宋書卷四十五 列傳第五 劉懐慎
劉懐慎
劉懐慎、彭城の人、左将軍懐粛の弟。若くして謹慎質直、初め高祖の鎮軍騎将軍事に参じ振威将軍・彭城内史となった。鮮卑(南燕)征討に従い戦うごとに身先士卒、広固克服の際は懐慎が所領を率いて先登した。高祖の盧循討伐に石頭で従い屡々戦捷、輔国将軍を加えられた。義熙8年(412年)本号のまま監北徐州諸軍事・彭城鎮、まもなく徐州刺史を加え、政は厳猛で境内は震粛した。義熙9年(413年)、亡命の王霊秀が寇となったがこれを討平。義熙11年(415年)北中郎将に進み広固・盧循平定の功で南城県男・食邑五百戸に封ぜられた。義熙13年(417年)、高祖の北伐に際し中領軍・征虜将軍として輦轂を衛したが、府中での殺人事件に連座し免官された。位任は転優したものの恭恪はますます篤く、自分より位の低い者の造る所であっても門外で束帯し車を下りるほどの謙譲であったという。
宋台建国後、五兵尚書に召され督江北淮南諸軍・前将軍・南晋州刺史となり、さらに度支尚書・散騎常侍を加えられた。高祖の寿春遷都に際し懐慎を留めて督北徐兗青淮北諸軍事・中軍将軍・徐州刺史とし、亡命者の広陵城入城に対し降号を征虜将軍とした。永初元年(420年)佐命の功により侯に進爵し千戸を増邑、平北将軍に進号、五兵尚書・散騎常侍・光禄大夫に召還された。景平元年(423年)護軍将軍に遷り常侍はもとのまま、特に宗族に班を賜った。家に余財なく、景平2年(424年)卒去、享年61。撫軍を追贈され諡は肅侯。
子の徳願が嗣ぎ、世祖大明初め遊撃将軍・領石頭戍事となったが、賈客韓仏智の賄賂を受けた罪で下獄、爵土を奪われた。のち再び秦郡太守となった。徳願は性が粗率で世祖に狎侮された。上の寵姫殷貴妃が薨去し葬礼が終わった後、上はしばしば群臣と共に殷の墓に至り、徳願に「卿が貴妃のために泣いて悲しめば厚く賞す」と言うと、徳願は即座に号泣し胸を打ち踊り足摺りし涙を流した。上は甚だ喜び豫州刺史とした。また医術の羊志にも殷氏のために哭させたところ志も嗚咽し、後日「よくそこまで涙を出せたな」と問われると志は「私はその時新たに愛姫を失ったばかりで、実は自分の亡妾のために泣いていたのだ」と答えたという。志は滑稽で諧謔を善くし、上にも愛玩された。
徳願は車を御することに巧みで、かつて二本の柱を立てその間に車軸がやっと通る幅を作り、百余歩の距離から手綱を振り長駆し、数尺手前まで来て牛を打って柱間を直進させたという、その精妙さはこの通りであった。孝武帝はその能を聞いて画輪車に乗り太宰江夏王義恭の邸に行幸させたが、徳願は籠冠を着け短い朱衣を着て手綱を執り、進退の容態は甚だ立派であった。永光年中、廷尉となり柳元景と厚く親しんだが、元景が敗れると獄に下され誅殺された。
懐慎の庶長子栄祖は若くして騎射を好み武帝に知られた。盧循の攻逼の際、賊は小艦に乗って淮を進み柵を抜いたが、武帝は三軍に「賊を勝手に射てはならぬ」と令していたところ、栄祖は憤怒を抑えきれず禁を犯して賊を射、命中して倒したため、帝はますますその才を奇とした。戦功により太尉軍事に参じ、司馬休之討伐に従軍、彭城内史徐逵之が敗没し諸将の意気が沮喪する中、栄祖は戦を請いさらに奮った。高祖は自ら着ていた鎧を脱いで栄祖に授けた。栄祖は所領を率いて陣に突入し身に数創を被ったが、折しも賊が破れ走ったため振威将軍を加官された。まもなく世子征虜軍事に参じ遂成令を領し、高祖の北伐には鎮西中兵参軍・寧遠将軍に転じ、水軍で黄河に入り朱超石と共に索虜を半城で大破、さらに劉度の塁を攻略した。高祖は戦士を大いに饗し栄祖に「卿は寡兵で衆を破り、堅城を攻略できぬことがない。古の名将といえどもこれに勝るものがあろうか」と称えた。太尉中兵参軍に転じ建威将軍を加えられ、長安平定後は姚泓の女婿徐衆が残兵を率いて連営叛走した際、栄祖は檀道済らとその営を攻め破り、斬首・捕虜は数え切れぬほどであった。
義熙14年(418年)、彭城内史に除せられさらに相国参軍に補され、その年、栄祖は都に還され世子中兵参軍となった。永初元年(420年)越騎校尉に除せられまもなく右軍将軍に転じた。索虜が南寇し司州刺史毛徳祖が陥没した際、栄祖は父の喪中であったが起用され輔国将軍となり、半城の功を追論され都郷侯に封ぜられた。栄祖は財を軽んじ義を貴び将士をよく撫でたが、性は偏険褊隘で士君子の心を失うことが多かった。領軍将軍謝晦は栄祖を深く待遇し、廃立の際に栄祖を招いたが固辞して難を免れた。晦が荊楚に出鎮する際、南蛮校尉に招こうとしたが栄祖はまた固くこれを止めた。その年の冬、卒去した。
徳願の弟興祖は青州刺史。懐慎の弟懐黙は冠軍将軍・江夏内史・太中大夫。懐黙の子道球は巴東建平二郡太守。道球の弟孫登は武陵内史。孫登の子亮は世祖大明中に武康令となり、境内に盗鋳銭が多かったところ亮はこれを掩討し尽くし、殺した者は千を数えた。太宗泰始初め巴陵王休若の鎮東中兵参軍として北伐南討の功は諸将に冠たり、順陽県侯・食邑六百戸に封ぜられた。黄門郎・梁益二州刺史を歴任、在任中は廉倹で財貨を営まず、余った公禄はことごとく官に返した。太宗はこれを嘉し詔で褒美した。亮は梁州在任中、突然服食修道に励み長生を求め、武当山の道士孫道胤を迎えて仙薬を合わせさせ、益州に至った泰豫元年(472年)、薬がようやく完成したが火毒がまだ抜けておらず、孫はまだ服用を許さなかった。しかし亮は苦しく服用したいと欲し、平旦に城門を開き井華水を取って服用、食鼓(正午)の頃、心臓に刺すような痛みが走りそのまま絶命した。後に人が白馬に乗り数十人を従えて関を出て西行するのを見たと語り、これは道家のいわゆる尸解(仙人となり肉体を残して昇天すること)だという。冠軍将軍を追贈され諡は剛侯。
孫登の弟道隆は元嘉22年(445年)廬江太守。世祖の挙義に際し郡を棄てて奔り、南中郎参軍事に補され龍驤将軍を加えられた。世祖は麾下を分けて三幢とし、道隆は中兵参軍王謙之・馬文恭とそれぞれ一幢を領した。大明中に黄門侍郎・徐青冀三州刺史を歴任、前廃帝景和中に右衛将軍・永昌県侯・食邑五百戸として腹心の任を委ねられた。泰始初め太宗のため尽力し衛将軍・中護軍に遷ったが、まもなく賜死された(詳細は建安王休仁伝)。
王謙之、字は休光、琅邪臨沂の人、晋の司州刺史胡之の曾孫。世祖初め驍騎将軍・御史中丞・呉興太守を歴任、南下の功で石陽県子・食邑五百戸に封ぜられた。大明3年(459年)卒去、前将軍を追贈され諡は肅。子の応之が嗣ぎ、大明末に衡陽内史となったが、晋安王子勛の反乱に際し湘州行事何慧文に呼応を拒み、慧文に殺された(詳細は鄧琬伝)。侍中を追贈された。応之の弟雲之は順帝昇明中に貴達した。馬文恭、扶風の人、これもまた功により泉陵県子・食邑五百戸に封ぜられ、世祖即位後は遊撃将軍となったがまもなく卒去した。