宋書卷四十六 列傳第六 趙倫之
趙倫之
趙倫之、字は幼成、下邳僮の人。武穆皇后(高祖の母)の弟。幼くして父を失い貧しかったが母に孝を尽くし称された。武帝(高祖)の起兵に軍功があり閬中県五等侯に封ぜられ、累進して雍州刺史となった。武帝の北伐に際し倫之は順陽太守傅弘之・扶風太守沈田子を遣わし嶢柳から出撃させ、藍田で姚泓を大破した。武帝受命(宋建国)後、佐命の功により霄城県侯・安北将軍・襄陽鎮となった。少帝即位後、召され護軍を拝した。元嘉3年(426年)鎮軍将軍を拝し、まもなく左光禄大夫・領軍将軍に遷った。
倫之は外戚として貴盛であったが倹素を旨とし、性は野拙で人情や世務に疎いところが多かった。長く地方の方伯を務めた後、護軍として都に入ると資力が及ばず左遷と感じられた。光禄大夫の范泰は戯れに「司徒公の欠員があれば必ず汝を用いる、老奴よ。汝の資質のことは言わぬが、外戚として高秩の順番が回ってくるだけのことだ」と語り、倫之は大いに喜び、しばしば酒肴を持って泰を訪ねたという。元嘉5年(428年)卒去。子の伯符が嗣いだ。
伯符、字は潤遠、若くして弓馬を好んだ。倫之が襄陽にいた頃、伯符は竟陵太守となり、当時竟陵の蛮がしばしば侵寇していたのを征討し尽く破ったことで将帥の名を得た。のち寧遠将軍として義徒を総領し宮城北に居住、火災や賊盗が起こるたびに自ら甲冑を着けて郡県の討伐を助け、武帝はこれを深く嘉した。文帝即位後、累進して徐兗二州刺史となったが、政は苛暴で吏民は虎狼のごとく畏れた。しかし寇盗は遠くへ逃げ境を犯す者はなかった。元嘉18年(441年)領軍将軍に召された。これより先、外監は領軍に隷属せず別に統轄する詔があったが、この時初めて統領するようになった。元嘉21年(444年)豫州刺史に転じ、翌年護軍将軍、さらに丹陽尹となった。郡にあっては厳酷で吏民は苦しみ、逃亡して溺死する者もあった。典筆吏が筆を取る際、意に満たなければ五十回鞭打ったという。
子の倩は文帝の第四女海塩公主を尚した。初め始興王濬が潘妃の寵愛により後宮への出入りを許されていた縁で、公主と私通していたが、公主が倩に嫁いだ後も倩の宮中への出入りに公主が怒り、罵り取っ組み合いになり帳の帯を引きちぎる事件があった。この事が上聞に達し、離婚の詔とともに公主の生母蔣美人が殺された。伯符は慙懼して病を発し卒去、諡は肅。国は孫の朂まで伝わったが斉の受禅により除かれた。