宋書卷四十九 列傳第九 蒯恩
出自と孫恩討伐
蒯恩は字を道恩といい、蘭陵承の人である。高祖の孫恩征討に際し、県から徴発された征民として乙士(下級兵)となり馬芻(飼料の刈り草)を伐る役についた。恩は常人の倍以上の大束を負い、芻を地に置くたびに「大丈夫が三石の弓を彎くべきなのに、どうして馬士に甘んじるのか」と嘆いた。高祖はこれを聞き武器を給した。恩は大いに喜び、自ら妖賊征討に先登し多くの首級を挙げ、戦陣に習熟し胆力人に過ぎ、誠心忠謹で過失がなく高祖に深く信任された。婁県の戦いで矢が左目に当たった。京城平定、京邑平定に従軍し、寧遠将軍として幢を領し、振武将軍道規に従い西討、虜の桓仙客を克ち偃月塁を落とし江陵を平定した。
戦功と最期
義熙2年(406年)、賊張堅が応城に拠り反乱すると恩がこれを撃破し、都郷侯に封ぜられた。広固討伐にも戦功。盧循が京邑に迫った際、恩は査浦で戦い賊を退け、王仲徳らと共に循の別将范宗民を南陵で追撃破。循が広州へ敗走した後、恩はまた千余人を率い劉藩に従い始興で徐道覆を追撃し斬った。龍驤将軍・蘭陵太守に遷る。
高祖の劉毅西征に際し、恩は王鎮悪と軽軍で江陵を襲った(事は鎮悪伝に見える)。本官のまま太尉長兼行参軍として2千を領し、益州刺史朱齡石の蜀討伐に従い彭模に至り、恩の率いる軍は前面に位置し朝から日暮れまで大戦、勇気ますます奮い賊を破って成都平定に進んだ。行参軍に抜擢され北至県五等男に改封された。高祖の司馬休之・魯宗之討伐に際し、恩は建威将軍徐逵之と共に前進したが逵之は敗死、恩は堤下に陣し宗之の子軌が勝ちに乗じて攻めてきて矢は雨のように降り叫声は地を震わせたが、恩は陣を厳整に保ち軌が幾度衝いても動かず、攻略不能と見た軌は退いた。高祖はその持重をよしとした。江陵平定後、魯軌を石城に追い、軌は城を捨てて逃げ、恩は襄陽まで追撃、宗之は羌に奔り、恩は諸将と魯陽関まで追討して還った。恩は従軍のたびに危急に真っ先に立ち、常に堅を陥れ陣を破り、艱険を避けず、凡そ百余戦し身に重創を数多く受けた。高祖はその前後の功を録して新寧県男・食邑500戸に封じた。
高祖の世子(劉義符)が征虜将軍となると、恩は大府の佐として中兵参軍を領し、府の転任に伴い中兵参軍のまま従った。高祖の北伐時、恩は世子の侍衛に留められ、朝士に命じて交わらせたが、恩はますます謙損して人と語る際にも常に相手の官位を呼び自らを「鄙人」と称した。士卒への撫待にも規律があり衆はみな親しみ従った。諮議参軍に遷り、輔国将軍・淮陵太守に転じ、世子が開府すると従事中郎となり、司馬・将軍・太守に転じた(元のまま)。関に入り桂陽公義真を迎えたが、義真が還る際青泥で佛佛の虜に追われ、恩は殿(しんがり)として連日力戦、義真の前軍は敗走したが、恩の軍もことごとく虜に捕らえられ虜中で死んだ。子の国才が嗣ぎ、国才没後子の慧度が嗣いだが、慧度に子がなく国は除かれた。