は璩之に琳之を説得して弾劾を止めさせようとしたが、琳之は応じず、璩之が重ねて願い出ると、琳之は「私が宰相を怒らせても罪は我が身に留まるだけだ、お前が連座することはない、心配は無用だ」と答えた。これ以来百僚は震え粛み、あえて禁を犯す者はいなくなった。高祖はこれを大いに嘉した。
晩年と子孫
- 蘭台を巡行した際、本州大中正を兼領し、祠部尚書に遷った。産業を治めず家は貧しく、景平元年(423年)五十五歳で卒し、太常を追贈された。
- 子の孔邈は父の風があり官は揚州治中従事史に至った。孔邈の子孔覬は別に伝がある。孔覬の弟孔道存は世祖大明中に黄門吏部郎、臨海王劉子頊の前軍長史・南郡太守を歴任、晋安王劉子勛が偽号を建てた際には侍中・行雍州事となったが、事敗れて自殺した。
史論
- 史臣曰く、民生で貴ぶものは食と貨である。貨は幣を通わせ、食は民の天である。上古の質朴な民は農耕・機織りにより自ら足り、交易による濟乏の道もその益はわずかであった。しかし時代が移り変わるにつれ、農を捨てて商に走る者が増え、泉貨(銭)の流通は本来の趣旨を離れ、珍奇な財貨を競って集めるようになり、天下は本業を棄てることを事とするようになった。豊作でも銭は多く積もるだけで飢饉を救わず、その弊は深い。
- 一律に銭貨を廃して穀帛のみを用いれば、民は生業の道を知り、千匹の絹・万斛の穀を持ち運ぶ煩わしさが末業(商業)を自ずと戒め、遊食の民も本業に戻るはずである。ただし年月とともに民の慣習が変わり、蓄えの偏りが生じているため、一朝にして廃止して用いなくするのは難しく、まず華美を削り偽りを止め、淳朴に還り古に反り、然る後に一世の民を耕桑の道へ導き、絹と穀を水火のごとく充足させ、しかる後に円法(銭)を洗い流し鋳潰し、制度を立てて後世に伝えれば、比屋に仁を称えられよう。これは唐虞の世に限らない。
- 桓玄はその始めを知りながらその終わりを見通さず、孔琳之はその末を見てその本を統べなかった。開塞の理を思うならば、一往の議論だけで是とすることはできない。