宋書卷四十五 列傳第五 檀韶
檀韶
檀韶、字は令孫、高平金郷の人。代々京口に住んだ。初め本州従事・西曹主簿・輔国司馬に辟された。高祖の建義に韶と弟の祗・道済らが従い、京城平定に参じ高祖の建武将軍事を行った。都邑平定後、鎮軍将軍・寧遠将軍加官・東海太守、建武将軍に進号、龍驤将軍・秦郡太守・北陳留内史に遷り、桓玄平定の功で巴丘県侯・食邑五百戸に封ぜられた。車騎将軍事に復し龍驤将軍を加え、騎将中軍諮議参軍に遷り寧朔将軍を加え、広固征討に従軍し向弥・胡藩ら五十人を率いて臨朐城を攻略。広固包囲の際、慕容超が夜に楼を焼いた場所は韶の囲む区域に当たり、投降した者には横野将軍の号を与えた。城陥落の日、韶は所領を率いて先登し北琅邪太守を領し寧朔将軍・琅邪内史に進号。盧循討伐に左里で従軍し戦功があり、広固の功と併せて論功され宜陽県侯・食邑七百戸に改封(先の封を一等降し戸数も半減し二百五十戸とした)、祗の子臻には六門内での乗輿の罪により白衣で職に留まることが許された。
義熙7年(411年)輔国将軍号、8年母の喪により起服して冠軍将軍、翌年再び琅邪内史・淮南太守・将軍はもとのまま、姑孰に鎮し左将軍に進号し本州大中正を領した。義熙12年(416年)督江州豫州之西陽新蔡二郡諸軍事・江州刺史・将軍はもとのままに遷ったが罪により免官。高祖受命後、佐命の功により八百戸を増封し先の封と併せ千五百戸となった。韶は酒を嗜み貪横で、赴任地に治績はなかったが、上は一族が義に従い弟の道済にも大功があることから特に寵授した。永初2年(421年)、京邑で卒去、享年56。安南将軍を追贈し散騎常侍を加えられた。子の緒が嗣ぎ、緒の卒後、子がなく国は除かれた。祗の子臻、臻の卒後子の遐が嗣いだが斉の受禅で国は除かれた。祗と弟の道済にはそれぞれ別伝がある。