宋書卷三十五 志第二十五 州郡一 揚州・南徐州・徐州・南兖州・兖州
総説
唐堯の世には十二牧を置き、禹が水土を平らげるに及んで九州に改めた。冀州は堯の都で土地は広く遠く、済水・河水の間を兖州、海・岱の間を青州、海・岱・淮の間を徐州、淮・海の間を揚州、荆及び衡陽を荆州、荆・河の間を豫州、華陽・黒水の間を梁州、黒水・西河の間を雍州とした。虞から殷まで改変がなかった。周は天下を有すると徐を青に并せ、梁を雍に并せ、冀州の地を分けて幽・并とした。漢の初めにまた徐・梁の二州を立て、武帝は胡越を攘い境を広げ、南に交趾を置き北に朔方を置き、雍を涼と改め涼を益と改め、あわせて十三州とし、司隷部の三輔・三河の諸郡には東京(洛陽)以後朔方はなく、交趾を交州と改め、あわせて十二州となった。三国が鼎立するに及び呉は揚・荆・交の三州を、蜀は益州を、魏はなお九州を得た。呉はまた交を分けて広州とし、魏末に蜀を平らげるとまた益を分けて梁州とした。晋の武帝太康元年(280年)天下は一統し、あわせて十六州となり、後にまた涼雍を分けて秦を、荆揚を分けて江を、益を分けて寧を、幽を分けて平を立て、二十州となった。夷狄が中華を乱すに及び、司・冀・雍・涼・青・并・兖・豫・幽・平の諸州は一時に淪没し、遺民は南に渡り僑(仮住まいの)州郡を並べ立てたが、もとの土地ではなかった。江左(東晋)はまた荆を分けて湘とし、あるいは離しあるいは合わせ、あわせて揚・荆・湘・江・梁・益・交・広の州があった。その徐州は半ばを過ぎ、豫州はただ譙城を得るのみとなった。宋の世に至り揚州を分けて南徐・徐州を南兖とし、揚州の江西はすべて豫州に属し、荆を分けて雍とし、荆湘を分けて郢とし、荆を分けて司とし、広を分けて越とし、青を分けて冀とし、梁を分けて南北秦とした。太宗(明帝)の初め索虜(北魏)が南侵し、青・冀・徐・兖及び豫州の淮西はみな守れず、淮以北は虜庭に帰した。そこで鍾離に徐州を置き、淮陰を北兖とし、青冀二州は贛榆県に治所を置いた。今この志はおおよそ大明八年(464年)を正とし、その後の分派は事に随って記列する。内史・侯相は昇明末(479年)を定めとする。地理は参差としてその詳細を挙げがたい。実に名号がしばしば易わり境土がしばしば分かれ、あるいは一郡一県が割かれて四五となり、四五の中もしばしば離合するためで、巧みな暦算もこれを数えきれない。今は班固・司馬彪の二志、太康元年・元康年間の戸数の定め、王隠『地道記』、晋世の起居注、宋の永初郡国志、何承天・徐爰の州郡志及び地理雑書を互いに参照し確かめる。三国には志がなく事は帝紀に出るのみで、郡が立てられた時は見えても県の設置は書かれていないことが多いため、ここではただ『続漢書』郡国志で太康の地志と参照し異同を検証する。漢より宋に至り郡県の移改がないものは「漢の旧」と注し、移動があったものは源に随って区別する。ただ「某なし」というものはそれ以前にはあったということである。もし注のないものは史に闕けている。
揚州
揚州刺史。前漢の刺史には治所が定まっていなかった(他州も同じ)。後漢は歴陽に治し、魏晋は寿春に治した。晋が呉を平らげると建業に治した。成帝咸康四年(338年)、僑(仮)の魏郡を立て、肥郷・元城(漢の旧県、晋は陽平に属す)の二県を併せ、後に元城を省き、また広川郡を僑立し広川一県を領したが、宋の初めに県に降格し魏郡に隷属させた。江左はまた高陽・堂邑の二郡を立て、高陽は北新城・博陸(博陸県は霍光が封ぜられた地で二漢にはなく晋は高陽に属す)の二県を領し、堂邑は堂邑一県を領したが、後に堂邑を省き高陽に并せ、また高陽を省き魏郡に并せ、みな揚州に隷属して京邑に寄治した。文帝元嘉十一年(434年)これを省きその民を建康に併せた。孝建元年(454年)揚州の会稽・東陽・新安・永嘉・臨海の五郡を分けて東揚州とし、大明三年(459年)州を罷めてその地を王畿とし、南台侍御史を諸郡の部を従事の部のように伝させたが、東揚州は直ちに揚州と称された。八年(464年)王畿を罷めて再び揚州を立て、揚州はまた東揚州となった。前廃帝永光元年(465年)東揚州を省いて揚州に并せた。順帝昇明三年(479年)揚州刺史を改めて牧と称した。領する郡は十、県は八十、戸一十四万三千二百九十六、口一百四十五万五千六百八十五。
丹陽尹
秦の鄣郡で、治所は今の呉興の故鄣県にあった。漢の初め呉国に属し、呉王濞の反乱が敗れると江都国に属した。武帝元封二年(前109年)丹陽郡となり治所は今の宣城の宛陵県にあった。晋武帝太康二年(281年)丹陽を分けて宣城郡とし治所を宛陵とし、丹陽は建業に治所を移した。元帝太興元年(318年)尹と改めた。県八、戸四万一千一十、口二十三万七千三百四十一。
- 建康令:もと秣陵県。漢献帝建安十六年(211年)県を置く。孫権が秣陵を建業と改め、晋武帝が呉を平らげると秣陵に戻した。太康三年(282年)秣陵の水北を分けて建業とし、愍帝即位に及び帝の諱を避けて建康と改めた。
- 秣陵令:その地はもと金陵と名づけ、秦始皇が改めた。もとの治所は京邑を去ること六十里の今の故治村である。晋安帝義熙九年(413年)京邑の鬬場に治所を移した。恭帝元熙元年(419年)揚州府禁防参軍県がその地に治所を移した。
- 丹楊令:漢の旧県。
- 江寧令:晋武帝太康元年(280年)秣陵を分けて臨江県を立て、二年に改名した。
- 永世令:呉が溧陽を分けて永平県とし、晋武帝太康元年に改名。恵帝の世に義興に属したが、まもなく旧に復した。義興にはまた平陵県があり、董覧『呉地誌』は晋が永世を分けたというが、太康・永寧の地誌にはともにないので江左に立てられたものかという。文帝元嘉九年(432年)永世・溧陽の二県を併せた。
- 溧陽令:漢の旧県。呉は省いて屯田とし、晋武帝太康元年に再び立てた。
- 湖熟令:漢の旧県。呉は省いて典農都尉とし、晋武帝太康元年に再び立てた。
- 句容令:漢の旧県。
会稽太守
秦が立て呉に治した。漢順帝永建四年(129年)会稽を分けて呉郡とし、会稽は山陰に治所を移した。県十、戸五万二千二百二十八、口三十四万八千一十四。京都まで水路一千三百五十五・陸路も同じ。
- 山陰県令:漢の旧県。
- 永興令:漢の旧県で餘暨といったが呉が改名。
- 上虞令:漢の旧県。
- 餘姚令:漢の旧県。
- 剡令:漢の旧県。
- 諸暨令:漢の旧県。
- 始寧令:何承天志では漢末に上虞を分けて立てたとし、賀循『会稽記』では順帝永建四年に上虞の南郷を分けて立てたとする。『続漢志』にはなく晋の太康三年の地志にある。
- 句章令:漢の旧県。
- 鄮令:漢の旧県。
- 鄞令:漢の旧県。
呉郡太守
会稽を分けて立てた。孝武帝大明七年(463年)南徐に度属し、八年(464年)旧に復した。県十二、戸五万四百八十八、口四十二万四千八百一十二。京都まで水路六百七十・陸路五百二十。
- 呉令:漢の旧県。
- 婁令:漢の旧県。
- 嘉興令:この地はもと長水といい、秦が由拳と改めた。呉の孫権黄龍四年(232年)由拳県に嘉禾が生じ禾興と改め、孫晧の父の名が和であったため嘉興と改名した。
- 海虞令:晋武帝太康四年(283年)呉県の虞郷を分けて立てた。
- 海塩令:漢の旧県。呉記ではもと武原郷といい秦が海塩県とした。
- 塩官令:漢の旧県。呉記では塩官はもと嘉興に属し呉が海昌都尉治として立てたが、後に県と改めたのは誤りという。
- 銭唐令:漢の旧県。
- 富陽令:漢の旧県でもとは富春といった。孫権黄武四年(225年)東安郡としたが七年に省き、晋の簡文帝の鄭太后の諱が春であったため孝武帝が富陽と改めた。
- 新城令:浙江の西南は桐溪と名づけ、呉が新城県として立てたが後に桐廬に併せられた。晋太康地志にはなく張勃は晋末に立てたというので太康末に立てられまもなく省かれたものかという。晋成帝咸和九年(334年)また立てた。
- 建徳令:呉が富春を分けて立てた。
- 桐廬令:呉が富春を分けて立てた。
- 寿昌令:呉が富春を分けて立てた。
- 新昌県:晋武帝太康元年に改名。
呉興太守
孫晧宝鼎元年(266年)呉・丹陽を分けて立てた。県十、戸四万九千六百九、口三十一万六千一百七十三。京都まで水路九百五十・陸路五百七十。
- 烏程令:漢の旧県で先に呉に属した。
- 東遷令:晋武帝太康三年烏程を分けて立てた。後廃帝元徽四年(476年)東安と改名、順帝昇明元年(477年)旧に復した。
- 武康令:呉が烏程・余杭を分けて永安県を立て、晋武帝太康元年に改名。
- 長城令:晋武帝太康三年烏程を分けて立てた。
- 原郷令:漢霊帝中平二年(185年)故鄣を分けて立てた。
- 故鄣令:漢の旧県で先に丹陽に属した。
- 安吉令:漢霊帝中平二年故鄣を分けて立てた。
- 余杭令:漢の旧県で先に呉に属した。
- 臨安令:呉が余杭を分けて臨水県とし、晋武帝太康元年に改名。
- 於潜令:漢の旧県で先に丹陽に属した。
淮南太守
秦が立て九江郡とし廬江・豫章も兼ねた。漢高帝四年(前203年)淮南国と改名、分立して豫章郡とした。文帝がまた廬江郡を分立、武帝元狩元年(前122年)また九江郡とし治所を寿春県とした。後漢は陰陵県に治所を移した。魏は再び淮南と称し治所を寿春に移した。晋武帝太康元年、歴陽・当塗・逡道の諸県を再び立て、二年に鍾離県も再び立てた。いずれも二漢の旧県である。三国の時、江淮は戦争の地であり間の数百里は住む者がなかった。これらの県はみな江北にあり淮南は地が空しく民戸がなかった。呉が平らげられると民は各々本籍に還り再び立てられた。その後中原が乱れ胡寇がしばしば南侵し淮南の民は多く南渡した。成帝の初め蘇峻・祖約が江淮で乱を作し胡寇もまた大挙して至ったため、南渡する民はますます多くなり、江南に淮南郡及び諸県を僑立した。晋末についに丹陽の于湖県を割いて淮南の境とし、宋の孝武帝大明六年(462年)淮南郡を宣城に併せ宣城郡を于湖に治所を移し、八年(464年)再び淮南郡を立て南豫州に属させた。明帝泰始三年(467年)揚州に還属した。県六、戸五千三百六十二、口二万五千八百四十。京都まで水路一百七十・陸路一百四十。
- 于湖令:晋武帝太康二年丹楊県を分けて立てた。もと呉の督農校尉の治所。
- 当塗令:晋成帝の世に逡道とともに僑県として立てられ、晋末に于湖を分けて境とした。
- 繁昌令:漢の旧名でもと潁川に属した。魏が潁川を分けて襄城とし、これも属した。晋の乱で襄城郡がこの県を淮南に属させ、于湖を割いて境とした。
- 襄垣令:この地はもと無湖県はなく、漢の旧県が晋末に至り襄垣県として立てられ上党に属した。上党の民が南渡して僑郡県を無湖に寄治した。後に上党郡を省いて県とし淮南に属させた。文帝元嘉九年上党県を省き襄垣に併せた。
- 定陵令:漢の旧名でもと襄城に属したが後に無湖を割いて境とした。
- 逡道令:漢では逡遒と作り、晋では逡道と作る。後に無湖を分けて境とした。
宣城太守
晋武帝太康元年丹陽を分けて立てた。県十、戸一万一百二十、口四万七千九百九十二。京都まで水路五百八十・陸路五百。
- 宛陵令:漢の旧県。
- 広徳令:何志では漢の旧県というが二漢志にはなく呉が立てたものかという。
- 懐安令:呉が立てた。
- 寧国令:呉が立てた。
- 宣城令:漢の旧県。
- 安呉令:呉が立てた。
- 涇令:漢の旧県。
- 臨城令:呉が立てた。
- 広陽令:漢の旧県でもと陵陽といい、子明がこの県の山で仙を得たため名づけた。晋成帝の杜皇后の諱が陵であったため咸康四年に改名。
- 石城令:漢の旧県。
東陽太守
もと会稽西部都尉。呉の孫晧宝鼎元年に立てた。県九、戸一万六千二十二、口一十万七千九百六十五。京都まで水路一千七百・陸路も同じ。
- 長山令:漢献帝初平二年(191年)烏傷を分けて立てた。
- 太末令:漢の旧県。
- 烏傷令。
- 永康令:赤烏八年(245年)烏傷の上浦を分けて立てた。
- 信安令:漢献帝初平三年太末を分けて立て新安といったが、晋武帝太康元年に改名。
- 呉寧令:漢献帝興平二年(195年)孫氏が諸暨を分けて立てた。
- 豊安令:漢献帝興平二年孫氏が諸暨を分けて立てた。
- 定陽令:漢献帝建安二十三年(218年)孫氏が信安を分けて立てた。
- 遂昌令:孫権赤烏二年太末を分けて立て平昌といったが、晋武帝太康元年に改名。
臨海太守
もと会稽東部都尉。前漢の都尉は鄞に治し、後漢が会稽を分けて呉郡とすると都尉は章安に治所を移したかという。孫亮太平二年(257年)立てた。県五、戸三千九百六十一、口二万四千二百二十六。京都まで水路二千一十九・陸路も同じ。
- 章安令:『続漢志』ではもと閩中の地に治し光武帝が改名したという。晋太康記ではもと鄞県南の回浦郷で漢章帝章和中に立てたとするが、いずれが正しいか未詳。
- 臨海令:呉が章安を分けて立てた。
- 始豊令:呉が立て始平といったが、晋武帝太康元年に改名。
- 寧海令:何志は漢の旧県というが、二漢志・晋太康地志では確認できない。
- 楽安令:晋の康帝が始豊を分けて立てた。
永嘉太守
晋明帝太寧元年(323年)臨海を分けて立てた。県五、戸六千二百五十、口三万六千六百八十。京都まで水路二千八百・陸路二千六百四十。
- 永寧令:漢順帝永建四年章安の東甌郷を分けて立てた。あるいは永和三年立てたともいう。
- 安固令:呉が立て羅陽といい、孫晧が安陽と改め、晋武帝太康元年に改名。
- 松陽令:呉が立てた。
- 楽成令:晋孝武帝寧康三年(375年)永寧を分けて立てた。
- 横陽令:晋武帝太康四年横藇の船屯を始陽としたが再び改名した。
新安太守
漢献帝建安十三年(208年)孫権が丹陽を分けて新都と称した。晋武帝太康元年に改名。県五、戸一万二千五十八、口三万六千六百五十一。京都まで水路一千八百六十・陸路一千八百。
- 始新令:孫権が歙を分けて立てた。
- 遂安令:孫権が歙を分けて新定県とし、晋武帝太康元年に改名。
- 歙令:漢の旧県。
- 海寧令:孫権が歙を分けて休陽県とし、晋武帝太康元年に改名。歙を分けて諸県を置いた始まりで、また黎陽県も分置したが大明八年海寧に併せられた。
- 黟令:漢の旧県。
南徐州
南徐州刺史。晋永嘉の大乱で幽・冀・青・并・兖州及び徐州の淮北の流民が相率いて淮を過ぎ、江を渡って晋陵郡界に入る者もあった。晋成帝咸和四年(329年)司空郗鑑がまた淮南に在った流民を晋陵の諸県に徙した。渡江した者及び江北に留まった者は僑郡県を並べ立ててこれを司牧し、徐・兖二州はあるいは江北に治した。江北にはまた幽・冀・青・并の四州を僑立した。安帝義熙七年(411年)はじめて淮北を北徐とし淮南はなお徐州と称した。後にまた幽・冀を徐に、青・并を兖に合わせた。武帝永初二年(421年)徐州に南を加えて南徐とし、淮北はただ徐と称した。文帝元嘉八年(431年)改めて江北を南兖州とし江南を南徐州とし治所を京口とし、揚州の晋陵、兖州の九郡で江南に僑在するものをこれに属させた。故に南徐州は徐・兖・幽・冀・青・并・揚の七州の郡邑を備えた。永初二年郡国志にはまた南沛・南下邳・広平・広陵・盱眙・鍾離の八郡があったが、南沛・広陵・海陵・山陽・盱眙・鍾離は南兖に割属し、南下邳は南彭城に併せ、広平は南泰山に併せた。今、郡十七、県六十三、戸七万二千四百七十二、口四十二万六百四十を領する。京都まで水路二百四十・陸路二百。
南東海太守
晋元帝の初め、呉郡海虞県の北境を割いて東海郡とし郯・朐・利城の三県を立てたが、祝其・襄賁などの県は曲阿に寄治した。穆帝永和中、郡は京口に移り郯など三県も京口に寄治した。文帝元嘉八年南徐を立てるに及び東海を治下の郡とし丹徒をこれに属させ、郯・利成は実土となった。永初郡国志には襄賁・祝其・厚邱(並漢の旧名)・西隰(何承天志では江左に立てたとする)の四県があったが、文帝元嘉十二年(435年)厚邱を省き襄賁に併せた。何徐の志には厚邱がなく、余は永初郡国志と同じ、その襄賁・祝其・西隰は徐爰志の後に省かれたものである。県六、戸五千三百四十二、口三万三千六百五十八。
- 郯令:漢の旧名。文帝元嘉八年丹徒の峴西を分けて境とした。
- 丹徒令:もと晋陵に属し古名を朱方といい、後に谷陽と名づけ、秦が丹徒と改めた。孫権嘉禾三年(234年)武進と改めたが、晋武帝太康三年に再び丹徒に戻した。
- 武進令:晋武帝太康二年丹徒・曲阿を分けて毗陵を立てた。宋孝武帝大明末にこれに度属した。
- 朐令:漢の旧名。晋の江左に僑立された。宋孝武帝の世に郯の西界を分けて実土とした。
- 利城令:漢の旧名。晋の江左に僑立された。宋文帝の世に郡とともに実土となった。
南琅邪太守
晋の乱で琅邪国の人々は元帝に随って江を渡ること千余戸、太興三年懐徳県を立てたが、丹楊には琅邪相があってもこの地はなかった。成帝咸康元年(335年)桓温が郡を領し江乗の蒲洲・金城に鎮し、丹楊の江乗県の境を割いて郡を立てることを求め、また江乗の地を分けて臨沂県を立てた。永初郡国志には陽都(前漢は城陽に属し後漢・晋太康地志は琅邪に属す)・費・即邱(並びに別に見える)の三県があり、いずれも臨沂及び建康の土地を割いて置いた。費県は宮城の北に治所があった。元嘉八年即邱を省き陽都に併せ、十五年費を省き建康・臨沂に併せた。孝武帝大明五年(461年)陽都を省き臨沂に併せた。今、県二、戸二千七百八十九、口一万八千六百九十七。州まで水路二百・陸路一百、京都まで水路一百六十。
- 臨沂令:漢の旧名で前漢は東海に属し後漢・晋は琅邪に属した。
- 江乗令:漢の旧県でもと丹楊に属した。呉が省いて典農都尉としたが晋武帝太康元年に再び立てた。
晋陵太守
呉の時、呉郡の無錫以西を分けて毗陵典農校尉としたが、晋武帝太康二年校尉を省き毗陵郡として治所を丹徒に置き、後に毗陵に復した。東海王越の世子の名が毗であったため東海国はもと毗陵を食邑としていたが、永嘉五年帝が晋陵と改め、はじめ毗陵より治所を丹徒に移した。太興初、郡及び丹徒県はことごとく京口に治した。郗鑑が再び丹徒に還した。安帝義熙九年再び晋陵に還った。もと揚州に属したが文帝元嘉八年南徐に度属した。県六、戸一万五千三百八十二、口八万一百一十三。州まで水路一百七十五・陸路も同じ、京都まで水路四百・陸路も同じ。
- 晋陵令:もと延陵と名づけ、漢が毗陵と改め、後に郡とともに改名。
- 延陵令:晋武帝太康二年曲阿の延陵郷を分けて立てた。
- 無錫令:漢の旧県。呉が省いたが晋武帝太康元年に再び立てた。
- 南沙令:もと呉県の司塩都尉署で呉の時は沙中と名づけた。呉が平定された後暨陽県を立てこれに割属させ、晋成帝咸康七年(341年)塩署を罷めて南沙県を立てた。
- 曲阿令:もと雲陽と名づけ、秦始皇が曲阿と改め、呉嘉禾三年また雲陽に復し、晋武帝太康二年また曲阿に復した。
- 暨陽令:晋武帝太康二年無錫・毗陵を分けて立てた。
義興太守
晋恵帝永興元年(304年)呉興の陽羨・丹陽の永世を分けて立てた。永世はまもなく丹陽に還った。もと揚州に属したが明帝泰始四年(468年)南徐に度属した。県五、戸一万三千四百九十六、口八万九千五百二十五。州まで水路四百・陸路も同じ、京都まで水路四百九十・陸路も同じ。
- 陽羨令:漢の旧県。
- 臨津令:もと陽羨に属したが郡が立てられる際に分立。
- 義郷令:もと長城・陽羨に属したが郡が立てられる際に分立。
- 国山令:もと陽羨に属したが郡が立てられる際に分立。
- 綏安令:武帝永初三年(422年)宣城の広徳、呉興の故鄣・長城及び陽羨・義郷の五県を分けて立てた。
南蘭陵太守
県二、戸一千五百九十三、口一万六百三十四。
- 蘭陵令。
- 承令:文帝元嘉十二年合郷県を承に併せた。永初郡国志・何志・徐志にはいずれも合郷県はない。
南東莞太守
永初郡国志にはまた蓋県がある。県三、戸一千四百二十四、口九千八百五十四。
- 莒令。
- 東莞令:文帝元嘉十二年蓋県をこれに併せた。
- 姑幕令:漢の旧名。
臨淮太守
漢武帝元狩六年(前117年)立て、光武帝が東海に併せ、明帝永平十五年(72年)また臨淮の故地を分けて下邳郡とした。晋武帝太康元年また下邳の淮南を分けて臨淮郡とし治所を盱眙とした。江左に僑立された。永初郡国志にはまた盱眙県があるが何徐志にはない。県七、戸三千七百一十一、口二万二千八百八十六。
- 海西令:前漢は東海に属し後漢・晋は広陵に属した。
- 射陽令:前漢は臨淮に属し後漢は広陵に属したが三国の時廃され、晋武帝太康元年に再び立てた。
- 広陵令:前漢は泗水に属し後漢は広陵に属したが三国の時廃され、晋武帝太康二年また立てて広陵に属させた。
- 淮浦令:前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し、晋太康地志では広陵に属す。
- 淮陰令:前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し、晋太康地志では広陵に属す。
- 東陽令:前漢は臨淮に属し後漢は広陵に属し、晋太康地志では臨淮に属す。
- 長楽令:もと長楽郡が併せられて県となった。
淮陵太守
もと淮陵県。前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し晋は臨淮に属したが、恵帝永寧元年(301年)淮陵国とした。永初郡国志にはまた下相・広陽の二県があったが、今、県三、戸一千九百五、口一万六百三十。
- 司吾令:前漢は東海に属し後漢は下邳に属し晋太康地志では臨沂に属す。後廃帝元徽五年(477年)桐梧と改名、順帝昇明元年旧に復した。
- 徐令:前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し晋太康地志では臨淮に属す。
- 陽楽令:漢の旧名でもと遼西に属した。文帝元嘉十三年(436年)下相を陽楽に併せた。
南彭城太守
江左に僑立された。晋明帝はまた南下邳郡を立て、成帝はまた南沛郡を立て、文帝元嘉中南沛を分けて北沛とし南兖に属させたが南沛はなお南徐に属した。孝武帝大明四年(460年)二郡をあわせて南彭城に併せた。県十二、戸一万一千七百五十八、口六万八千一百六十三。
- 呂令。
- 武原令:漢の旧名。
- 傅陽令:漢の旧名。
- 蕃令:義旗の初め軍戸を免じ遂誠県としたが武帝永初元年旧名に改めた。
- 薛令:義旗の初め軍戸を免じ建熙県としたが永初元年旧名に改めた。
- 開陽令:前漢は東海に属し章帝建初五年琅邪に属し、晋の僑立でもなお琅邪に属したが安帝の時彭城に度属した。
- 杼秋令:漢の旧名。
- 洨令:前漢は梁に属し後漢・晋は沛に属した。
- 下邳令:もと南下邳に属した。
- 北陵令:もと南下邳に属し二漢にはなく晋太康地志では下邳に属す。もと名は陵といい、広陵郡にもともと陵県があったため晋武帝太康二年、下邳の陵県が旧土でなく同名であるため北陵と改めた。
- 僮令:もと南下邳に属した。南下邳には良城県があったが文帝元嘉十二年僮に併せた。
南清河太守
県四、戸一千八百四十九、口七千四百四。
- 清河令。
- 東武城令。
- 繹幕令。
- 貝邱令。
南高平太守
永初郡国志にはまた鉅野・昌邑の二県(並びに漢の旧名)がある。今、県三、戸一千七百一十八、口九千七百三十一。
- 金郷令。
- 湖陸令:前漢は湖陵といい漢章帝が改名。
- 高平令:文帝元嘉十八年(441年)鉅野を高平に併せた。
南平昌太守
県四、戸二千一百七十八、口一万一千七百四十一。
- 安邱令。
- 新楽令:二漢にはなく魏が平原を分けて楽陵郡とし冀州に属させたがこれに新楽県も属した。晋の江左でも楽陵郡及び諸県を立てたが後に省き新楽県をこれに属させた。
- 東武令。
- 高密令:江左で高密国を立て後に南高密郡とした。文帝元嘉十八年高密県に降格しこれに属させた。
南済陰太守
二漢・晋は兖州に属した。前漢の初め梁国に属したが景帝中六年(前144年)済陰国となり、宣帝甘露二年(前52年)定陶国と改め、後に済陰に戻した。永初郡国志にはまた句陽・定陶の二県(並びに漢の旧名)がある。今、県四、戸一千六百五十五、口八千一百九十三。
- 城武令。
- 冤句令:漢の旧名。
- 単父令:前漢は山陽に属した。
- 城陽令:漢の旧名。
南濮陽太守
もと東郡で兖州に属した。晋武帝咸寧二年(276年)子の允に封じ、東郡はこれ以上「国」とできないため濮陽県があることから濮陽国と称した。濮陽は漢の旧名である。允が淮南に改封されると再び東郡に戻ったが、趙王倫が簒位すると太孫臧を廃して濮陽王とし、王が廃されても郡名は改まらなかった。永初郡国志にはまた鄄城県(二漢は済陰に属し晋太康地志は濮陽に属す)がある。今、県二、戸二千二十六、口八千二百三十九。
- 廩邱令:前漢及び晋太康地志にあり後漢にはない。文帝元嘉十二年鄄城を廩邱に併せた。
- 榆次令:漢の旧名で晋には太原に属した。
南太山太守
永初郡国志には広平(漢武帝征和二年、平干国として立てられ、宣帝五鳳二年広平と改め、光武帝建武十三年鉅鹿に併せられ、魏が鉅鹿を分けて再び広平とし、江左に僑立され、晋成帝咸康四年省かれ後にまた立てられた)があり、丹徒に寄治した。広平・易陽(二漢は趙に属し晋太康地志は広平に属す)・曲周(前漢は広平に属し曲周と作り、後漢は鉅鹿に属し、晋太康地志は広平に属し曲周と作る)の三県を領したが、文帝八年広平郡を省いて広平県とし南太山に属させた。今、県三、戸二千四百九十九、口一万三千六百。
- 南城令。
- 武陽令。
- 広平令:前漢は広平に属し後漢は鉅鹿に属し晋太康地志は広平に属す。
済陽太守
晋の恵帝が陳留を分けて済陽国とした。県二、戸一千二百三十二、口八千一百九十二。
- 考城令:前漢は留といい梁国に属したが章帝が改名し陳留に属した。太康地志にはない。
- 鄄城令。
南魯郡太守
また樊県(前漢は東平に属し後漢・晋太康地志は任城に属す)がある。今、県二、戸一千二百一十一、口六千八百一十八。
- 魯令。
- 西安令:漢の旧名でもと斉郡に属した。斉郡は江を過ぎ僑立され後に省かれ西安をこれに配し、文帝元嘉十八年樊を西安に併せた。永初郡国志には西安県がない。
徐州
徐州刺史。後漢は東海の郯県に治した。魏晋宋は彭城に治した。明帝の世淮北が寇に没すると徐州を僑立し治所を鍾離とし、泰豫元年(472年)治所を東海の朐山に移した。後廃帝元徽元年(473年)南兖州の鍾離、豫州の馬頭、また秦郡の頓邱、梁郡の穀孰、歴陽の酇を分けて新昌郡を立て、徐州は再び鍾離に治所を移した。今まず徐州の旧郡を前に列し新たに割かれたものを旧に係ける。郡十二、県三十四、戸二万三千四百八十五、口十七万五千九百六十七を領した。今は郡三、県九を領する。彭城まで京都から水路一千三百六十・陸路一千。
彭城太守
漢高帝が立て楚国とし、宣帝地節元年(前69年)彭城郡と改め、黄龍元年(前49年)また楚国とし、章帝がまた彭城とした。県五、戸八千六百二十七、口四万一千二百三十一。
- 彭城令:漢県。
- 呂令:漢の旧県。
- 蕃令:漢の旧県で魯に属したが晋恵帝元康中に度属。蕃の音は皮、漢末の太傅陳蕃の子の逸が魯の相となり音を改めた。
- 薛令:漢の旧県で魯に属したが晋恵帝元康中に度属。
- 留令:漢の旧県。
沛郡太守
秦の泗水郡、漢高帝が改名。もと豫州に属したが江左で配属を改めた。県三、戸五千二百九、口二万五千一百七十。州まで陸路六十、京都まで一千。
- 蕭令:漢の旧県。
- 相令:漢の旧県。
- 沛令:漢の旧県。
下邳太守
前漢はもと臨淮郡、武帝が立て、明帝が下邳と改めた。晋武帝が下邳の淮南を分けて臨淮としたが下邳はそのままであった。県三、戸三千九十九、口一万六千八十八。州まで水路二百・陸路一百八十、京都まで水路一千一百六十・陸路八百。
- 下邳令:前漢は東海に属し後漢・晋太康地志は下邳に属す。
- 良城令:前漢は東海に属し後漢・晋太康地志は下邳に属す。
- 僮令:前漢は臨淮に属し後漢・晋太康地志は下邳に属す。
蘭陵太守
晋恵帝元康元年東海を分けて立てた。県三、戸三千一百六十四、口一万四千五百九十七。州まで陸路二百、京都まで水路一千六百・陸路一千三百。
- 昌慮令:漢の旧県。
- 承令:漢の旧県。
- 合郷令:漢の旧県。
東海太守
秦の郯郡、漢高帝が改名。明帝は淮北を失い僑の青州を贛榆県に立て、泰始七年(471年)また東海県を立て東海郡に属させ、また贛榆を割いて鬱県を置き西海郡を立て、みな僑の青州に隷属させた。県二、戸二千四百一十一、口一万三千九百四十一。州まで水路一千・陸路八百、京都まで水路一千・陸路六百七十。
- 襄賁令:漢の旧県。
- 贛榆令:前漢は琅邪に属し後漢は東海に属したが魏が省き、晋武帝太康元年に再び立てた。
東莞太守
晋武帝泰始元年琅邪を分けて立て、咸寧三年また琅邪に併せられたが、太康十年再び立てた。県三、戸八百八十七、口七千三百二十。州まで陸路七百、京都まで水路二千・陸路一千四百。
- 莒令:前漢は城陽に属し後漢は琅邪に属したが孝武帝大明五年「長」と改めた。
- 諸令:前漢は城陽に属し後漢は琅邪に属し晋太康地志は城陽に属す。
- 東莞令:漢の旧県。
東安太守
東安はもと県名で前漢は城陽に属し後漢は琅邪に属し晋太康地志は東莞に属す。晋恵帝が東莞を分けて立てた。県三、戸一千二百八十五、口一万七百五十五。州まで陸路七百、京都まで陸路一千三百。
- 菴令:前漢は琅邪に属し後漢は泰山に属し晋太康地志は楽安に属す。孝武帝大明五年「長」と改めた。
- 新泰令:魏が立て泰山に属した。
- 発干令:漢の旧名で東郡に属した。太康地志にはなく江左で配された。
琅邪太守
秦が立てた。県二、戸一千八百一十八、口八千二百四十三。州まで陸路四百、京都まで水路一千五百・陸路一千一百。
- 費令:前漢は東海に属し後漢は泰山に属し晋太康地志は琅邪に属す。
- 即邱令:前漢は東海に属し後漢・晋太康地志は琅邪に属す。
淮南太守
晋安帝義熙中の土断で立てた。県四、戸二千八百五十五、口一万五千三百六十三。州まで水路六百・陸路五百、京都まで水路七百・陸路五百五十。
- 甬城令:晋安帝義熙中の土断で立てた。
- 晋寧令:もと済岷に属したが流寓してこれに配された。
- 宿預令:晋安帝が立てた。
- 上黨令:もと流寓の郡が併省されこれに配された。
陽平太守
陽平はもと県名で東郡に属した。魏が東郡及び魏郡を分けて陽平郡とし司州に属したが流寓してこれに属した。永初郡国志にはまた廩邱県がある。今、県三、戸一千七百二十五、口一万三千三百三十。
- 館陶令:漢の旧名。
- 陽平令:漢の旧名。
- 濮陽令:もと流寓の郡が併省されこれに配された。
済陰太守
漢景帝が立て兖州に属したが流寓して徐土にあり地を割いて境とした。県三、戸二千三百五、口一万一千九百二十八。
- 睢陵令:前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属したが孝武帝大明元年度属。
- 定陶令:漢の旧名。孝武帝大明五年「長」と改めた。
- 頓邱令:頓邱に属したが流寓して割配された。
北済陰太守
孝武帝孝建元年昇格して立てた。県三、戸九百二十七、口三千八百十。
- 城武令:前漢は山陽に属し後漢・晋太康地志は済陰に属す。
- 豊令:漢の旧名で沛に属したが孝武帝大明元年再び立てた。
- 離狐令:前漢は東郡に属し後漢・晋太康地志は済陰に属す。
鍾離太守
もと南兖州に属したが晋安帝が分立した。漢の九江郡・晋の淮南郡に鍾離県があったのはすなわちこの地である。県三、戸三千二百七十二、口一万七千八百三十二。京都まで陸路六百二十・水路一千三十。
- 燕県令:もと東燕に属したが流寓してこれに配された。
- 朝歌令:もと河内に属したが晋武帝が河内を分けて汲郡としこれにも属した。流寓してこれに配された。
- 楽平令:前漢は清といい東郡に属したが章帝が改名。晋太康地志にはなく流寓してこれに配された。
馬頭太守
南豫州に属した。もと淮南の当塗県の地。晋安帝が立て、山の形により名づけた。県三、戸一千三百三十二、口一万二千三百一十。京都まで水路一千七百五十・陸路六百七十。
- 虞県令:漢の旧名で梁郡に属したが流寓してこれに配された。
- 零県令:晋安帝が立てた。
- 済陽令:もと済陽に属したが流寓してこれに配された。
平昌太守
後廃帝元徽元年立てた。
- 頓邱令:二漢は東郡に属し魏は陽平に属し晋武帝泰始二年淮陽を分けて頓邱郡を立て頓邱県もこれに属した。江左で流寓して立てられ秦に属した。もと沛県があり元嘉八年これを頓邱に併せたが、後廃帝元徽元年これに度属。
- 穀孰令:前漢にはなく後漢・晋は梁に属した。永初郡国志・何徐志ではいずれも南梁に属したが後廃帝元徽元年度属。
- 酇令:漢は沛に属し晋は譙に属したが文帝元嘉八年南譙より歴陽に度属し、後廃帝元徽元年これに度属。
南兖州
南兖州刺史。中原の乱で北州の流民が多く南渡し、晋成帝が南兖州を立て京口に寄治した。この時また南青州及び并州を立てたが、武帝永初元年并州を省き南兖に併せた。文帝元嘉八年はじめて江淮の間を割いて境とし治所を広陵とした。永初郡国志の領する十四郡のうち南高平・南平昌・南済陰・南濮陽・南泰山・済陽・南魯山郡は今みな徐州に属す。また東燕郡があり江左で濮陽を分けて立てたもので、燕県(前漢は南燕といい後漢は燕といい並びに東郡に属し晋太康地志は濮陽に属す)・白馬・平昌・考城のあわせて四県を領した。文帝元嘉十八年考城を省き燕に併せ、十九年東燕県を南濮陽に属させ、後にまた東燕郡を省いた。南東平郡は范・蛇邱・歴城のあわせて三県を領し、高密郡は淳于・黔陬・営陵・夷安のあわせて四県を領し、南斉郡は安西・臨菑のあわせて二県を領し、南平原郡は平原・高唐・茌平のあわせて三県を領し、済岷郡(江左に立てられた)は営城・晋寧(江左に立てられた)のあわせて二県を領し、雁門郡(漢の旧郡)は楼煩・陰館(前漢は観と作り後漢・晋は館と作る)・広武(前漢は太原に属し後漢・晋太康地志は雁門に属す)・崞・馬邑(並びに漢の旧名)のあわせて五県を領し、あわせて七郡二十三県はみな南徐州に属することとなった。諸僑郡県について何承天志にはまた鍾離・雁門・平原・東平・北沛の五郡がある。鍾離は今徐州に属す。雁門は楼煩・陰館・広武の三県を領し、平原は茌平・臨菑・営城・平原の四県を領し、東平は范・朝陽・歴城の三県を領し、沛は符離・蕭・相・沛の四県を領する(符離は漢の旧県、余は別に見える)、あわせて十四県。起居注には元嘉十一年(434年)南兖州の東平の平陸を范に併せ寿張を朝陽に併せ、平原の済岷・晋寧を営城に併せ(この前に済岷郡を県に省いた)、高唐を茌平に併せたとある。この五県は元嘉十一年に省かれたものであるので、平陸・寿張は永初郡国志にあってこの二県がないのは未詳。徐爰志には南東平郡があり范・朝陽・歴城・楼煩・陰観・広武・茌平・営城・臨菑・平原の十県を領するとあり、これは雁門・平原を東平に併せたものである。孝武帝大明五年東平を広陵に併せた。宋はまた新平・北淮陽・北済北・下邳・東莞の五郡を僑立した。元嘉二十八年(451年)南兖州は治所を盱眙に移し、三十年南兖州を省き南徐に併せたが、その後再び立て治所を広陵に戻した。徐爰志では郡九、県三十九、戸三万一千一百一十五、口十五万九千三百六十二を領するが、宋末には郡十一、県四十四を領する。京都まで水路二百五十・陸路一百八十。
広陵太守
漢高帝六年(前201年)立て荆国に属し、十一年呉に属し、景帝四年(前153年)江都国と改名、武帝元狩三年(前120年)広陵と改名。もと徐州に属したが晋武帝太康三年淮陰の故城に治所を置き後にまた射陽に治した。江左は広陵に治した。永初郡国志にはまた輿(前漢は臨淮に属し後漢は臨淮を省き広陵に属したが文帝元嘉十三年江都に併せた)・肥如・路・真定・新市の五県(並びに二漢の旧名。肥如は遼西に属し路は上党に属し真定は前漢は真定に属し後漢は真定を省き常山に属し晋も常山に属した。新市は永初郡国志では四県ともとは遼西に属したというので晋末に遼西の僑郡が省かれ広陵に併せられたものであろう。何志には肥如・新市があり徐爰志も今と同じ)。今、県四、戸七千七百四十四、口四万五千六百一十三。
- 広陵令:漢の旧県。
- 海陵令:前漢は臨淮に属し後漢・晋は広陵に属したが三国の時廃され晋武帝太康元年再び立てた。
- 高郵令:漢の旧県で三国の時廃されたが晋武帝太康元年再び立てた。
- 江都令:漢の旧県で三国の時廃されたが晋武帝太康六年再び立てた。江左でまた輿県に併せられたが元嘉十三年再び立て江都に併せた。
海陵太守
晋安帝が広陵を分けて立てた。永初郡国志では徐州に属す。県六、戸三千六百二十六、口二万一千六百六十。州まで水路一百三十・陸路も同じ、京都まで水路三百九十・陸路も同じ。
- 建陵令:晋安帝が立てた。
- 臨江令:晋安帝が立てた。
- 如臯令:晋安帝が立てた。
- 寧海令:晋安帝が立てた。
- 蒲濤令:晋安帝が立てた。
- 臨沢令:明帝泰豫元年立てた。
山陽太守
晋安帝義熙中の土断で広陵を分けて立てた。漢景帝が梁を分けて山陽としたのはこの郡ではない。永初郡国志では徐州に属す。県四、戸二千八百一十四、口二万二千四百七十。州まで水路三百・陸路も同じ、京都まで水路五百・陸路も同じ。
- 山陽令:射陽県の境の地名山陽から郡とともに立てた。
- 塩城令:もと塩涜といい前漢は臨淮に属し後漢・晋は広陵に属したが三国の時廃され晋武帝太康二年再び立て晋安帝が改名。
- 東城令:晋安帝が立てた。
- 左郷令:晋安帝が立てた。
盱眙太守
盱眙はもと県名で前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し晋は臨淮に属したが晋安帝が分立した。県五、戸一千五百一十八、口六千八百二十五。州まで水路四百九十・陸路二百九、京都まで水路七百・陸路五百。
- 考城令。
- 陽城令:晋安帝が立てた。
- 直瀆令:晋安帝が立てた。
- 信都令:信都は漢の旧名だがその地は異なる。地は河北にあり宋末に立てた。
- 睢陵令:前漢は臨淮に属し後漢は下邳に属し晋太康地志にはなく宋末に立てた。
秦郡太守
晋武帝が扶風を分けて秦国とし、中原の乱でその民が南流して堂邑に寄居した。堂邑はもと県で前漢は臨淮に属し後漢は広陵に属し晋もまた臨淮に属した。晋恵帝永興元年臨淮の淮陵を分けて堂邑郡を立て、安帝が堂邑を秦郡と改めた。永初郡国志では豫州に属したが元嘉八年南兖に度属。永初郡国志にはまた臨塗(晋宋に立てられた)・平邱(漢の旧で陳留に属し晋太康地志にはない)・外黄(漢の旧名で陳留に属す)・沛・雝邱・浚儀・頓邱のあわせて七県があるが、何志には雝邱・外黄・平邱・沛がなく徐爰志にはまた浚儀もない。元嘉八年沛を頓邱に併せ、後廃帝元徽元年頓邱を割いて新昌に属させた。県四、戸三千三百三十三、口一万五千三百九十六。州まで水路二百四十一・陸路一百八十、京都まで水路一百五十・陸路一百四十。
- 秦令:もと秦国に属し流寓して立てられた。文帝元嘉八年臨塗を秦に併せ外黄を浚儀に併せ、孝武帝孝建元年浚儀を秦に併せた。
- 義成令:江左に立てられた。
- 尉氏令:漢の旧名で陳留に属したが文帝元嘉八年平邱を尉氏に併せた。
- 懐徳令:孝武帝大明五年立てた。また歴陽の烏江を割いてこの二県とし臨江郡を立てたが、前廃帝永光元年臨江郡を省き、懐徳はそのまま郡治とし烏江は本県に戻した。
南沛太守
何志では北沛が新たに立てられたとし、徐爰志では南沛とする。永初郡国志にはまた符離・洨(並びに別に見える)・竹邑(前漢は竹といい、李竒は「今の邑である」とし、後漢は竹邑といい晋まで並びに沛に属す)・杼秋(前漢は梁に属し後漢・晋太康地志は沛に属す)の四県がある。杼秋は無錫に治し、余は広陵に治した。文帝元嘉十二年北沛郡の竹邑を杼秋に併せた。何徐志にはいずれもこの二県がなく詳らかでない。起居注によれば孝武帝大明五年広陵を分けて沛郡とし治所を肥如県としたが、この時にはすでに肥如県は復さず、これはもとの肥如県の場所であったろう。二漢・晋太康地志にはいずれも肥如県はなく、沛郡はおそらく大明五年以前に省かれその時にまた立てられたものであろう。今、県三、戸一千一百九、口一万二千九百七十。
- 蕭県令。
- 相県令。
- 沛県令。
新平太守
明帝泰始七年(471年)立てた。
- 江陽令:郡と同時に立てた。
- 海安令:郡と同時に立てた。
北淮太守
宋末に僑立された。
- 晋寧令。
- 宿預令。
- 甬城令。
北済陰太守
宋が淮北を失い僑立した。
- 広平令:前漢の臨淮に広平県があったが後漢以後にはない。
- 定陶令。
- 陽平令。
- 上黨令。
- 冤句令。
- 館陶令。
北下邳太守
宋が淮北を失い僑立した。
- 僮県令。
- 下邳令。
- 寧城令。
東莞太守
宋が淮北を失い僑立した。
- 莒県令。
- 諸県令。
- 東莞令。
- 栢人令:漢の旧名で趙国に属した。宋が淮北を失い僑立した。
兖州
兖州刺史。後漢は山陽の昌邑に治した。魏晋は廩邱に治した。武帝が河南を平らげると滑台に治し、文帝元嘉十三年鄒山に治し、また彭城に寄治した。二十年兖州を省き分郡を徐・冀州に属させたが、三十年六月再び立て治所を瑕邱とした(二漢の山陽には瑕邱県があった)。永初郡国志には東郡・陳留・濮陽の三郡があり陽平郡はない。白馬(別に見える)・涼城(二漢の東郡には聊城県があるが晋太康地志にはなく、これがそれかという)・東燕(別に見える)の三県を領する。陳留郡は酸棗(漢の旧県)・小黄・雝邱・白馬・襄邑・尉氏の六県(郡県は並びに別に見える)を領する。濮陽郡は濮陽・廩邱(並びに別に見える)の二県を領する。宋末に淮北を失い兖州は僑立され淮陰に寄治した(淮陰は別に見える)。兖州は郡六、県三十一、戸二万九千三百四十、口一十四万五千五百八十一を領する。
泰山太守
漢高帝が立てた。永初郡国志にはまた山茌(別に見える)・莱蕪(漢の旧名)・大原(本郡が僑立したこの県)の三県があるが鉅平県はない。今、県八、戸八千一百七十七、口四万五千五百八十一。州まで陸路八百、京都まで陸路一千八百。
- 奉高令:漢の旧県。
- 鉅平令:漢の旧県。
- 嬴令:漢の旧県。
- 牟令:漢の旧県。
- 南城令:前漢は東海に属し後漢・晋は泰山に属す。
- 武陽令:漢の旧県。
- 梁父令:漢の旧県。
- 博令:漢の旧県。
高平太守
もと梁国。漢景帝中六年(前144年)山陽国に分けられ、武帝建元五年(前136年)郡となり、晋武帝泰始元年に改名。永初郡国志及び徐爰志にはまた任城県(前漢は高平に属し章帝元和元年〈84年〉東平を分けて任城とし、これも属した。晋も任城に属したが江左で郡を省き県とした)があったが後に省かれた。今、県六、戸六千三百五十八、口二万一千一百一十二。州まで陸路二百二十、京都まで陸路一千三百三十。宋の明帝泰始五年淮南の当塗県界に僑立し、高平・金郷の二県を領し、その年また睢陵県を立てた。
- 高平令:前漢は藁と名づけたが章帝が改めた。
- 方与令:漢の旧県。
- 金郷令:前漢にはなく後漢・晋にある。
- 鉅野令:漢の旧県。
- 平陽令:漢の旧県で南平陽といった。
- 亢父令:漢の旧県でもと任城に属した。
魯郡太守
秦の薛郡、漢の高后が改名。もと徐州に属したが光武帝が任城に属させ、江左で兖州に属した。県六、戸四千六百三十一、口二万八千三百七。州まで陸路三百五十、京都まで一千一百。
- 鄒令:漢の旧県。
- 汶陽令:漢の旧県。
- 魯令:漢の旧県。
- 陽平令:孝武帝大明元年立てた。
- 新陽令:孝武帝大明中立てた。
- 卞令:明帝泰始二年立てた。
東平太守
漢景帝が梁を分けて済東国とし、宣帝が改名。県五、戸四千一百五十九、口一万七千二百九十五。州まで水路五百・陸路も同じ、京都まで水路二千・陸路一千四百。宋末にまた淮陰に僑立された。
- 無塩令:漢の旧県。
- 平陸令:漢の旧県。
- 須昌令:前漢は東郡に属し後漢・晋太康地志は東平に属す。
- 寿昌令:春秋の時は良といい前漢は寿良といい東郡に属したが光武帝が寿張と改め東平に属させた。
- 范令:漢の旧県。以上四県はみな郡下に治した。
陽平太守
魏が魏郡を分けて立てた。文帝元嘉中流寓してこれに属したが後に省かれ、孝武帝大明元年再び立てた。県五、戸二千八百五十七、口一万一千二百七十一。
- 館陶令:漢の旧名で無塩に寄治した。
- 楽平令:魏が立て陽平に属した。後漢の東郡にも楽平があるがこれとは別。下平陸に寄治した。
- 元城令:漢の旧名で無塩に寄治した。
- 平原令:孝武帝大明中立てた。
- 頓邱令:孝武帝大明中立てた。
済北太守
漢和帝永光二年(前41年、実際は永元)泰山を分けて立てた。永初郡国志には臨邑(二漢は東郡に属し晋太康地志は済北に属す)・東阿(二漢は東郡に属し晋にはない)の二県があったが孝武帝大明元年省かれた。何志にあるべきだが見えず未詳。県三、戸三千一百五十八、口一万七千三。州まで陸路七百、京都まで水路二千・陸路一千五百。宋末にまた淮陽に僑立された。
- 蛇邱令:前漢は泰山に属し後漢・晋太康地志は済北に属す。
- 盧令:前漢は泰山に属し後漢・晋太康地志は済北に属す。
- 榖城令:前漢にはなく後漢は東郡に属し晋太康地志は済北に属す。