宋書卷四十四 列傳第四 謝晦

謝晦(字は宣明、?–426年)は陳郡陽夏の人。武帝(高祖)劉裕に才幹を見込まれ腹心として重用され、宋建国の功臣の一人となった。高祖没後は徐羨之・傅亮とともに顧命大臣として少帝廃立に関わり、荊州刺史として外に出鎮した。太祖(文帝)が徐羨之・傅亮を誅すると自らも討たれると見て挙兵したが官軍に敗れ、一族とともに誅殺された。享年37。

年表(4件)
  • 義熙八年412年豫州治中従事として土断(僑流郡県の民戸整理)を掌り、揚豫の民戸判定を公平に行う
  • 永初二年421年璽を封じる役で他人の誤りに連座し侍中を免ぜられる
  • 元嘉二年425年妻と長子を都へ送り娘の婚儀を進める間に、太祖による誅殺の計画が進行
  • 元嘉三年正月426年挙兵するも官軍に敗れ捕らえられ、一族とともに誅殺される。享年37

出自と高祖への出仕

謝晦、字は宣明、陳郡陽夏の人。祖父朗は東陽太守、父重は会稽王司馬道子の驃騎長史、兄絢は高祖の鎮軍長史であったが早くに没した。晦は初め孟昶の建威府中兵参軍となり、昶の死後、高祖が劉穆之に「孟昶の参佐で誰が我が府に堪えるか」と問うと穆之は晦を挙げ、即座に太尉参軍に任じられた。高祖がかつて囚人を取り調べる際、刑獄参軍が病で欠けたため晦が代わり、車中で一度牒を見ただけで催促に応じ、相府の煩雑な獄事を淀みなく答え誤りがなかったため、高祖はその才を奇として即日刑獄賊曹に任じた。豫州治中従事に転じ、義熙8年(412年)の土断(僑流郡県の民戸整理)では揚豫の民戸の判定を晦に分掌させ、公平と称された。

太尉主簿として入り、司馬休之討伐に従軍した際、徐逵之が戦死したことに高祖は怒り自ら甲を着て岸に登ろうとしたが、諸将の諫めも聞かず、晦だけが高祖に抱きついて止め、高祖が「お前を斬るぞ」と言うと、晦は「天下は私がいなくても構いませんが、公がいなくてはなりません。私が死んでも何の益がありましょう」と答えた。折しも胡藩がすでに岸に登り賊が退いたため事なきを得た。晦は容姿に優れ談笑を善くし、眉目は明らかで鬢髪は漆を点じたようであり、文義に渉猟して多くの学に通じ、高祖に深く愛賞され、群僚は及ぶ者がなかった。

劉穆之との確執と栄進

関洛出征に従い、内外の要任をことごとく委ねられた。劉穆之が使者を遣わし政事を伝えても、晦はしばしば異論を挟んだため、穆之は怒って「公(高祖)は再び還る時があるのか」と言った。高祖が晦を従事中郎にしようとして穆之に諮ったが、穆之が固く反対したため、穆之が生きている間は晦は昇進しなかった。穆之の訃報が届いた時、高祖は甚だしく哭き悲しんだが、晦はちょうど当直中でひどく喜び、自ら閤内に入って穆之の死を確かめたという。その日のうちに晦は従事中郎に転じた。

宋台(宋国)の建国当初、右衛将軍となり、まもなく侍中を加えられた。高祖が受命(禅譲)に際し石頭で法駕を整えて入宮する際、晦は遊軍を領して警備にあたった。中領軍に遷り侍中はもとのまま、佐命の功により武昌県公・食邑二千戸に封ぜられた。永初2年(421年)、璽を封じる役で鎮西司馬・南郡太守王華の誤りを大封(本来の封)とし、北海太守球の版(任命書)を誤って封じてしまった罪に連座し、晦は侍中を免ぜられ、まもなく領軍将軍・散騎常侍に転じ、晋の中軍羊祜の故事に倣い殿省に入直して宿衛を統べた。

顧命と荊州出鎮

高祖不豫(病臥)の際、班剣二十人を賜り、徐羨之・傅亮・檀道済と共に医薬を侍した。少帝即位後、領中書令を加え、羨之・亮と共に朝政を輔けた。少帝廃位後、司空徐羨之が詔命を録し、晦を行都督荊湘雝益寧南北秦七州諸軍事・撫軍将軍・領諸南蛮校尉・荊州刺史に任じ、外に居て援けとしようとした。太祖の即位に不安があり、他の者が用いられるかもしれぬと慮って急遽この任を授け、精兵旧将をことごとく配し、器仗軍資も甚だ豊かであった。太祖即位後、使持節を加え本位のまま除授されたが、晦は都を離れられないのではと甚だ憂惶し、新亭を発って石頭城を顧望した時ようやく「今こそ脱することができた」と喜んだという。まもなく衛将軍に進み散騎常侍を加えられ、建平郡公・食邑四千戸に進封されたが固辞、進封の代わりに鼓吹一部を賜った。

初め荊州に赴任するに際し晦は甚だ自矜の色があり、鎮に赴く前に従叔の光禄大夫謝澹を訪ねて別れを告げた。澹が晦の年齢を問うと晦は「三十三」と答え、澹は「昔、荀羨(中郎)は二十七歳で北府都督となった。それに比べれば卿はもう老いている」と笑い、晦は恥じ入ったという。江陵に至ってからは侍中王華と深く結び、禍を免れようとした。晦の二女はそれぞれ彭城王義康・新野侯義賓に嫁ぐ予定であった。

誅殺の陰謀と挙兵

元嘉2年(425年)、晦は妻曹氏と長子世休を都へ送り娘の縁組の準備をさせた。折しも景平年間、索虜(北魏)が河南を侵し覆没させていた。この頃、太祖は徐羨之らを誅殺し併せて晦を討とうと図り、北伐と称し、また景陵への拝礼と称して舟艦を装備していた。傅亮は晦への書簡で「薄伐河朔(北伐)はまだ終わっておらず、朝野の憂懼は多い」と述べ、また朝士がしばしば北征を諌めていること、外監万幼宗を諮問に遣わすとの朝廷の異常な処分の様子を伝えた。その謀は次第に漏れつつあった。

元嘉3年(426年)正月、晦の弟の黄門侍郎㬭が急使を遣わして晦に告げたが、晦はなお疑い、諮議参軍何承天を呼んで傅亮の書簡を示し「万幼宗は一両日中に必ず来るはず。傅公は私が軽挙するのを恐れてこの書を先に遣わしたのだろう」と言った。承天は「外間で聞くところでは西討(晦討伐)はすでに定まったという。万幼宗が来る道理があろうか」と答えたが、晦はなお虚妄と考え、承天に予め答詔の草稿(来年に北伐すべしとの趣旨)を作らせた。江夏内史程道恵が尋陽の人からの書簡で朝廷の大処分がすでに確定していることを知り、輔国府中兵参軍楽冏に封じて晦に示させた。晦はなお承天に「幼宗がまだ来ないのは、あと二三日消息がなければもう来ないということか」と問い、承天は「詔使に来る理はもとよりない。程道恵の言う通りすでに事は決している、疑う余地はない」と答えた。

晦は南蛮の兵籍を焼こうとし、手勢を率いて決戦する構えを見せた。士人の多くが挙兵を勧め、幡を立てて戒厳し、司馬庾登之に「今、自ら下る(東下する)にあたり、卿に三千人で城を守らせたい」と言うと、劉粋・登之は「下官は老親が都におり、また元来旅(従軍)の情がない。二、三の理由からこの命は受けられない」と答えた。晦がなお諸佐に「戦士三千で城を守れるか」と問うと、南蛮司馬周超が「守城どころか、外寇があれば功を立てられます」と答えたため、登之は「超なら必ずやり遂げるでしょう、私は司馬・南郡の任を解いていただきたい」と願い出、晦はその場で超を司馬・建威将軍・南義陽太守に任じ、登之を長史に転じ南郡太守はそのままとした。

太祖が羨之らを誅殺し、晦の子で新任の秘書郎世休を誅殺、㬭とその子世平・兄子の著作佐郎紹らを捕らえると、楽冏がまた使者を遣わして晦に「徐傅の二公および㬭らはすでに誅された」と告げた。晦はまず羨之・亮の哀を挙げ、次いで子弟の凶報を挙げてから、射堂に自ら出て軍旅の装いを整えた。晦はしばしば高祖に従い征討し、経略の実際を見てきたため、この時の指揮処分はことごとく的確であった。二、三日のうちに四方から人が集まり精兵三万を得ると、上表を行った。

上表の内容は、自らが武皇帝(高祖)の殊遇を受け、内外の政事を謀り王業を輔けた功、先帝不豫の際に徐羨之・傅亮・檀道済と共に御牀の脇で遺詔を受け後事を託された経緯、営陽王(少帝)が失徳し宗廟を自ら絶ったため、廃立に至ったことの正当性、廬陵王(義真)が積怨し自ら非命を招いたこと、王弘・王華兄弟が権要を専らにし忠賢を忌害して非望を企てているとの弾劾、羨之・亮が宗臣として讒言により誅滅されたことへの憤り、自らも先帝の顧命を受けた身として独り生き残ることは容認できないとする主張、そして義兵を挙げて東下し、王弘・王華らを討って寃罪を雪ぎ、その上で自ら朝廷に罪を謝すとの決意を長文で述べたものであった。

太祖はすでに戒厳しており、諸軍が相次いで進発した。尚書は荊州に符を下し「禍福に門なく逆順に数あり、天道は影響に徴され人事は前図に鑑みられる。義を踏んで福が延びず、悪に従って禍が至らぬ例はない。徐羨之・傅亮・謝晦の鴆殺の安忍は天に罪を得たものであり、すでに天下に暴かれ聖詔に宣べられている。羨之父子・亮および晦の子は誅に伏し、三姓同罪のうち既に二姓を捕らえた。晦の一族は縲絏(捕縛)に処されており、その根は孤立し容易く抜ける」として、到彦之・檀道済らの大軍が水陸から進撃する布陣を詳述し、罪は晦一身にあるとして、士民の投降を促す内容であった。

敗北と最期

初め晦は徐羨之・傅亮と共に自全の計を謀り、晦が上流(荊州)に拠り檀道済が広陵に鎮して各々強兵を擁して朝廷を牽制し、羨之・亮が中で権を秉れば長く持ちこたえられると考えていた。太祖が王華らを誅そうとした際、皆「道済は信用できない」と言ったが、太祖は「道済は脅従したにすぎず、もとより主君を殺した事には関わっていない。私が召して問えば必ず(晦らとは)違う対応をするだろう」と述べ、道済を入朝させ、衆を委ねて西討させた。晦は羨之らの死を聞き、道済も無事では済むまいと思っていたが、道済が衆を率いて上ってくると聞くと惶懼して為す術がなかった。

道済は到彦之の軍と合流し、岸沿いに軍を進めた。晦は初め艦の数が少ないのを見て軽んじ、すぐには出戦しなかったが、晩に至り風に乗じて帆を上げた官軍の船が前後連なって到着すると、西軍(晦軍)は離散し闘志を失った。台軍(官軍)が忌置洲の尾に至り艦を連ねて渡江すると、晦の大軍は一時に潰散した。晦は夜、巴陵へ逃れ小船を得て江陵へ戻った。

一方、雍州刺史劉粋は弟の竟陵太守道済(檀道済とは別人)を台軍主沈敞之と共に江陵襲撃に遣わし、沙橋に至って周超が万余の兵で応戦したが大敗した。まもなく晦の敗報が届くと、晦は江陵に戻っても他に処分できることがなく、ただ周超に愧謝するのみであった。超はその夜、単身軍を離れて到彦之のもとに降り、衆は散り尽きた。晦は弟の遯・兄子の世基ら七騎を伴い北へ逃走したが、遯は肥満で騎馬が不得手であり、晦はいつも遯を待って進行が遅れがちであった。安陸の延頭に至り、戍主光順之に捕らえられた(順之は晦の旧吏であった)。檻車で京師へ送られる途上、晦は「悲人道」と題する長文の辞を作り、自らの経緯と後悔、義理と運命への慨嘆を綴った。

京師に着いた後、周超はすでに投降していたが、到彦之は参府事に配していたところ、劉粋が参軍沈敞之を遣わし、沙橋の敗北は周超の責任であると告げたため、彦之は超を捕らえた。先に捕らえていた㬭らはまだ処刑されていなかったが、この時に至り、晦・遯・兄子世基・世猷、及び同党の庾登之・孔延秀・周超・費愔・竇応期・蔣虔・厳千斯らが共に誅に伏した。世基は絢の子で才気があり、死に臨んで連句詩を詠み、「偉なるかな横海の鱗、壮なるかな垂天の翼、一旦風水を失えば、翻って螻蟻の食となる」と詠むと、晦がこれに続けて「功を遂げて昔人に侔(ひと)しくとも、退くを保つ智力無し、既に太行の険しきを渉り、この路まことに陟り難し」と唱和したという。晦は死亡時、享年37。庾登之・殷道鸞・何承天はいずれも赦免された。

初め、河東の人商玄石は晦の参軍であったが、晦が反した際、玄石は密かに西人の庾田夫や到彦之の従弟らを主として推そうとしたが、田夫らが応じなかったため、独り謀を成せず晦の領幢の任に留まった。乱の平定後、本心を遂げられなかったことを恨み、投水して死んだ。太祖はこれを嘉し、その子懐福を衡陽王義季の右軍参軍督護に任じた。晦が敗走した際、左右の者は皆晦を見捨てたが、延陵蓋のみは追随を止めなかった。太祖はこれを嘉し、後に蓋を長沙王義欣の鎮軍功曹督護とした。

史論

史臣曰く、謝晦が璽を封ずる誤りに連座して侍中を免ぜられたのは、高祖の識治と宰臣の職を弁えた対応の一例である。おおよそ拏戮(連座による誅殺)が行われるのは事が重い釁(罪)による場合であり、左遷や黜退は義において軽い過ちに用いられる。軽い過ちは世に軽んじられ、重い釁は人に重んじられるものであるから、斧鉞(重刑)は世に稀に行われ、徽簡(軽い処分)は朝廷で日常的に用いられる。貴臣であっても些細な過失によって法を緩めることなく、これによって下は粛み上は尊ばれる、これが治道である。太祖が政務に臨んで以来、この典はやや違い、法網は疎かに行われ、法は恩によって緩められ、徳を害し美を損なうのはこれに由る。降って大明年間に及んでは、この傾きはますます甚だしくなり、深い私意や密かな諱に触れる者でなければ、権戚に対して左遷の科が行われず、もし身が盛旨に触れても国刑に及ばぬ罪であれば免書がすぐ至り、弔問の客がその門に群がるほどであった。これによって律には恒常の条がなく、上はしばしば法を緩め、綱維(大綱)が挙がらねば網目(細則)もこれに従って乱れる。ゆえに吉人(賢者)は微細な事にも慎みを著し、大事は小事に由って生じると言うのは、まさにこのことを指すのである。