宋書卷四十六 列傳第六 王懿

王懿(仲徳)

王懿、字は仲徳、太原祁の人。自ら漢の司徒王允の弟、幽州刺史王懋の七世孫と称した。祖父宏は石季龍(石虎)に、父苗は苻堅に仕え、いずれも二千石であった。仲徳は若くして沈審で意略に富み、陰陽に通じ声律を解した。苻氏の敗亡の際、仲徳は17歳で兄叡と共に義兵を起こし慕容垂と戦ったが敗れ、仲徳は重傷を負い家族とはぐれて逃げた。道は大澤を経てそれ以上進めず林中に倒れ伏していたところ、青衣の童子が牛に乗って現れ「食べたか」と問い、仲徳が飢えを告げると童子は去り、まもなく食を携えて戻ってきた。食べ終え歩こうとすると水潦(洪水)が突如至り行く道がわからなくなった折、一頭の白狼が前に現れ天を仰いで吠え、吠え終わると仲徳の衣を銜えて水を渡ったため、仲徳はこれに従い渡ることができ、兄叡と再会し黄河を渡って滑台に至った。そこで再び翟遼に留められ将帥として使われること数年、仲徳は南帰を図って太山へ逃れたが、遼は騎兵を遣わし急追させた。夜行の道中、突如炬火が先導し、これに従い百里余り行って難を免れた。

晋の太元末、彭城に移り住んだ。兄弟の名は晋の宣帝・元帝の諱に触れるため、いずれも字で称された(叡の字は元徳)。北土では同姓を重んじ骨肉と呼び、遠方から身を寄せる者があれば力を尽くして養い、もし救わなければ不義とされ郷里に容れられなかった。仲徳は王愉が江南にいて同じ太原の人と聞き、これに依ったが、愉の礼遇は甚だ薄かった。そこで姑孰に至り桓玄に依ったが、玄の簒位に際し、輔国将軍張暢に世事について語る中、仲徳は「古来の革命はまさに一族の事業とは限らないが、今の起こる者(桓玄)は大事を成すには足りぬだろう」と述べた。

元徳(叡)は果敢で智略があり、武帝(高祖)はこれを深く知り、義挙を告げ都下で玄を襲わせようとした。仲徳はこの謀を聞き元徳に「天下の事は密にせねばならぬ、機に応じて速やかに動くべきで巧遅であってはならない。玄は毎夜冒して出入りする、今これを図るにはただ一人の力があればよい」と語った。しかし事は漏れ、元徳は玄に誅殺された。仲徳は奔り隠れたが、折しも義軍が建業を克すると、仲徳は元徳の子方回を抱いて武帝を迎えに出た。帝は馬上で方回を抱き仲徳と相対して号泣し、元徳に給事中を追贈し安復県侯に封じ、仲徳を中兵参軍とした。

武帝の広固征討に仲徳は前鋒として大小二十余戦、盧循の侵逼に際しては劉毅を桑落で破り、帝の北伐が終わって還った頃には士卒の傷病者を除く戦える者は数千人ほどしかいなかった。賊衆十万・舳艫百里に及ぶ大軍に敗れて帰る中でも人々はその雄勇を称えた。衆議は皆遷都を望んだが、仲徳は正色して「今、天子は当陽(皇位)にあって治め、明公(高祖)は命世の輔たり新たに大功を建て威は六合を震わせている。妖賊が豕突(暴走)してこちらに乗じているだけで、我らの凱旋を聞けば自ら奔散するだろう。今、草間に身を投じれば匹夫と何ら変わらない。匹夫の号令など何をもって人を威服できようか。義士英豪はまさに自ら主を求めるべきだ。この謀(遷都)が行われるならば、私はこれをもって辞したい」と述べた。帝はこれを喜び、仲徳を越城に屯させた。

賊が蔡洲から南へ逃走すると仲徳を遣わして追わせ、賊は党の范崇民ら五十人、高艦百余を城南陵に留めた。仲徳はこれを攻め崇民を大破し、その舟艦を焼いて散卒を収め、功は諸将に冠たるものとなり新淦県侯に封ぜられた。

義熙12年(416年)の北伐で仲徳は征虜将軍に進み冀州刺史を加え前鋒諸軍事となった。冠軍将軍檀道済・龍驤将軍王鎮惡は洛陽へ、寧朔将軍劉遵考・建武将軍沈林子は石門から、寧朔将軍朱超石・胡藩は半城へと向かい、いずれも仲徳の統に属した。仲徳は龍驤将軍朱牧・寧遠将軍竺霊秀・厳綱らを率いて鉅野を開き黄河に入り、衆軍を総べて潼関に進拠、長安平定後は太尉諮議参軍とされた。武帝が洛陽遷都を欲した際、衆議はいずれも賛成したが、仲徳は「これは尋常でない事、常人は驚くもの。今、軍を発して久しく、士は帰心を持っている。まさに建業を王基とすべきであり、文軌(天下統一)が完全に定まるのを待ってから議すべき」と述べ、帝は深くこれを納れた。姚泓の護送を仲徳に命じ、まず彭城へ先に還らせた。

武帝受命後、累進して徐州刺史・都督を加えられた。元嘉3年(426年)、安北将軍に進号、到彦之と共に北伐し虜軍を大破、諸軍は霊昌津に進屯した。司兗(司州・兗州)が平定され三軍は皆喜んだが、仲徳独り憂色を示し「胡虜は仁義に乏しいが凶狡には長ける。今、戈を収めて北へ帰り力を合わせて再結集すれば、もし河の氷が冬に張れば三軍の憂いとならぬはずがない」と述べた。10月、虜は委粟津で渡河し金墉・虎牢に迫り、洛陽以下諸軍は相次いで敗走した。彦之は二城が守れないと聞くと舟を焼いて歩いて退こうとしたが、仲徳は「洛陽が陥落すれば虎牢も独り無事ではいられない、勢いがそうさせるのだ。今、賊は我らから千里離れており滑台にはなお強兵がある。もし舟を捨てて奔走すれば士卒は必ず散る。まずは済水に入り馬耳谷口に至ってからさらに対策を詳らかにすべき」と述べ、軍を回して済水沿いに南下、歴城で徒歩となり舟を焼き甲を棄てて彭城へ還った。

仲徳は彦之と共に免官されたが、まもなく檀道済と共に滑台を救援、糧が尽きて帰還した。元嘉9年(432年)再び鎮北将軍・徐州刺史、翌年兗州刺史を加えられた。仲徳は三度徐州に臨み威徳は彭城に著しく、仏寺を立て塔中に白狼童子の像を作った。これは河北で遭遇した縁による。元嘉13年(436年)鎮北大将軍に進号、元嘉15年(438年)卒去、諡は桓侯。廟にも白狼童子壇を立て、祭祀のたびに必ずこれを祀ったという。子の正脩が嗣いだが家僮に殺された。