宋書卷五十二 列傳第十二 王誕
王誕
字は茂世、琅邪臨沂の人、太保王弘の従兄にあたる。祖父恬は中軍将軍、父混は太常。誕は若くして才藻があった。晋の孝武帝が崩じた際、従叔の尚書令珣が哀策文を作るのに手間取り、誕に「猶少序節物」の一句を示すと、誕は筆を執ってこれを補い、秋冬の代変を叙して「霜繁廣除風回高殿」と続けた。珣は嘆賞しこれを採用した。爵の雉郷侯を襲い秘書郎・琅邪王文学・中軍功曹を歴任。隆安四年(400年)、会稽王世子元顕が後軍府を開くと誕は功曹に補せられ、ほどなく尚書吏部郎に除せられ、後軍長史を兼ね廬江太守を領し鎮蛮護軍を加えられ、龍驤将軍・琅邪内史に転じた(長史は元のまま)。誕は元顕の嬖人張法順と結び、元顕に寵愛された。元顕が妾を娶る際、誕がその親迎を行った。府の転任に従い驃騎長史(将軍・内史は元のまま)に転じた。元顕が桓玄討伐にあたり桓氏一族をことごとく誅そうとした際、誕は固く「(桓)修らは玄と志趣を異にする」と陳べこれを免れさせた(修は誕の甥)。玄が志を得ると誕も誅されそうになったが、修が陳情し誕らが免れた由来を語り、これにより誕は広州に徙された。盧循が広州を拠点とすると誕はその平南府長史となり、厚く賓礼された。誕は久しく客居し帰郷を思い、循に「私は遠くこの地に流れ着き殊眷を蒙っているが、士は知己に感じて実に報答を思うものだ。もとより戎旅の身ではなくここでは無用の人間だ。もとより劉鎮軍(高祖)に知られており、北に帰れば必ず任寄を蒙るだろう、公私ともに恩に報いる機会となるはずで、ここに空しく歳月を過ごすよりまさる」と説き、循はこれを然りとした。時に広州刺史呉隠之もまた循に拘留されていたが、誕はまた「将軍が今呉公を留めるのは公私ともに得策ではない、孫伯符(孫策)はどうして華子魚(華歆)を留めたくなかったろうか、ただ一境に二君を容れられなかっただけだ」と述べ、誕と隠之はともに帰還を許された。員外散騎常侍に除せられたが拝さず、高祖は太尉諮議参軍に招き長史に転じ、誕は誠心を尽くし日夜怠らず高祖は深く委仗した。
北伐で広固を攻めた際、誕は斉郡太守を領した。盧循が蔡州から南走した際、劉毅は固く追討を求めたが、高祖は決めかね、誕は密かに「公はすでに広固を平らげまた盧循を滅ぼせば、功は終古に蓋(まさ)り勲は並ぶものがなくなる。このような大威をどうして他人に分けられよう。毅は公と布衣より共に起こり一時に推されているだけだ。今すでに敗喪しているのだから再び功を立てさせるべきではない」と進言、高祖はその説に従った。7年(411年)、誕を呉国内史としたが母の喪により去職。高祖の劉毅討伐にあたり輔国将軍に起用されたが誕は固く軍号を辞し、墨絰(喪服のまま)で従軍した。時に諸葛長民が太尉留府事を行っており内心不安であったため、高祖は深く憂慮していた。毅が平定されると誕は先に下ろうとしたが、高祖は「長民には自ら疑う心があるようだ、卿は先に行くべきではあるまい」と言った。誕は「長民は私が公の眷顧を受けていることを知っている、今身軽く単身で下れば、必ず憂うることはないと思うだろう、これでこそ彼の心を少しは安んじられる」と答えた。高祖は笑って「卿の勇は賁育(古の勇者)を超えている」と言い、誕は先に還った。9年(413年)卒、時に39歳。南北の従征の功により作唐県五等侯を追封された。子の詡は宋の世子舍人となったが早卒した。