宋書卷四十九 列傳第九 劉鍾
出自と挙兵初期
劉鍾は字を世之といい、彭城彭城の人である。若くして孤児となり郷人の中山太守劉固と共に居した。幼くして志力があり貧賤にあっても慷慨した。隆安4年(400年)、高祖の孫恩討伐に鍾は従軍を願い、余姚浹口から句章・海塩・婁県を攻め、ことごとく堅を摧き陣を陥れ戦功があった。劉牢之の鎮北参軍督護となり、高祖の戎事のたびに艱劇を辞さず専心尽力し深く信任された。義旗が挙がるにあたり、高祖は鍾を郡主簿に版せしめ、翌日京城に入るとき京邑に向かう際、高祖は「もとより彭沛の郷人で義に赴く者はみな劉主簿に依れ」と命じ、義隊が立てられ、常に左右にあって連戦みな捷った。
桓謙が東陵に屯し、卞範之が覆舟山の西に屯した際、高祖は賊の伏兵を疑い左右を顧みて鍾だけを見つけ、「この山下に伏兵があるはずだ、卿は部下を率い少し進んで撲て」と言うと、鍾が馳せ進むと果たして数百の伏兵があり一時に敗走させた。桓玄が西奔したその夕、高祖は桓謙の旧営に留まり鍾を東府に宿営させた。鎮軍参軍に転じ督護となり、桓歆が歴陽に寇したとき鍾を遣り豫州刺史魏詠之を助けさせ、歆は即座に敗走した。南斉国内史に除せられ安丘県五等侯に封ぜられた。父祖および親属10柩の改葬を陳情し、高祖は厚くこれに資給した。騎長史・兼行参軍に転じ、司馬叔璠が彭城の劉諡・劉懐玉らと共に蕃城から鄒山を攻め、魯郡太守徐邕が失守した際、鍾は軍を率いてこれを討ち平らげた。
蜀討伐と最期
広固討伐に従軍、孟龍符が陥没した際、鍾は左右を率い直入してその屍を取り戻した。振武将軍・中兵参軍に除せられ龍符に代わり広川太守を領した。盧循が京邑に迫った際、徐赤特が処分に違い南岸で敗れたが、鍾は麾下を率いて柵を拒み身に重創を受けながらも賊の侵入を防いだ。循が南走すると鍾は輔国将軍王仲徳とこれを追撃、循は別帥范崇民に精兵・高艦を与え南陵の両岸に屯させていたが、鍾は自ら賊状を偵察中霧に紛れ、賊は鍾の舸を鉤で捕らえたが、鍾は率いた艦で相手の戸を攻め、賊は慌てて戸を閉じて拒んだため鍾は徐に還り、仲徳とともに崇民を攻め崇民は敗走、鍾は百里を追討しその船を焼いた。また劉藩に従い始興で徐道覆を追撃し斬った。太尉行参軍・寧朔将軍・下邳太守に補せられ孟懐玉に代わり石頭戍事を領した。
高祖の劉毅討伐に鍾は王鎮悪に続いて軍を率い、江陵平定後は朱齡石の蜀討伐に従い前鋒となった。外水から彭模に至る(成都まで200里)と、偽の冠軍将軍・征討督護譙亢らが両岸に連営し高楼重柵を築き衆号3万を称していた。鍾は脚疾のため行けなかったため、齡石は鍾のもとを訪ね「今は暑さの盛りで賊は険を固めており、攻めても抜けるとは限らずかえって疲弊するだけだ。しばらく養兵して隙をうかがうべきか、それとも決戦すべきか」と問うと、鍾は「賊は我が軍が内水から来ると考え涪城に道福を固めさせているが、今重軍が急に至れば意表を突かれ蜀人の胆は破れている。賊が今兵を止めて険を守っているのは戦えぬ恐れによるもので、持久できるはずがない。その恐懼につけこみ精鋭を尽くして攻めれば必ず勝てる、鼓を打って進めば成都は必ず守れまい。もし今兵を緩めて相守れば、彼は我らの虚実を知り、涪軍が急に加勢して力を合わせるだろう。人情が落ち着き良将も集まれば、戦を求めても得られず軍食も尽き、我らは蜀の虜になるだけだ」と答えた。齡石はこれに従い、翌日進攻して二城を陥落させ大将侯輝・譙詵を斬り、成都をたやすく平定した。広固の功と合わせ永新県男・食邑500戸に封ぜられ、給事中・太尉参軍事・龍驤将軍・高陽内史に遷り石頭戍事を領した。
高祖の司馬休之討伐に前軍将軍道憐が東府に留守し屯兵を冶亭で領する間、群盗数百が夜襲したが鍾はこれを撃破した。大軍が外征している間、京邑が動揺したが鍾は鎮定できず建威将軍に降号された。蜀平定の功で400戸の男に封ぜられるべきところ、先に爵位があったため戸を減らし次子敬順に賜い高昌県男・食邑百戸となった。ほどなく本号龍驤将軍に復した。12年(416年)、高祖の北伐にあたり鍾はまた留守を命ぜられ兵力を増され、府に佐史を置くことも許された。荆州刺史道憐が名馬3匹と精麗な乗具を献じたが、高祖はすべて鍾の3子に賜った。14年(418年)、右衛将軍に遷り(龍驤将軍は元のまま)、元熙元年(419年)卒、時に43歳。子の敬義が嗣ぎ、馬頭太守にまで至り卒し、子の国重が嗣いだが斉の受禅で国は除かれた。鍾の次子、高昌男敬順は没後、子の国須が嗣いだが国須に子がなく国は除かれた。