宋書卷四十 志第三十 百官下

侍中省の続き

  • 給事黄門侍郎(4人)——侍中と共に衆事を掌り、郊廟・臨軒には1人が麾を執る。漢百官表によれば秦は給事黄門といい定員なく侍従左右を掌り、漢はこれを因襲。漢東京は給事黄門侍郎といい、やはり定員なく侍従左右・関通中外諸王を掌り、朝見には王を引いて朝坐させた。応劭によれば「毎日暮れに青瑣門に向かって拝するのでこれを夕郎という」。史臣按ずるに、劉向が子の歆に与えた書に「黄門郎は顕処なり」とあるから前漢の世にすでに黄門侍郎があったと考えられる。董巴の漢書によれば「禁門を黄闥という、中人がこれを主るので黄門令という」とあるから、黄門郎は黄闥の内に給事するので黄門郎という。魏晋以来員4人、秩六百石。
  • 公車令(1人)——章奏を受けることを掌る。秦に公車司馬令があり衛尉に属し、漢はこれを因襲し宮南闕門を掌った。凡そ吏民の上章・四方の貢献および公車に徴詣する者はみな掌った。晋江左以来ただ公車令という。
  • 太医令(1人)・(1人)——周官は医師、秦は太医令、二漢では少府に属す。
  • 太官令(1人)・(1人)——周官は膳夫、秦は太官令、漢では少府に属す。
  • 驊騮廐丞(1人)——漢西京は龍馬長、漢東京は未央廐令、魏は驊騮令。公車令からここまでいずれも侍中に隷す。

散騎省

  • 散騎常侍(4人)——左右に侍ることを掌る。秦は散騎を置きまた中常侍を置いた。散騎は乗輿車の後に乗り、中常侍は禁中に入ることができ、いずれも定員なくいずれも加官であった。漢東京の初め散騎を省き中常侍は宦者を用いた。魏文帝黄初の初め散騎を復置し中常侍に合わせ散騎常侍といい、初めて孟逹をこれに補した。久次の者が祭酒となる。散騎常侍の秩は比二千石。
  • 通直散騎常侍(4人)——魏末、散騎常侍にまた員外にある者があった。晋武帝が2人を散騎常侍と通直させたので通直散騎常侍という。晋江左は5人を置く。員外散騎常侍は魏末の設置で定員なし。
  • 散騎侍郎(4人)——魏初、散騎常侍と同時に置かれた。魏晋の散騎常侍・侍郎は侍中・黄門侍郎と共に尚書の奏事を平めた。江左でついに罷めた。通直散騎侍郎4人は初め晋武帝が員外散騎侍郎4人を置き、元帝が2人を散騎侍郎と通直させたので通直散騎侍郎という。後に4人に増した。員外散騎侍郎は晋武帝の置きで定員なし。
  • 給事中——定員なし。漢西京の設置で顧問応対を掌り位は中常侍に次いだ。漢東京は省き魏の世に復置。
  • 奉朝請——定員なく官ともいえない。漢東京は罷め省き三公・外戚・宗室の諸侯の多くが奉朝請となった。奉朝請とは朝会に奉り召に請じられるのみの意。晋武帝もまた宗室・外戚を奉車・駙馬・騎都尉として奉朝請とした。元帝が晋王であった時、参軍を奉車都尉、掾属を駙馬都尉、行参軍・舎人を騎都尉とし、いずれも奉朝請とした。後に奉車・騎都尉を省きただ駙馬都尉のみを留めて奉朝請とした。永初以来、奉朝請の選には主に尚る者を雑え、ただ拝は駙馬都尉のみとした。三都尉はいずれも漢武帝の置きで秩は比二千石。

中書省・秘書省

  • 中書令(1人)、中書舎人(1人)、中書侍郎(4人)、中書通事舎人(4人)——漢武帝が後廷に遊び、初めて宦者に尚書事を典じさせ中書謁者といい令・僕射を置いた。元帝の時、令𢎞恭・僕射石顯が権を秉り事を用い権が内外を傾けたので、成帝が中書謁者令を中謁者令と改め謁者を罷めた。漢東京は中謁者令を省き中宮謁者令を置いたがその職ではなかった。魏武帝が王となり秘書令を置き尚書の奏事を典じたのもこの任にあたる。文帝黄初の初め中書令と改め、また監および通事郎を置き黄門郎に次げ、黄門郎がすでに事を署してから通事がこれを奉じて入り帝のために書を省読し可とした。晋は改めて中書侍郎とし員4人、晋江左は初め中書侍郎を通事郎と改め、まもなくまた中書侍郎に復す。晋初、舎人1人・通事1人を置き、江左は初め舎人・通事を合わせ通事舎人といい呈奏案章を掌らせたが、後に通事を省き中書が侍郎1人を差して西省に直させさらに詔命を掌らせた。宋初にまた通事舎人を置いたので侍郎の任は軽くなった。舎人は閤内に直し中書に隷す。その下に主事があり本は武官を用いたが宋は改めて文吏を用いた。
  • 秘書監(1人)、秘書丞(1人)、秘書郎(4人)——漢桓帝延熹2年に秘書監を置いた(皇甫規が張奐に与えた書に「従兄の秘書がそれの動静如何」とあるのはこれである)。応劭の漢官によれば秘書監1人、秩六百石、後に省く。魏武帝が魏王となり秘書令・秘書丞を置き秘書に尚書の奏事を典じさせた。文帝黄初の初め中書令を置き尚書の奏事を典じたので秘書は令を監と改めた。後に何禎を秘書丞にしようとしたが秘書にはすでに丞がいたので禎を秘書右丞とした。後に省く。芸文図籍を掌る。周官の外史は四方の志・三皇五帝の書を掌ったのがその任である。漢西京の図籍所蔵には天府・石渠・蘭台・石室・延閤・広内の府があった。東京の図書は東観にあった。晋武帝は秘書を中書に併せ省き丞を中書秘書丞といったが、恵帝がまた著作郎1人・佐郎8人を置いて国史を掌らせた(周世の左史は事を記し右史は言を記したのがその任である)。漢東京の図籍は東観にあったので名儒碩学に東観で著作・撰述国史をさせたのが著作の名の始まりである。魏の世は中書に隷し、晋武の世に繆徴が中書著作郎となり、元康中に秘書に隷し改め、後に別に一省をなしたがなお秘書に隷す。著作郎を大著作といい専ら史任を掌る。晋の制では著作佐郎が初めて職に到ればかならず名臣伝1人を撰する。宋氏の初め、国朝が始めて建ち合撰する者がなかったのでこの制はついに廃れた。

領軍・護軍

  • 領軍将軍(1人)——内軍を掌る。漢に南北軍があり京師を衛った。武帝が中塁校尉を置き北軍営を掌らせ、光武が中塁校尉を省き北軍中候・監五校営を置いた。魏武が丞相となり相府自ら領軍を置いたが漢官ではない。文帝が魏王位に即き魏で初めて領軍を置き五校・中塁・武衛の三営を主らせた。晋武帝の初め省き中軍将軍羊祜に二衛・前後左右驍騎の七軍営兵を統べさせたのが領軍の任にあたる。祜が遷ると罷め北軍中候を復置し丞1人を置いた。懐帝永嘉中に中領軍と改め、元帝永昌元年にまた北軍中候と改め、まもなくまた領軍に復す。成帝の世にまた中候とし陶回がこれに就いたが、まもなくまた領軍に復した。領軍の令にはなお南軍都督があった。
  • 護軍将軍(1人)——外軍を掌る。秦時は護軍都尉、漢はこれを因襲、陳平が護軍中尉となりすべての将を護ったから、都尉を中尉としたと考えられる。武帝元狩4年に護軍都尉を大司馬に属させた頃はまだ都尉であった。漢書李広伝に「広は驍騎将軍となり護軍将軍に属す」とあり、護軍とは諸将軍を護る意と考えられる。哀帝元寿元年に護軍都尉を司寇と改名、平帝元始元年にまた護軍都尉と改名、東京は省く。班固が大将軍の中護軍となったのは将軍の莫府に隷し漢朝の列職ではない。魏武が相となり韓浩を護軍、史奐を領軍としたのは漢官ではない。建安12年、護軍を中護軍、領軍を中領軍と改め、長史・司馬を置いた。魏初は因って護軍を置き武官選を主り領軍に隷したが晋世は隷さなくなった。晋元帝永昌元年に護軍を省き領軍に併せ、明帝大寧2年に復置。魏晋江左の領・護は各々営兵を領したが、江左以来領軍は復して別営せず二衛・驍騎・材官の諸軍を総統したが、なお別に営があった。領・護で資の重い者を領軍将軍・護軍将軍、資の軽い者を中領軍・中護軍とした。官属には長史・司馬・功曹・主簿・五官があり、命を受けて出征すれば参軍を置いた。

諸軍将軍

  • 左衛将軍(1人)、右衛将軍(1人)——二衛将軍は宿衛営兵を掌る、二漢・魏は置かず、晋文帝が相国となった時、相国府に中衛将軍を置き、武帝が初め中衛を分けて左右衛将軍を置き羊琇を左衛、趙序を右衛とした。二衛は晋江右には長史・司馬・功曹・主簿があったが江左は長史がない。
  • 驍騎将軍——漢武帝元光6年、李広が驍騎将軍となった。魏の世に内軍として置かれ営兵があり功高い者がこれを主った。もとは司馬・功曹・主簿があったが後に省く。
  • 遊撃将軍——漢武帝の時、韓説が遊撃となった。これで六軍とする。
  • 左軍将軍・右軍将軍・前軍将軍・後軍将軍——魏明帝の時に左軍将軍があったので左軍は魏官と考えられる。晋武帝が初め前軍・右軍を置き、太始8年にまた後軍を置いたのでこれで四軍とする。
  • 左中郎将・右中郎将——秦官、漢はこれを因襲し五官中郎将と共に三署郎を領した。魏には三署郎はないがなおその職を置いた。晋武帝が省き、宋世祖大明中にまた置いた。
  • 屯騎校尉・歩兵校尉・越騎校尉・長水校尉・射声校尉——五校はいずれも漢武帝の設置。屯騎・歩兵は上林苑門の屯兵を掌り、越騎は越人の来降を掌り騎とした(一説に材力の超越を取るという)。長水は長水宣曲の胡騎を掌る(長水は胡の部落名で胡騎は宣曲観の下に屯した)。韋曜によれば「長水校尉は胡騎廐を典じ長水に近いので名とした、長水は関中の小水の名か」という。射声は射声士を掌り声を聞けば射たので名とした。漢光武が初め屯騎を驍騎、越騎を青巾と改めたが建武15年に旧に復した。漢東京の五校は宿衛士を典じた。遊撃から五校まで魏晋から江左に至り初めなお営兵を領しみな司馬・功曹・主簿を置いたが後に省く。二中郎将はもと営を領しない。五営校尉の秩は二千石。
  • 虎賁中郎将——周官に虎賁氏があった。漢武帝建元3年に初めて微行して出遊し材力の士を選び兵を執り従送させ諸門で期させたので期門と名づけ定員なく多くて千人に及んだ。平帝元始元年に虎賁郎と改名し中郎将を置いてこれを領させた(虎賁はもと虎奔に作り虎の奔走のごとくを言う。王莽が輔政し古に勇士孟賁があったので奔を賁に改めた)。比二千石。
  • 宂従僕射——漢東京に中黄門宂従僕射がありその職ではなかった。魏の世にその名に因り宂従僕射を置いた。
  • 羽林監——漢武帝太初元年に初めて建章営騎を置きまた従送・次期を掌らせ、後に羽林騎と改め令丞を置いた。宣帝が中郎将・騎都尉に羽林を監させ羽林中郎将といった。漢東京にまた羽林左監・羽林右監を置き魏の世に至り改めず。晋は羽林中郎将を罷め一監を省いてただ一監のみを置いた。虎賁から羽林までで三将とする。哀帝が省き、宋高祖永初の初めに復置。晋江右は営兵を領したが江左は復して営兵がなくなった。羽林監は六百石。
  • 積射将軍彊弩将軍——漢武帝が路博徳を彊弩校尉、李沮を彊弩将軍とし、宣帝は許延寿を彊弩将軍とした。彊弩将軍は東漢に至り雑号となった。前漢から魏まで積射はなかったが、晋太康10年に射営・弩営を立て積射・彊弩将軍を置いてこれを主らせた。驍騎から彊弩将軍まで先はいずれも各1人を置いたが、宋太宗泰始以来多くは軍功によりこの官を得るようになり今はいずれも定員がない。
  • 殿中将軍殿中司馬督——晋武帝の時、殿内宿衛を三部司馬と号し、この二官を置いて左右二衛に分隷させた。晋江右は初め員10人、朝会宴饗には将軍が戎服して左右に直侍し、夜城の諸門を開くには白虎幡を執ってこれを監督した。晋孝武太元中に改め門閥の者を選んでこれに居らせた。宋高祖永初の初めに20人に増し、その後員を過ぎる者を殿中員外将軍・員外司馬督といったが、その後いずれも定員がなくなった。
  • 武衛将軍——定員なし。初め魏王が武衛中郎将を置き、文帝の践阼で衛将軍と改め禁旅を主った。今の二衛のようなものだがその任ではない。晋氏は常置でなく、宋世祖大明中に復置し殿中将軍の任に代えた。員外散騎侍郎に比す。
  • 武騎常侍——定員なし。漢西京の官で車駕が遊猟する時に常に従って猛獣を射た。後漢・魏晋は置かず、宋世祖大明中に復置。奉朝請に比す。

御史台

  • 御史丞(1人)——奏劾不法を掌る。当時、御史大夫には二丞があり、その一を御史丞、その二を御史中丞といい、殿中蘭台秘書図籍はここにあり中丞がこれに居た。外は部刺史を督し、内は侍御史を領し、公卿の奏事を受け挙劾按章した。時に中丞もまた奏事を受けたので分掌があったと考えられる。成帝綏和元年、御史大夫を大司空と改め長史を置いたが中丞の官職は旧のままとした。哀帝建平2年にまた御史大夫に復し、元寿2年にまた大司空に復し、中丞は外に出て御史台の主となり御史長史と名づけたが、光武が戻すと中丞と称し、また少府に属した。献帝の時、また御史大夫を置き自ら長史1人を置き復して中丞を領さなくなった。漢東京の御史中丞が尚書丞・郎に遇えば中丞は車を止め版を執り揖するのみで丞・郎は車に坐して手を挙げてこれに礼するのみであった、この制がいつ省かれたか不明。中丞は毎月25日に宮垣を繞り巡って白壁する。史臣按ずるに漢志によれば執金吾は毎月三たび宮城を繞行するとあり、金吾を省いてこの事を中丞に併せたのではないかと考えられる。中丞は秩千石。
  • 治書侍御史——官品第六以上の挙劾を掌る。漢宣帝が斎居して決事する時に御史2人に治書させたことに因り治書御史という。漢東京では法律に明るい者をこれとし天下の讞疑事は法律に照らしその是非を当てさせた。魏晋以来、侍御史の掌る諸曹を分掌し、尚書の二丞のようなものである。
  • 侍御史——周では柱下史にあたる。周官に御史があり治令を掌ったのもその任にあたる。秦は侍御史を置き漢はこれを因襲、二漢の員は並びに15人で非法を察挙し公卿の奏事に違失ある者を受けて挙劾することを掌った。凡そ五曹あり、一を令曹といい律令を掌り、二を印曹といい刻印を掌り、三を供曹といい斎祠を掌り、四を尉馬曹といい官廐馬を掌り、五を乗曹といい護駕を掌った。魏は御史8人を置き治書曹があり度支運課を掌り、第曹は考課を掌ったが、その他の曹は不明。晋西朝には吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中堅曹・営軍曹・算曹・法曹の凡そ13曹があり御史9人を置いた。晋江左は初め課第曹を省き庫曹を置いて廐牧牛馬市租を掌らせ、後にまた庫曹を分けて外左庫・内左庫の二曹を置いた。宋太祖元嘉中に外左庫を省いて内左庫をただ左庫といい、世祖大明中に復置、廃帝景和元年にまた置き、順帝の初めに省いた。営軍を水曹に併せ算曹を法曹に併せ、吏曹には御史を置かず凡そ10御史とする。魏にはまた殿中侍御史2人があり、蘭台が2御史を殿内に遣わし非法を察せさせたと考えられる。晋西朝は4人、江左は2人。秦漢に符節令があり少府に隷し符璽郎・符節令史を領した(周礼の典瑞が節を掌るのにあたる)。漢から魏に至り別に一台とし位は御史中丞に次ぎ授節・銅虎符・竹使符を掌ったが、晋武帝太始9年に省き蘭台に併せ、署符節御史がその事を掌るようになった。
  • 謁者僕射(1人)——大拝授および百官の班次を掌り、謁者10人を領する。謁者は小拝授・報章を掌る、秦官と考えられる(謁は請の意)。応氏の漢官によれば「堯が舜を四門で賔たらせ試みた」のがその職にあたる。秦世は謁者70人、漢はこれを因襲した。後漢百官志によれば謁者僕射は奉引を掌り、和帝の世に陳郡の向熙が謁者僕射となり殿中で拝を賛すると音が左右に動いたという。したがってまた常侍謁者5人があった。謁者はすなわち35人を置き西京の半分に減った。二漢いずれも光禄勲に隷したが、魏の世に謁者10人を置き、晋武帝が省き僕射を蘭台に隷させた。江左でまた僕射を置いたが後にまた省き、宋世祖大明中に復置。秩は比千石。
  • 都水使者(1人)——舟航および運部を掌る。秦漢に都水長丞があり陂池灌漑・保守河渠を主り太常に属した。漢東京は都水を省き河隄謁者を置き魏はこれを因襲した。漢世の水衡都尉は上林苑を主ったが、魏の世は天下の水軍・舟船器械を主った。晋武帝が水衡を省き都水使者を置き河隄を都水官の属とし、参軍2人・謁者1人・令史を減置し定員なしとした。晋西朝には参軍があったが謁者はなく、謁者は江左に置かれたものである。懐帝永嘉6年、胡が洛陽に入った時、都水使者爰濬が先に出て督運し免れたので、武帝が職を置いた時すでに運を掌らせていたと考えられる。江左は河隄を省いた。

東宮官

  • 太子太傅(1人)・(1人)、太子少傅(1人)・(1人)——傅は古官。文王世子に「凡そ三王世子を教うるに太傅は前に在り少傅は後に在り」とありいずれも輔導を職とした。漢高帝9年に叔孫通を太子太傅とし位は太常に次いだ。二漢はいずれも丞がなかったが、魏の世は東宮がなかったので晋氏が丞を置いたと考えられる。晋武帝太始5年に詔して太子が太傅・少傅を拝するに弟子が師に事える礼のようにさせ、二傅は上疏して二傅に曲敬することを得ないとした。二傅はいずれも功曹・主簿・五官があった。太傅は中二千石、少傅は二千石。
  • 太子詹事(1人)・(1人)——職は台の尚書令・領軍将軍に比す。詹は省の意。漢西京は太子門大夫・庶子・洗馬・舎人が二傅に属し、率更令・家令・僕・衛率が詹事に属した、みな秦官である。後漢は詹事を省き太子の官属はことごとく少傅に属し太傅は復して官属を領さなくなった。晋初、太子の官属は二傅に通属したが、咸寧元年に詹事を復置し二傅は復して官属を領さなくなった。詹事は一千石。
  • 家令(1人)・丞(1人)——晋世の設置。漢世、太子は湯沐邑十県を食し家令がこれを主り、また刑獄・飲食を主る、職は廷尉・司農・少府に比す。漢東京は食官令を主った、食官令は晋世に自ら官となり復して家令に属さなくなった。
  • 率更令(1人)——宮殿門戸および賞罰の事を主る、職は光禄勲・衛尉のようなもの。漢東京は庶子・舎人を掌ったが晋世はそうでない。漢から晋まで家令は率更の下にあったが宋では上に居る。
  • 僕(1人)——漢世、太子は五日に一朝、入朝の日でなければ僕および中允を遣わし旦に起居を請問し車馬・親族を主る、職は太僕・宗正のようなもの。家令から僕までで太子三卿とし、三卿の秩は千石。
  • 門大夫(2人)——漢東京の設置。職は中郎将のようなもので遠近の表牋を分掌する。秩六百石。
  • 中庶子(4人)——職は侍中のようなもの。漢東京は員5人、晋は減じて4人。秩六百石。
  • 中舎人(4人)——漢東京の太子官属に中允の職があり中庶子の下・洗馬の上にあり、中書舎人に令に似ていたと考えられる。中舎人は晋初の設置で職は黄門侍郎のようなもの。
  • 食官令(1人)——職は太官令のようなもの、漢東京の官、今は中庶子に属す。
  • 庶子(4人)——職は散騎常侍・中書監令に比す、晋の制。漢西京は員5人、漢東京は定員なく職は三署中郎のようなもの。古は諸侯世子に庶子の官があり秦がその名に因った。秩四百石。
  • 舎人(16人)——職は散騎・中書侍郎のようなもの、晋の制。二漢は定員なく宿衛を掌ること三署中郎のようなもの。
  • 洗馬(8人)——職は謁者・秘書郎のようなもの。二漢は員16人。太子が出れば当直の者が前駆・導威儀した。秩比六百石。
  • 太子左衛率(7人)、太子右衛率(2人)——五率は職は二衛のようなもの。秦時はただ衛率といい漢はこれを因襲し門衛を主った。晋初は中衛率といい太始に左右に分け各々一軍を領した。恵帝の時、愍懐太子が東宮に在り前後二率を加置した。成都王頴が皇太弟となりまた中衛を置いたのでこれで五率とする。江左初め前後二率を省き、孝武太元中にまた置いた。いずれも丞があり晋初の設置。宋世はただ左右二率のみを置く。秩は旧四百石。
  • 太子屯騎校尉、太子歩兵校尉、太子翊軍校尉——三校尉は各々7人でいずれも宋初の設置。屯騎・歩兵は台の校尉に因み、翊軍は晋武帝太康の初めに置き初めて台校尉とし唐彬がこれに就いた。江左で省く。
  • 太子宂従僕射(7人)——宋初の設置。
  • 太子旅賁中郎将(10人)——職は虎賁中郎将のようなもの、宋初の設置。周官に旅賁氏があり、漢制では天子に虎賁、王侯に旅賁があった(旅は衆の意)。
  • 太子左積弩将軍(10人)、太子右積弩将軍(2人)——漢東京の積弩将軍は雑号であり左右の積弩はなかった。魏の世から晋江左まで左右積弩は台職として営兵を領したが、宋世は東宮に営がなくなった。
  • 殿中将軍(10人)、殿中員外将軍(20人)——宋初の設置。

四夷校尉

  • 平越中郎将——晋武帝が置き広州に治し南越を主った。
  • 南蛮校尉——晋武帝が置き襄陽に治す。江左は初め省きまた置き江陵に治す。宋世祖孝建中に省く。
  • 西戎校尉——晋初に置き長史あり、安帝義熙中にまた置き治す。
  • 寧蛮校尉——晋武帝が置き襄陽に治し魯宗之に授けた。
  • 南夷校尉——晋武帝が置き寧州に治す。江左では鎮蛮校尉と改めた。四夷の中郎・校尉はいずれも長史・司馬・参軍を置いた。魏晋には雑号護軍があり将軍のようなもので、今なお鎮蛮・安遠などの護軍がある。鎮蛮は廬江・晋熙・西陽太守に加え、安遠は武陵内史に加えられた。

刺史・郡守・県令

  • 刺史——各州各1人。黄帝が四監を立て万国を治め、唐虞の世の十二牧がその職にあたる。周は典と改め、秦は監御史と称し、さらに丞相史を遣わし諸州を分刺させ刺史といった(刺とは参覘のような意。文書を写すこともまた刺という)。漢制では尚書事を刺すことができないというのがこれである。刺史は六条詔書を班行し、その一条は「彊宗豪右の田宅制度を踰え彊を以て弱を陵ぎ衆を以て寡を暴う」、二条は「二千石が詔書を奉ぜず典制を遵承せず公に背き私に向かい詔を旁げ利を守り百姓を侵漁し聚斂して姦を為す」、三条は「二千石が疑獄を恤せず風厲して人を殺し怒れば罰を加え喜べば賞を任じ煩擾苛暴で黎元を剥戮し百姓の疾む所となり山崩石裂・妖祥訛言あり」、四条は「二千石が選署に不平で苟も愛する所に阿り賢を蔽い頑を寵す」、五条は「二千石の子弟が栄勢を恃怙し監る所に請託する」、六条は「二千石が公に違い私に下比し豪彊に阿附し貨賂を通行し正令を割損す」というものであった。歳の終わりには伝に乗り京師に詣で奏事した。成帝綏和元年に牧と改め、哀帝建平2年にまた刺史に復す。前漢の世、刺史は伝に乗り郡国を周行し治める所を定めなかったが、後漢の世には治所が定処を持つようになり8月に部を行くのみで復して京師に奏事しなくなった。晋江左はなお郡県を巡行した。棗拠の追遠詩に「先君は鉅鹿太守と為り、今に迄るまで三紀。私を忝くして冀州刺史と為り、詔を班して郡に次す」とあるのがこれである。霊帝の世に天下漸く乱れ豪傑各々州郡に拠り、劉焉・劉虞はいずれも九卿より出て益州・幽州の牧となり、その任は次第に重くなった。官属には別駕従事史1人(刺史に従って部を行く)、治中従事史1人(財穀簿書を主る)、兵曹従事史1人(兵事を主る)、部従事史(各郡ごとに1人あり非法を察することを主る)、主簿1人(閤下の衆事を録し文書を省署する)、門亭長1人(州の正門を主る)、功曹書佐1人(選用を主る)、孝経師1人(試経を主る)、月令師1人(時節祠祀を主る)、律令師1人(律を平める)、簿曹書佐1人(簿書を主る)、典郡書佐(各郡ごとに1人あり一郡の文書を主る)があった、これは漢制である。今は別駕従事史・治中従事史・主簿・西曹書佐・祭酒従事史・議曹従事史・部郡従事史があり、主簿以下は置く人数を各々州の旧に随わせ定制はない。晋成帝咸康中、江州にまた別駕祭酒があり僚職の上にあり別駕従事史は旧のままであったが今はない。別駕・西曹は吏および選挙事を主り、治中は衆曹文書事を主る(西曹はすなわち漢の功曹書佐である)。祭酒は諸曹の兵・賊・倉・戸・水・鎧の類を分掌する。揚州には祭酒がなく主簿が事を治める。荊州には従事史があり議曹従事史の下にある。おおよそ魏晋以来の設置と考えられる。今、広州・徐州には月令従事があるが、諸州の曹史のようなものは漢の旧名である。漢武元封4年、諸州に歳ごとに各々秀才1人を挙げさせ、後漢は光武の諱を避け茂才と改め、魏がまた秀才と改めた。晋江左、揚州は歳に2人を挙げ、他の州は1人あるいは3歳に1人を州の大小に随って挙げ、いずれも策問に対した。晋の東海王越が豫州牧となった時、牧に長史・参軍を置き庾凱を長史、謝鯤を参軍としたが、牧たる者にはこれはない。牧は二千石、刺史は六百石。
  • 郡守——秦官。秦は諸侯を滅ぼしその地を郡とし守・丞・尉各1人を置いた。守は民を治め丞がこれを佐けた。郡が辺戍にあたる場合、丞を長史とした(晋江左はいずれも丞という)。尉は兵を典じ盗賊に備えた。漢景帝中2年に守を太守と改め尉を都尉と改めた。光武が都尉を省いたが後にまた往々にして東部・西部都尉を置き、蛮夷ある郡にはまた属国都尉を置いた。漢末および三国は多くは諸部都尉を郡としたが、晋成帝咸康7年にまた諸郡丞を省き、宋太祖元嘉4年に復置。郡の官属は公府にほぼ同じだが東西曹はなく、功曹史が選挙を主り五官掾が諸曹事を主り、部県には都郵・門亭長を置き、また主記史が催督期会を主る、これは漢制であり今もほぼこの通りである。諸郡には各々旧俗があり諸曹の名号は往々にして同じでない。漢武帝が董仲舒の言を納れ元光元年に初めて郡国に孝廉を挙げさせた。郡の制は口20万以上は歳に1人、40万以上は2人、60万は3人、80万は4人、100万は5人、120万は6人を察せさせ、20万に満たない郡は2歳に1人、10万に満たない郡は3歳に1人とし、四科を限りとした。一に「徳行高妙で志節清白」、二に「学に通じ行いを修め経に博士に中る」、三に「法令に明習し疑いを決するに足り章を案じ問を覆すに文御史に中る」、四に「剛毅で多略、事に遭って惑わず明らかに決断するに足り才三輔の県令に任ず」とされた。魏初にさらに制を改め口10万以上は歳に1人、秀異があれば戸口に拘らないとした。江左は丹陽・呉・会稽・呉興をいずれも大郡とし歳ごとに各々2人を挙げた。漢制では歳ごとに上計掾史各1人を遣わし郡内の衆事を条上させ階簿といったが今もこれを行っている。太守は二千石、丞は六百石。
  • 県令・長——秦官。大なる者を令、小なる者を長とし、侯国では相とした。漢制では丞1人を置き、尉は大県2人、小県1人。五家を伍とし伍長がこれを主り、二伍を什とし什長がこれを主り、十什を里とし里魁がこれを主り、十里を亭とし亭長がこれを主り、十亭を郷とし郷には郷佐・三老・有秩・嗇夫・游徼各1人があった(郷佐は賦税を主り、三老は教化を主り、嗇夫は争訟を主り、游徼は姦非を主った)。その他の諸曹はほぼ郡職と同じで五官を廷掾とし、後には復して丞がなくただ建康にのみ獄丞があった。その他の衆職はこの県にあってあの県にないなど各々旧俗がある、定制はない。晋江右、洛陽県には六部都尉を置き他の大県には2人、次県・小県は各々1人を置いた。宋太祖元嘉15年に小県はまた省いた。諸官府から郡に至るまで各々五百を置く。旧説によれば古は君行に師が従い卿行に旅が従う、旅は500人であるという。今、県令以上は古の諸侯にあたるので四百・五百を立て師従・旅従を象り古義に依るという。韋曜によれば「五百の字はもと伍伯といい、伍は当の意、伯は道の意、これに導引させ道に当たらせる、伯中はこれで駆除させる意」という。周制では500人を旅とし帥はいずれも大夫でありそのように卑しくできないというのがこの説である。また周礼秋官に条狼氏があり鞭を執って趨辟を掌り、王が出入する時は8人が道を夾み、公は6人、侯伯は4人、子男は2人であったというのが近い。名が異なるのみである。また漢官には伯使があり諸官のために駆使し辟路道伯中を主った、これがその比である。県令は千石から六百石、長は五百石。

王国官

漢初、王国に太傅を置き輔導を掌り、内史が治民を主り、丞相が衆官を統べ、中尉が武職を掌り、官を分け職を置くこと京師にほぼ同じであったが、景帝が七国の乱を懲らし諸王が国を治めることを得ない制に改めた。漢はまた吏を置き丞相を相と改め、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官を省き、その大夫・謁者・諸官の長丞はいずれも員数を損じた。後に漢の内史を京兆尹、中尉を執金吾、郎中令を光禄勲と改めたが王国は旧のままとし、また太僕を僕、司農を大農とした。成帝がさらに相に郡太守のように治民させ内史を省いてその中尉を郡尉のようにし、太傅はただ傅というのみとした。漢東京もまた傅1人を置き王がこれに師事し、相1人が治民を主り、中尉1人が盗賊を主り、郎中令1人が郎中の宿衛を掌り、僕1人・治書1人(治書はもと尚書といい後に治書と改名)・中大夫(定員なし、奉使京師および諸国者を掌る)および礼楽・衛士・医工・永巷・祀礼の長各1人、郎中(定員なし)があった。魏氏の謁者官属は史に欠け次第を知らない。晋武帝が初め師・友・文学各1人を置いた(師はすなわち傅である、景帝の諱が師であったので傅と改め、宋世にまた師と改めた。文学は前漢すでに置いていた。友は文王・仲尼の四友の名に因む)。太守を内史と改め相および僕を省き、郎中令・中尉・大農を三卿とした。大国には左右常侍各3人を置き、郎中を省き侍郎2人を置いた。大国はまた上軍・中軍・下軍の三将軍を置き、次国は上軍将軍・下軍将軍各1人、小国は上軍のみであった。典書・典祠・典衛・学官令・典書令丞各1人、治書4人、中尉・司馬・世子・庶子・陵廟牧長各1人、謁者4人、中大夫6人、舎人10人、典医丞・典府丞各1人を置いた。宋氏以来一に晋制を用い、大小国とも三軍がある。晋制では典書令は常侍の下・侍郎の上にあったが、江左では侍郎が常侍に次ぎ典書令は三軍の下に居る。江左以来、公国には中尉・常侍・三軍がなく、侯国はまた大農・侍郎がなく、伯・子・男はただ典書以下のみでまた学官令もない。吏職はいずれも次第に損省された。晋江右、公侯以下の官属は国の大小に随い定制がない。晋江左、諸国はみな三分の一を食としたが、元帝太興元年に初めて九分の一を食とする制を定めた。

官品

  • 第一品——太傅・太保・太宰・太尉・司徒・司空・大司馬・大将軍・諸位従公。
  • 第二品——特進・驃騎車騎衛将軍・諸大将軍・諸持節都督。
  • 第三品——侍中散騎常侍・尚書令僕射尚書・中書監令秘書監・諸征鎮至龍驤将軍・光禄大夫・諸卿尹・太子二傅・大長秋・太子詹事・領護軍・県侯。
  • 第四品——二衛至五校尉・寧朔至五威五武将軍・四中郎将・刺史領兵者・戎蛮校尉・御史中丞都水使者・郷侯。
  • 第五品——給事中黄門散騎中書侍郎・謁者僕射・三将積射彊弩将軍・太子中庶子庶子三卿率・鷹揚至陵江将軍・刺史不領兵者・郡国太守内史相・亭侯。
  • 第六品——尚書丞郎・治書侍御史侍御史・三都尉・博士・撫軍以上および持節都督領護長史司馬・公府従事中郎将・廷尉正監評・秘書著作丞郎・王国公三卿師友文学・諸県署令千石者・太子門大夫・殿中将軍司馬督・雑号護軍・関内侯。
  • 第七品——謁者・殿中監・諸卿尹丞・太子傅詹事率丞・諸軍長史司馬六百石者・諸府参軍・戎蛮府長史司馬・公府掾属・太子洗馬舎人食官令・諸県令六百石者。
  • 第八品——内台正令史・郡丞・諸県署長・雑号宣威将軍以下。
  • 第九品——内台書令史・外台正令史・諸県署丞尉。

(凡そ新たに置かれこれらの諸条に見えないものは、秩位の視る所に随う。この定めは以上のとおりである。)