宋書卷三十四 志第二十四 五行五

総説

『五行傳』にいう、宮室を治め台榭を飾り、内に淫乱して親戚を犯し父兄を侮れば、稼穡(穀物の実り)が成らない。これは土がその性を失って災いとなることをいう。また『五行傳』にいう、思心が叡くないのを「不聖」といい、その咎は瞀(くらさ)、その罰は恒風(絶えざる風)、その極みは凶短折(早死)である。この時脂夜の妖、華孽、牛禍、下体が上に生じる痾、黄眚黄祥が現れ、金木水火が土を沴(そこな)う。班固は、「惟」と言わずただ「時則有」というのは一つの衝気の沴すところではなく、その異の大きさを明らかにするものだという。華孽について劉歆は蠃虫(からを持たぬ虫)の孽、すなわち螟(めいちゅう)の類であるとする。

稼穡不成

  • 呉の孫晧の時、しばしば水旱がなくても苗稼が豊美であるのに実が成らず、百姓は饑え、境内すべてがそうであった。連年止まず、呉人はこれを傷露(露害)と思ったが誤りである。劉向の春秋説では、水旱は「水旱」と書くべきで「大無麦禾」と書くのは土気が稼穡を養わないことを謂うとし、これがその義とされる。晧は初め都を武昌に遷し、まもなく建業に還り、また新館を起こして珠玉で綴飾し壮麗が過ぎ、諸宮を破壊し苑囿を増修し、暑を犯して農を妨げ、官民は疲怠した。月令には季夏に土功を興すべからずとあるが晧はみなこれを冒した。宮室を治め台榭を飾った罰で、春秋の魯荘公が三たび台を築いたのと同応とされる。班固は、水旱の災がなくても草木百穀が熟さないのはみな稼穡不成であるという。晋の穆帝永和十年(354年)、三麦(大麦・小麦・裸麦)が実らず関西でも同様であった。前秋よりこの夏まで水旱がなかったのに麦が実らなかったのは劉向の説の通りであるとされる。また俗にいう、苗が多くて実らないのを「傷」というのもまたその義である。

恒風

  • 魏斉王正始九年(248年)十一月、大風が数十日続き屋を発し木を折った。十二月戊子晦、特に甚だしく太極東閣を動かした。
  • 魏斉王嘉平元年(249年)正月壬辰朔、西北の大風が屋を発し木を折り、昏塵が天を蔽った。管輅の説では、これは時刑(政治の乱れ)であり大風は執政の憂いとされる。この時曹爽が区瞀自専し驕僭が度を過ぎ、天の戒めがしばしば現れても改めなかった。思心が叡くない恒風の罰とされる。後に旬を越えて爽らは滅んだ。京房『易伝』にいう、衆が逆らって志を同じくすれば至徳もひそかに隠れ、その異は風である、として政治の得失をめぐる比喩を多く記す。
  • 呉の孫権、太元元年(251年)八月朔、大風があり江海が涌溢し平地の水深八尺に及び、高陵の樹二株を抜き石碑を揺り動かし、呉城の両門を吹き飛ばした。華覈の答対では、役繁く賦重く「区瞀不叡」の罰とされる。翌年権は薨じた。
  • 呉の孫亮、建興元年(252年)十二月丙申、大風震電。この年魏が大軍三道で来攻し、諸葛恪がその東興の軍を破り二軍も退いた。翌年恪はまた新城を攻めて衆の半ばを喪い、還って誅に伏した。
  • 呉の孫休、永安元年(258年)十一月甲午、風が四たび転じ五たび復し、霧が連日蒙った。この時孫綝一門五侯が権を傾け呉主を圧した、漢の五侯・丁氏・傅氏の時と同応とされる。十二月丁卯の夜、また大風が木を発し沙を揚げ、翌日綝は誅された。
  • 晋武帝太始五年(269年)五月辛卯朔、広平で大風が木を折った。
  • 咸寧元年(275年)五月、下邳・広陵で大風が千余家を壊し樹木を折った。
  • 咸寧元年五月甲申、広陵・司吾・下邳で大風が木を折った。
  • 咸寧三年(277年)八月、河間で大風が木を折った。
  • 晋武帝太康二年(281年)五月、済南で大風が木を折り麦を傷めた。
  • 太康二年六月、高平で大風が木を折り邸閣四十余区を発壊した。
  • 太康八年(287年)六月、八郡国で大風。
  • 太康九年(288年)正月、京都で風雹が屋を発し木を抜いた。後二年、宮車が晏駕した(帝が崩じた)。
  • 恵帝元康四年(294年)六月、大風雨が樹を抜いた。
  • 元康五年(295年)四月庚寅の夜、暴風があり城東の渠に波浪が立った。七月、下邳で大風が廬舎を壊した。九月、雁門・新興・太原・上党で災風が稼を傷めた。翌年氐羌が反叛し大兵が西討した。
  • 元康九年(299年)六月、飈風が賈謐の朝服を吹いて数百丈も飛ばした。翌年謐は誅された。
  • 元康九年十一月甲子朔、京都で連日大風が屋を発し木を折った。十二月、太子が廃された。
  • 恵帝永康元年(300年)二月、大風が木を抜いた。三月、愍懐太子が害された。己卯、喪柩が発せられ許より洛に還った。この日大風雷電があり幃蓋が飛び裂けた。
  • 永康元年四月、張華の第舎で飈風が木を折り繒軸六七が飛んだ。この月華は害に遭った。
  • 永康元年十一月戊子朔、大風が西北より来て木を折り石を飛ばした。翌年正月、趙王倫が簒位した。
  • 恵帝永興元年(304年)正月癸酉、太廟を祠る際、災風が暴かに起こり塵沙が四方に合した。この年四月倫は罪に伏した。
  • 元帝永昌元年(322年)七月丙寅、大風が木を抜き屋瓦がみな飛んだ。
  • 永昌元年八月、暴風が屋を壊し御道の柳樹百余株を抜いた。その風は縦横無常で八方より来るかのようであった。十一月、宮車が晏駕した。
  • 成帝咸康四年(338年)三月壬辰、成都で大風が屋を発し木を折った。四月、李寿が李期を襲殺した。
  • 康帝建元元年(343年)七月庚申、晋陵・呉郡で災風。
  • 穆帝升平元年(357年)八月丁未、皇后何氏を策立した。この日疾風。
  • 升平五年(361年)正月戊戌朔、疾風。
  • 晋海西公太和六年(371年)二月、大風が迅急であった。
  • 孝武帝寧康元年(373年)三月戊申朔、暴風が丑の方より起こり迅かに子の方に転じ、飛沙揚礫した。
  • 孝武帝太元元年(376年)二月乙丑朔、暴風が木を折った。
  • 太元二年(377年)閏三月甲子朔、暴風疾雨が俱に至り屋を発し木を折った。
  • 太元二年六月、長安で大風が苻堅の宮中の樹を抜いた。その後堅は再び南伐し身は戮せられ国は亡んだ。
  • 太元四年(379年)八月乙未、暴風。
  • 太元十二年(387年)正月壬午の夜、暴風。
  • 太元十二年正月甲辰、大風が木を抜いた。
  • 太元十七年(392年)六月乙未、大風が木を折った。
  • 安帝元興二年(403年)二月甲辰、大風雨があり大航の門屋の瓦が飛落した。翌年桓玄が簒位しこの門より入った。
  • 元興二年正月、桓玄が大航に遊んだ際南に飄風が起こりその輗(車の轅先)を吹き飛ばし三月に至って玄は敗れた。
  • 元興二年三月、江陵で大風が木を折った。この月桓玄は崢嶸洲で敗れ身も屠裂された。
  • 元興三年(404年)十一月丁酉、大風。江陵で死者が多かった。
  • 安帝義熙四年(408年)十一月辛卯朔、西北疾風が起こった。
  • 義熙五年(409年)閏十月丁亥、大風が屋を発した。翌年盧循が蔡洲に至った。
  • 義熙六年(410年)五月壬申、大風が北郊の樹(数百年を経た)を抜き、琅邪・揚州の二射堂が倒壊した。この日盧循の大艦も漂没した。甲戌、また風が屋を発し木を折った。この冬王師が南討した。
  • 義熙十年(414年)四月己丑朔、大風が木を抜いた。
  • 義熙十年六月辛亥、大風が木を抜いた。翌年西のかた司馬休之を討った。
  • 宋少帝景平二年(424年)正月癸亥朔旦、暴風が殿庭を発し会翻揚数十丈に及んだ。五月、帝は廃された。
  • 文帝元嘉二十六年(449年)二月庚申、寿陽で驟雨があり回風が起こり、雲霧が広さ三十許歩で南より来て城の西に至り回散して消えた。その衝にあたった室屋樹木は摧倒した。
  • 元嘉二十九年(452年)三月、大風が木を抜き瓦を飛ばした。
  • 元嘉三十年(453年)正月、大風が木を抜き雨が凍り牛馬を殺し雷電晦冥。二月、宮車晏駕した。
  • 孝武帝大明七年(463年)、風が初寧陵の隧口の左標を吹き折った。鍾山の新成の通天台も飛び倒れ山澗に散落した。翌年閏五月、帝は崩じた。
  • 前廃帝永光元年(465年)正月乙未朔、京邑で大風。
  • 明帝泰始二年(466年)三月丙申、京邑で大風。
  • 泰始二年四月甲子、京邑で大風。
  • 泰始二年五月丁未、京邑で大風。
  • 泰始二年五月己酉、京邑で大風。
  • 泰始二年九月乙巳、京邑で大風。
  • 後廃帝元徽二年(474年)七月甲子、京邑で大風。
  • 元徽三年(475年)三月丁卯、京邑で大風。
  • 元徽三年六月甲戌、京邑で大風。
  • 元徽四年(476年)十一月辛卯、京邑で大風。
  • 元徽五年(477年)三月庚寅、京邑で大風が屋を発し木を折った。
  • 元徽五年六月甲寅、京邑で大風。

夜妖

  • 魏高貴郷公正元二年(255年)正月戊戌、大風で晦暝となり行く者はみな頓伏した。夜妖に近いとされる。劉向は、正昼にして暝くなるのは陰が陽の臣が君を制することとする。この時晋の景王(司馬師)が毌丘倹を討ち、この日始めて発した。
  • 魏元帝景元三年(262年)十月、京都で大震があり昼が晦(くら)くなった。これも夜妖である。班固は、夜妖とは雲風が並び起こり杳冥(くらい)となるため常風と同象とし、劉向の春秋説では、天の戒めはまるで大夫が世々官を継ぐことを許すな、それは専事の冥晦を招くと言うようなものとする。翌年魯の季友が卒し、果たして世官となり公室が卑しくなった。魏でのこの妖は晋が天下を有する応であるという。
  • 晋孝武帝太元十三年(388年)十二月乙未、大風があり晦暝となった。その後帝が崩じ諸侯は命に違い干戈が内で侮り、権は元顕に奪われ禍は桓玄に成った。これがその応とされる。

蠃蟲之孽

  • 晋孝武咸寧元年(275年)七月、郡国で螟。九月、青州でまた螟。
  • 咸寧元年七月、郡国に青蟲があり禾稼を食った。
  • 咸寧四年(278年)、司・冀・兖・豫・荆・揚の郡国がみな螟であった。
  • 晋武帝太康四年(283年)、会稽で彭蜞(小蟹)及び蟹がみな鼠に化し甚だ多く野を覆って稲を大食し災となった。
  • 太康九年(288年)八月、二十四郡国で螟。螟の説は蝗と同じとされる。この時帝は讒訴を聴いていた。
  • 太康九年九月、虫が稼を傷めた。
  • 恵帝元康二年(292年)九月、帯方・合資・提奚・南新・長岑・海冥・列口で虫が禾葉を食い尽くした。
  • 恵帝永寧元年(301年)七月、梁・益・涼三州で螟。この時斉王冏が政を秉り貪苛であった応。
  • 永寧元年十月、南安・巴西・江陽・大原・新興・北海で青虫が禾葉を食い、甚だしいものは十のうち五六を傷めた。
  • 永寧元年十二月、八郡国で螟。

牛禍

  • 晋武帝太康九年(288年)、幽州の塞北に死牛の頭が語る(近い牛禍とされる)ことがあった。この時帝は多く疾病があり深く後事を念じていたが、託付が至公でなかった、思心が瞀乱した応とされる。師曠は、怨讟が民に動けば非言の物が言うようになる、これもその義であるという。
  • 恵帝太安中、江夏の張騁の乗る牛が「天下がまさに乱れんとするのに我に乗ってどこへ行くのか」と言い、騁は懼れて還った。犬もまた「還るのが何と早いことか」と言い、まもなくまた牛が人のように立って歩いたので、騁は善卜者に占わせたところ、「天下に将に兵乱があり禍は一家に止まらない」と言われた。その年張昌が反し、まず江夏を略した。騁は将帥として五州が残乱し、騁もまた族滅した。京房『易妖』にいう、牛が言葉のように言えばその言のごとく吉凶を占う、易萌気枢にいう、人君が士を好まず馬を走らせて文繍を被せ、犬狼が人を食べれば六畜の妖言がある、という。時に天子諸侯が下を恵むことを務めとしなければまたその応であるという。
  • 晋愍帝建武元年(304年)、曲阿門の牛が犢(子牛)を生み、一体両頭であった。
  • 元帝太興元年(318年)、武昌太守王諒の牛が子を生み両頭八足両尾で一腹を共にしていたが、三年後に死んだ。また牛が一足三尾を生み皆生まれてすぐ死んだ。司馬彪の説では、両頭は政が私門にあり上下に別なき象とし、京房『易伝』にいう、足の多いのは任じる者が邪であること、足の少ないのは下が任に勝らないことを示す、とする。その後みなこの応があった。
  • 元帝大興四年(321年)十二月、郊牛が死んだ。劉向の説では、春秋の郊牛が死んだのは宣公が瞀昏乱であったため天がその祀を饗けなかったことを謂うとする。元帝の中興の業は実は王導の謀であったが、劉隗が主意を探り会わせて親幸を得たため王導は疎外された。これが「区瞀不叡」の禍とされる。
  • 成帝咸和二年(327年)五月、護軍の牛が犢を生み両頭六足であった。この冬蘇峻が乱を作した。
  • 咸和七年(332年)九月、九徳の民袁栄の家の牛が犢を産み両頭八足二尾で一身を共にしていた。京房『易伝』に、無辜を殺せば牛が妖を生む、とある。
  • 桓玄が国(封国)が荆州にあった時、刺史殷仲堪を詣でようとし鶴穴に至った時、一老公が青牛を駆るのに逢った。形色は瓌異(異様)であった。桓玄はすぐ乗っていた牛と換えて手に入れ、零陵の涇溪に至ると駿駃(駿足)で常ならず、これにより駕を息めて牛に水を飲ませたところ、牛はまっすぐ江水に入って出てこなかった。桓玄は人を遣って見張らせたが、一日経っても何も見えなかった。
  • 宋文帝元嘉三年(426年)、司徒徐羨之の長男喬之が広莫門に入ろうとした時、牛がまっすぐ廷尉寺に入り込み左右が禁じ捉えても止められず、翌日ようやく出られた。徐羨之は翌日収捕された。
  • 元嘉二十九年(452年)、晋陵から送られた牛の角が右脇から生え長さ八尺であった。翌年二月、東宮で禍事があった。
  • 孝武帝大明三年(459年)、広州刺史費淹が三角の水牛を献じた。

黄眚黄祥

  • 蜀の劉備、章武二年(222年)東伐し、二月に秭帰より夷道に進屯した。六月、秭帰に黄気が見え長さ十余里、広さ数十丈に及んだ。旬を踰えて備は陸遜に破られた。黄祥に近いとされる。
  • 魏斉王正始中、中山王周南が襄邑の長であった時、穴から鼠が出て「王周南よ、汝は某日に死ぬ」と言ったが南は応じなかった。その日に至ると鼠はまた冠幘・皂衣を着けて出て「周南よ、汝は日中に死ぬ」と言い、また応じなかった。鼠はまた穴に入りしばらくしてまた出て前日のように語り、日が中になろうとする頃には出入りを繰り返しながら数々言葉を発し、日が中になると鼠は「周南よ、汝が我に応じないなら私にはもう言うことはない」と言い終わるや顛蹶して死んだ。すぐに衣冠を取って調べたが皆常のもので、鼠だったという。班固の説によればこれは黄祥である。この時曹爽が政を秉り競って比周していたため鼠が変を作したという。
  • 宋孝武大明七年(463年)春、太湖のほとりに忽ち鼠が多く現れた。その年夏に水が至るとみな鯉魚に変わり、民が一日に取って三五十斛を得たが、翌年大飢饉となった。
  • 晋元帝太興四年(321年)八月、黄霧が四方に塞がり埃気が天を蔽った。楊宣の対によれば近い土気の乱れる祥とされる。
  • 元帝永昌二年(323年)正月癸巳、黄霧が四方に塞がった。
  • 穆帝永和七年(351年)三月、涼州で大風が木を抜き黄霧が塵を下した。この時張重華が讒を納れ謝艾を出して酒泉太守とし、任じた者が適任でなく、九年に死んで嗣子は弑された。これがその応とされる。京房『易伝』にいう、善を聞いて予(あた)えざるを「不知」といい、その異は黄、その咎は聾、その災は不嗣であるとし、黄とは黄濁の気が四方に塞がり天下が賢を蔽い道を絶つゆえ災いが世を絶つに至る、とする。
  • 安帝元興元年(402年)十月丙申朔、黄霧が昏濁して雨降らなかった。
  • 宋文帝元嘉十八年(441年)秋七月、天に黄光が地を洞照した。太子率更令何承天はこれを榮光・太平の祥とし上表して慶を称えた。

地震

  • 呉の孫権、黄武四年(225年)、江東で地が連震した。この時権は魏の爵命を受けて大将軍・呉王となり改元し専制して臣の迹を修めなかった。京房『易伝』にいう、臣の事が正しくとも専らであれば必ず震う、董仲舒・劉向はともに臣下が彊盛であり将に動いて害する応であるという。
  • 魏明帝青龍二年(234年)十一月、京都で地震があり東より来て隠々と声がし屋瓦が揺れた。
  • 魏明帝景初元年(237年)六月戊申、京都で地震。この秋呉の将朱然が江夏を囲み荆州刺史胡質がこれを撃退した。また公孫淵が自立して燕王となり年を改め百官を置いたが、翌年討平された。
  • 呉の孫権、嘉禾六年(237年)五月、江東で地震。
  • 赤烏二年(239年)正月、地がまた再震した。この時呂壱が専政し、歩騭が上疏して「校事が吹毛求瑕(あら探し)でたやすく人を陥れその威福を成し、無罪の者が横に重刑を受ける、たとえ大臣であっても信任されない、このように天地に変異がないはずがない、嘉禾六年・赤烏二年に地が連震したのは臣下が専政する応である、人主が警悟することを冀う」と述べた。壱は後に敗死した。
  • 魏斉王正始二年(241年)十一月、南安郡で地震。
  • 正始三年(242年)七月甲申、南安郡で地震。十二月、魏郡で地震。
  • 正始六年(245年)二月丁卯、南安郡で地震。この時曹爽が専政し太后を永寧宮に遷し、太后と帝は相泣いて別れた。連年の地震はその応とされる。
  • 呉の孫権、赤烏十一年(248年)二月、江東で地がなお震った。この時権は讒を聴いてまもなく朱拠を黜け太子を廃した。
  • 蜀の劉禅、炎興元年(263年)、蜀で地震。この時宦官の黄皓が権を専らにしていた。司馬彪の説では、宦官には陽施がなく猶婦人のようであるとし、これは黄皓が任用された応で、漢の和帝の時と同事とする。この冬蜀は滅んだ。
  • 晋武帝太始五年(269年)四月辛酉、地震。この年冬新平の氐羌が反し、翌年孫晧が大軍を渦口に入れ叛虜が秦・涼の刺史胡烈・蘇愉を殺害した。
  • 太始七年(271年)六月丙申、地震。武帝の世は賈充に始まり楊駿に終わり、阿党昧利し茍も権寵を専らにして天下を喪うに至ったのはこれによる。末年に任じた者はますます弊れ、一年に六たび震ったのはその応とされる。裴叔則(裴楷)は、晋の徳が堯舜に隆盛が及ばなかったのは賈充ら諸人が朝にいたためだという。
  • 咸寧二年(276年)八月庚辰、河南・河東・平阿で地震。
  • 咸寧四年(278年)六月丁未、陰平・広武で地震。甲子、陰平・広武でまた地震。
  • 晋武帝太康二年(281年)二月庚申、淮南・丹陽で地震。
  • 太康五年(284年)正月壬辰、地震。
  • 太康六年(285年)七月己丑、地震。
  • 太康七年(286年)七月、南安・犍為で地震。八月、京兆で地震。
  • 太康八年(287年)五月壬子、建安で地震。七月、陰平で地震。八月、丹陽で地震。
  • 太康九年(288年)正月、会稽・丹陽・呉興で地震。四月辛酉、長沙・南海など八郡国で地震。七月から八月にかけて地がまた四度震い、そのうち三度は雷のような声がした。
  • 太康十年(289年)十二月己亥、丹陽で地震。
  • 晋武帝太始元年(265年)、地震。
  • 恵帝元康元年(291年)十二月辛酉、京都で地震。
  • 元康四年(294年)二月、蜀郡で山崩が人を殺し、上谷・上庸・遼東で地震。五月壬子、寿春で山崩れ洪水が出て城が壊れ地が方三十丈にわたり墜ちた。六月、寿春で大雷震があり山崩地坼して家人が陥没死し、上庸郡でも同様であった。八月、上谷で地震があり水が出て百余人を殺し、居庸で地裂が広さ三十六丈長さ八十四丈に及び水が出て大飢饉となった。上庸の四カ所で山崩地陥があり広さ三十丈長さ百三十丈にわたり水が出て人を殺した。十月、京都で地震。十一月、滎陽・襄城・汝陰・梁国・南陽の地がみな震った。十二月、京都でまた震った。この時賈后が朝を乱し権を拠って専制し、ついに禍敗に至った応とされる。漢の鄧太后摂政の時、郡国が地震したことがあり、李固は「地は陰であり法として静を安んずべきであるのに、陰の職を越えて陽の政を専らにしている」と述べたが、これと同事とされる。京房『易伝』にいう、徳なく禄を専らにするのを「不順」といい、その震は丘陵を動かし涌水を出す、また、小人が廬を剥ぐのをその妖は山崩とし「陰乗陽」といい弱が強に勝る、また、陰が陽に背けば地が裂け父子が分離し夷羌が叛去する、とする。
  • 元康五年(295年)五月丁丑、地震。六月、金城で地震。
  • 元康六年(296年)正月丁丑、地震。
  • 元康八年(298年)正月丙辰、地震。
  • 恵帝太安元年(302年)十月、地震。この時斉王冏が専政していた。
  • 太安二年(303年)十二月丙辰、地震。この時長沙王(司馬乂)が専政していた。
  • 懐帝永嘉三年(309年)十月、荆・湘二州で地震。この時司馬越が専政していた。
  • 永嘉四年(310年)四月、兖州で地震。
  • 愍帝建興二年(314年)四月甲辰、地震。この時幼主が上にあり権は下に傾き四方が雲擾し兵乱が止まなかった。
  • 建興三年(315年)六月丁卯、長安で地震。
  • 元帝太興元年(318年)四月、西平で地震し涌水が出た。十二月、廬陵・豫章・武昌・西陵で地震し山崩れた。干宝は、王敦が上を陵ぐ応であるという。
  • 太興二年(319年)五月癸丑、祁山で地震し山崩れて人を殺した。この時相国南陽王保が祁山で晋王を称した、終わらざる象とされる。
  • 太興三年(320年)四月庚寅、丹陽・呉郡・晋陵で地震。この年南平郡でも山崩れ雄黄数千斤を出した。
  • 成帝咸和二年(327年)三月、益州で地震。四月己未、豫章で地震。この年蘇峻が乱を作した。
  • 咸和九年(334年)三月丁酉、会稽で地震。この時政は臣下にあった。
  • 穆帝永和元年(345年)六月癸亥、地震。この時嗣主は幼冲で母后が称制し政は臣下にあり、そのため連年地震したという。
  • 永和二年(346年)十月、地震。
  • 永和三年(347年)正月丙辰、地震。
  • 永和四年(348年)十月己未、地震。
  • 永和五年(349年)正月庚寅、地震。
  • 永和九年(353年)八月丁酉、京都で地震があり雷のような声がした。
  • 永和十年(354年)正月丁酉、地震があり雷のような声がし鶏雉が鳴いた。
  • 永和十一年(355年)四月乙酉、地震。五月丁未、地震。
  • 穆帝升平五年(361年)八月、涼州で地震。
  • 晋哀帝隆和元年(362年)四月甲戌、地震。この時政は将相にあり人主は南面するのみであった。
  • 隆和元年四月丁丑、涼州で地震があり浩亹山が崩れた。張天錫が降亡する象とされる。
  • 隆和二年(363年)二月庚寅、江陵で地震。この時桓温が専征していた。
  • 晋海西太和元年(366年)二月、涼州で地震し水が涌いた。
  • 簡文帝咸安二年(372年)十月辛未、安成で地震。
  • 孝武帝寧康元年(373年)十月辛未、地震。この時嗣主は幼冲で政は将相にあった。
  • 寧康二年(374年)七月甲午、涼州で地震し山崩れた。
  • 孝武帝太元二年(377年)閏月壬午、地震。五月丁丑、地震。
  • 太元十一年(386年)六月己卯、地震。この後河沿いの諸将が連年兵役を続けた。
  • 太元十五年(390年)三月己酉朔の夜、地震。
  • 太元十七年(392年)六月癸卯、地震。十二月己未、地がまた震った。この時群小が権を弄び天下が側目していた。
  • 太元十八年(393年)正月癸亥朔、地震。二月乙未、地震。
  • 安帝隆安四年(400年)九月癸酉、地震。この時幼主は沖昧で政は臣下にあった。
  • 安帝義熙四年(408年)正月壬子の夜、地震で声があった。十月癸亥、地震。
  • 義熙五年(409年)正月戊戌の夜、尋陽で地震があり雷のような声がした。翌年盧循が南下した。
  • 義熙八年(412年)正月から四月にかけて、南康・廬陵で地が四たび震った。翌年王旅が西のかた荆・益を討った。
  • 宋文帝元嘉七年(430年)四月丙辰、地震。この時軍を遣わして司・兖を経略していた。
  • 元嘉十二年(435年)四月丙辰、京邑で地震。
  • 元嘉十五年(438年)七月辛酉、地震。
  • 元嘉十六年(439年)、地震。
  • 孝武帝大明二年(458年)四月辛丑、地震。
  • 大明六年(462年)七月甲申、地震があり河北より雷のような声がし、魯郡の山が揺れ地が動き、彭城城の女牆四百八十丈が墜落し屋室が傾倒し、兖州で地が裂け泉が涌き二年止まなかった。その後虜主が死に兖州刺史夏侯祖権も卒した。
  • 明帝泰始二年(466年)四月、地震。
  • 泰始四年(468年)七月己酉、東北で雷のような声がし地震。
  • 明帝泰豫元年(472年)閏七月甲申、東北で雷のような声がし地震。
  • 後廃帝元徽二年(474年)四月戊申、地震。
  • 元徽五年(477年)五月戊申、地震。七月、帝が殞じた。
  • 宋文帝元嘉二十五年(448年)、青州の城南の地から遠く望むと地中に水があるかのようで、影に人馬百物がみな見え、数年経って消えた。

山崩地陥裂

  • 呉の孫権、赤烏十三年(250年)八月、丹陽の句容及び故鄣・寧国の諸山が崩れ洪水が溢れた。劉向の説では、山は陽で君であり、水は陰で民である、天の戒めはまるで「君道が崩壊すれば百姓もその所を失うだろう」と言うようなもので、春秋の梁山崩れ、漢の斉楚の衆山発水と同事とされる。三代の命祀は望を越えず吉凶禍福もこれを過ぎることはない、呉は帝を称しても実は列国であり、災いは丹陽に発した、これは天意であろうという。国主の山川は、山崩れ川涸れれば亡ぶ徴とされる。二年後に権は薨じ、薨じてから二十六年で呉は亡んだ。
  • 魏元帝咸熙三年(265年)二月、太行山が崩れた。これは魏が亡ぶ徴とされる。その冬晋が天下を有した。
  • 晋武帝太始三年(267年)三月戊子、太行山が崩れた。
  • 太始四年(268年)七月、泰山が三里にわたり崩墜した。晋の咎徴とされ、帝が晏駕して禄が王室を去り、懐帝・愍帝は北に淪胥(沈む)し、元帝が南で中興したのはその応とされる。京房『易伝』にいう、上より崩れるものはその応が泰山の石が顚倒することであり、聖王は命を受け人君は虜となる、とする。
  • 晋武帝太康五年(284年)丙午、宣帝廟の地が陥没した。
  • 太康六年(285年)三月、南安・新興県で山崩れ涌水が出た。
  • 太康七年(286年)七月、朱提の大瀘山が崩れ郡舎を震壊し、陰平の仇池の崖も隕ちた。
  • 太康八年(287年)七月、大雨があり殿前の地が方五尺深さ数丈にわたり陥没した。
  • 恵帝元康四年(294年)五月壬子、地が方三十丈にわたり陥没し人を殺した。史に其の場所を闕く。
  • 元康四年八月、居庸で地裂が広さ三十丈長さ百三十丈に及び水が出て人を殺した。
  • 懐帝永嘉元年(307年)三月、洛陽東北の歩広里で地が陥没した。
  • 永嘉三年(309年)八月乙亥、鄄城の城が故なく自壊すること七十余丈に及んだ。司馬越はこれを悪み濮陽に遷った。これは沴(そこな)いの異とされ、越はついに上を陵ぎ終には禍を受けた。
  • 永嘉三年七月戊辰、当陽で地裂が三カ所、それぞれ広さ三丈長さ二百余歩に及んだ。京房『易伝』にいう、地が坼裂するのは臣下が分離して相従わないことである、という。その後司馬越・苟晞が交々悪み四方の牧伯もみな離散し王室はついに亡んだ。
  • 永嘉三年十月、宜都・夷道で山崩れ。
  • 永嘉四年(310年)四月、湘東の酃・黒石山が崩れた。
  • 元帝太興四年(321年)八月、常山が崩れ水が出て滹沱に盈溢し大木が傾き抜けた。
  • 成帝咸和四年(329年)十月、柴桑・廬山の西北の崖が崩れた。十二月、劉胤が郭黙に殺された。
  • 恵帝元康九年(299年)六月夜、暴雷雨があり賈謐の斎屋の柱が地に陥入し謐の牀帳を圧した。これは木が土を沴い、土がその性を失って載せられない例とされる。翌年謐は誅された。
  • 恵帝光熙元年(306年)五月、范陽の地が燃えて炊事ができるほどであった。これは火が土を沴う例とされる。この時礼楽征伐は諸侯より出ていた。
  • 安帝義熙八年(412年)三月壬寅、山陰で雷のような声があり地限(境界)が深さ広さ各四尺陥没した。
  • 義熙十年(414年)五月戊寅、西明門の地が穿けて涌水が出て門房及び限を毀った。これも水が土を沴う例とされる。

総説2

『五行傳』にいう、皇(君主)が極(法則)に立たないのを「不建」といい、その咎は眊(くらさ)、その罰は恒陰、その極みは弱である。この時射妖、龍蛇の孽、馬禍、下人が上を伐つ痾、日月が乱行し星辰が逆行する異が現れる。

常陰

  • 呉の孫亮、太平三年(258年)三月から八月にかけて沈陰にして雨降らざること四十余日。この時孫綝を誅そうとして謀が漏れ、九月戊午、綝が兵で宮を囲み亮を廃して会稽王とした。これが常陰の罰とされる。
  • 呉の孫晧、宝鼎元年(266年)十二月、太史が久しく陰にして雨降らず将に陰謀ありと奏した。晧は深く驚懼した。時に陸凱らが謁廟の機に乗じて晧を廃そうと謀ったが、留平が兵を領し前駆したため陸凱が留平に語ったところ、留平が許さず果たされなかった。晧はすでに虐を肆にし群下は多く異図を懐き、ついに降亡に至った。
  • 宋後廃帝元徽三年(475年)四月、連陰にして雨降らず。
  • 元徽三年八月、陰多く、二年後廃帝は殞じた。

射妖

  • 蜀の車騎将軍鄧芝が涪陵を征した際、玄猿を見て手ずから山で射てこれに中てたところ、猿は矢を抜いて木葉を巻きその傷を塞いだ。芝は「ああ、私は物の性に逆らった、まさに死ぬだろう」と言い、まもなく卒した。これは射妖である。一説に、猿母が子を抱いていたのを芝が射て中て、子が矢を抜いて木葉で創を塞いだのを見て芝は嘆息し弓を水に投げ、自ら死を悟ったという。
  • 晋の恭帝が琅邪王であった時、奇戯を好み、ある時馬一頭を門内に閉じ込め人にこれを射させ何本の矢で死ぬか観ようとした。左右に諫める者があり「馬は国姓(司馬氏)であり、これを射るのは不祥甚だしい」と言ったため止めたが、馬はすでに十数本の矢を受けていた。これも射妖とされる。まもなく桓玄が簒位した。

龍蛇之孽

  • 魏明帝青龍元年(233年)正月甲申、青龍が郟の摩陂の井の中に見えた。おおよそ瑞は時ならざれば妖孽となる、まして井に困しむのは嘉祥ではない。魏はこれによって改元したが誤りであり、晋の武帝は賀わなかった。干宝は、明帝より魏の世に青龍・黄龍が見えたのはみなその主の廃興の応であるという。魏の土運は青木の色で、金に勝てず黄がその位を得て青がその位を失う象である、青龍が多く見えたのは君徳・国運が内に相剋伐する、それゆえ高貴郷公が兵によって卒に敗れたのだという。劉向の説では、龍は貴い象であるのに井中に困しむのは諸侯が幽執される禍があるとする。魏の世の龍はみな井にあり、これは上にある者が逼制される応であり、高貴郷公が「潜龍詩」を著したのもこの趣旨であるという。
  • 魏高貴郷公正元元年(254年)戊戌、黄龍が鄴の井中に見えた。
  • 魏高貴郷公甘露元年(256年)正月辛丑、青龍が軹県の井中に見えた。六月乙丑、青龍が元城県界の井中に見えた。
  • 甘露二年(257年)二月、青龍が温県の井に見えた。
  • 甘露三年(258年)、黄龍・青龍がなお頓邱・冠軍・陽夏県界の井中に見えた。
  • 景元元年(260年)二月、青龍が軹県の井中に見えた。
  • 呉の孫晧、天冊中(275-276年)、龍が長沙の民家で鶏の雛を食べて乳(子を産)んだ。京房『易妖』にいう、龍が人家で乳めば王者は庶人となる、という。その後晧は降った。
  • 晋武帝咸寧二年(276年)六月丙申、白龍二頭が九原の井中に見えた。
  • 晋武帝太康五年(284年)正月癸卯、二龍が武庫の井中に見えた。帝は龍を見て喜色があり百僚は将に賀そうとしたが、劉毅は独り「昔龍漦(龍の唾)が夏の廷にありて禍が周室に発した、龍が鄭門に見えた時子産は賀さなかった」と上表した。帝は「朕の政徳は未だ修まらず嘉祥を受けるに値しない」と答え、ついに賀さなかった。孫盛は、龍は水物でありなぜ人に関わるのか、子産の言は当を得ているが、その場所ではなくこれは実に妖災であるという。龍は飛翔して顕現するのが美とされ、潜伏し幽処するのは休祥ではない。漢の恵帝二年に両龍が蘭陵の井中に見えたが、本志ではその後趙王が幽死する象とされる。武庫は帝王の威御の器を宝蔵する所であり、室宇の邃密は龍が処すべき所でない。七年後に藩王が相害い、二十八年後にはついに二人の胡(劉淵・石勒)が神器を僭竊した、勒・虎はいずれも字を「龍」といい、これがその表異の証であるという。史臣は、龍は休瑞でありながら井中に屈するのは前史ですでに詳しく述べたが、兆しは幽微でにわかに臆断できず、故に五行志と符瑞志の両方にこれを存すという。
  • 晋愍帝建興二年(314年)十一月、枹罕の羌妓が一龍子を産んだ。色は錦文に似て、母の乳を求めた際遥かに神光が見え、少し見ることができたという。
  • 晋武帝咸寧中、司徒府に二大蛇があり長さ十許丈、聴事の平橑の上に住むこと数年で人は知らなかったが、府中でしばしば小児や猪犬などが失われることを怪しんでいた。後に一蛇が夜出て刃に傷つき去れなくなってようやく発覚し、徒を発して攻撃し移時(しばらく)してようやく死んだ。司徒は五教の府であり、これは皇極が建たないため蛇孽が現れたとされる。漢の霊帝の時、蛇が御座に見え楊賜は帝が色に溺れた応とした。魏氏の宮人はすでに猥多で晋はさらにこれを過ぎ、宴遊は湎(酒色に溺れる)に至った、これがその孽であるという。『詩経』にいう、虺(まむし)や蛇は女子の祥であるとする。
  • 晋恵帝元康五年(295年)三月癸巳、臨菑に大蛇があり長さ十余丈、二小蛇を負って城の北門から入り市を径て漢の城陽景王の祠に入り見えなくなった。天の戒めはまるで、斉にはかつて劉章が定傾の功があった、もし節を励まし忠慎でなければまた劉章のように失職奪功の辱めを蹈むだろう、と言うようなものであった。斉王冏は悟らず、建興復辟の功があったが驕陵によって禍を取った。二小蛇を負って朝市に出たのもみな象類があるとされる。
  • 晋明帝太寧初、武昌に大蛇があり常に故神祠の空樹中に居り、出るたびに頭を人に向けて食を受けた。京房『易妖』にいう、蛇が邑に現れれば三年を出ずして大兵があり国に大憂がある、という。その後王敦及びその党与が討滅された。

馬禍

  • 晋武帝大熙元年(290年)、遼東で馬が角を生じ両耳の下にあり長さ三寸であった。劉向の説ではこれは兵の象とされ、帝が晏駕した後王室が兵禍に毒された、これがその応であるという。京房『易伝』にいう、臣が上の政を易えるその妖は馬が角を生じることである、また天子が親征する時にも馬が角を生じるという。『呂氏春秋』にいう、人君が道を失えば馬に角が生じる、とする。
  • 晋恵帝元康元年(291年)十二月、皇太子が釈奠を行おうとした際、太傅趙王倫が驂乗し南城門に至ると馬が止まり、力士が推しても動かなかった。倫が軺車に入るとようやく進んだ。これは馬禍である。天の戒めはまるで、倫は義方を知らずついに乱逆をなす、傅導行礼の人ではないと言うようなものであったが、倫は悟らず、ついに亡んだ。
  • 元康九年(299年)十一月戊寅、冬に牝の騮馬(あか毛の馬)が廷尉の訊堂に驚き奔って至り悲鳴して死んだ。これはほとんど愍懐太子が冤死する象とされ、廷尉の訊堂に現れたのもまた天意かという。
  • 晋懐帝永嘉六年(312年)二月、神馬が南城門で鳴いた。
  • 晋元帝大興二年(319年)、丹陽郡吏の濮陽楊演の馬が駒を生み両頭が頸前より別れて生まれ死んだ。司馬彪の説では、政が私門にある両頭の象とされる。この後王敦が上を陵いだ。
  • 成帝咸康八年(342年)五月甲戌、赤色で血のような馬が宣陽門よりまっすぐ殿前に走り入り、盤旋して走り出て尋ねてもその所在を知らなかった。己卯、帝は不豫(病気)となり、六月に崩じた。これは馬禍でありまた赤祥とされる。張重華が涼州でその西河の相張祚を誅しようとした時、祚の廐馬数十匹が同時にみな尾を失った。
  • 安帝隆安四年(400年)十月、梁州で馬が角を生じ、刺史郭銓がこれを都督桓玄に送り示した。劉向の説では、馬が角を生じるべきでないのは、玄が兵を挙げて上に向かうべきでないのに擬えられ、災を覩ても悟らなかったためついに夷滅に至ったという。

人痾

  • 魏文帝黄初初、清河の宋士宗の母が鼈に化して水に入った。
  • 魏明帝太和三年(229年)、曹休の部曲兵奚農の女が死んで復生した。時に周の世の冢を開いて殉葬の女子を得たところ、数日で気を発し数月で言葉を話せるようになり、郭太后がこれを愛養したという例もあった。また太原の民が冢を発いて棺を破ったところ棺中に生きた婦人がいたが、事情を問うても分からず、その墓の木を見ると三十年ほどのものであったという。京房『易伝』では、至陰が陽となるのは下人が上となる例で、晋の宣王(司馬懿)が起こる象という。漢の平帝・献帝の時にもこの異があり、王莽・曹操の徴と占われた。公孫淵の時にも小児が甑の中で蒸し死んだことがあり、その後夷滅した。
  • 呉の孫亮、建興二年(253年)、諸葛恪が淮南を征しようとした時、孝子が衰衣を着てその閣に入ったが、詰問すると「自覚なく入った」と答えた。時に中外の守備もこれを全く見なかったので衆はみな異とし、還って果たして殺された。恪はすでに害を被り、妻は室にあって婢に沃盥(手を洗う水を注ぐ)をさせていたが、婢の血の臭いに気づき、また眼目視瞻が異常であった。妻がその故を問うと、婢は蹶然として躍り起き頭が棟に至り、腕を攘り歯を切って「諸葛公はすでに峻に殺された」と言った。
  • 呉の孫休、永安四年(261年)、安呉の民陳焦が死んで七日後に冢を穿って出た。干宝は、これは漢の宣帝と同事であり、烏程侯晧が廃故の家から位を得る祥であるという。
  • 呉の孫晧、宝鼎元年(266年)、丹陽の宣騫の母が年八十で入浴中に黿(大がめ)に化した。兄弟が戸を閉じてこれを守り、堂上に大きな坎(穴)を掘って水を満たしその中に置いたところ、黿は坎の中で一二日戯れ、常に頸を延ばして外を望み戸が少し開くのを伺うとすぐ輪転して自ら躍り遠い潭に入りついに還らなかった。これは漢の霊帝の時の黄氏の母の事と同じで、呉が亡ぶ象とされる。
  • 魏元帝咸熙二年(265年)八月、襄武県で大人が見えたという。長さ三丈余、跡の長さ三尺二寸、髪は白く黄巾を著け黄の単衣で杖をつき、民の王始を呼んで「今太平になるだろう」と語った。まもなく晋が魏に代わった。
  • 晋武帝太始五年(269年)、元城の人が年七十で角を生じた。漢志の説ではほとんど趙王倫が簒乱する象であるという。
  • 晋武帝咸寧二年(276年)二月、琅邪の人顔畿が病死し棺歛して久しかったが、家人がみな畿が「私はまさに復生する、急いで棺を開けよ」と言う夢を見たため出したところ、漸く飲食できるようになったが屈申視瞻はできても歩いたり話したりできなかった。二年後にまた死んだ。その後劉淵・石勒がついに晋室を亡ぼした。
  • 晋恵帝元康中、安豊の女子周世寧は年八歳より漸く男に化し、十七八歳に至って男性の性が完成した。これは劉淵・石勒が晋室を蕩覆する妖とされる。漢の哀帝・献帝の時にもこの異があり、みな易代の兆しとされた。京房伝にいう、女子が丈夫に化するのを陰昌といい賎人が王となる、丈人が女子に化するのを陰勝陽といいその咎は亡である、という。
  • 晋恵帝永寧初、斉王冏が義兵を唱えて乱逆を誅除し乗輿を反正した。忽ち婦人が大司馬門に詣で寄産(出産のため泊まる)を求め、門者が詰ると婦人は「私は斉を截って去るだけだ」と言った。この時斉王冏が王室を匡復し天下がその功に帰していたが、識者はこれを悪んだ。その後果たして斬戮された。
  • 永寧元年十二月甲子、白頭の公が斉王冏の大司馬府に入り「大兵が起こる」と大呼し、甲子の旬を出ずして冏はこれを殺した。翌年十二月戊辰、冏は敗れた、これも甲子の旬であった。
  • 晋恵帝太安元年(302年)四月癸酉、人が雲龍門より殿前の北面に入り再拝し「私はまさに中書監となる」と言い、すぐ収斬された。干宝は、禁廷の尊秘の処に賤人がまっすぐ入り門衛が気づかないのは、宮室がまさに空になろうとし下人がこれを踰える妖であるという。その後帝は北のかた鄴に遷り、また西のかた長安に遷り、盗賊が宮闕を蹈籍し、ついに天下を亡ぼした。
  • 晋恵帝の世、梁国の女子が嫁ぐことを許され既に礼聘を受けていたが、まもなくその夫が長安に戍り年を経ても帰らず、女の家は改めて別の人に嫁がせようとしたが女は嫁ぐことを楽しまなかった。父母が強いて逼ったためやむなく去り、まもなく病んで亡くなった。後にその夫が戻って女の所在を問うと家人がその事情を語り、夫はまっすぐ女の墓に至り悲しみに堪えず冢を発いて棺を開けたところ女は生き返り、共に帰った。後に婿がこれを聞き官に訴え争ったが決められず、秘書郎王導が「これは尋常の事ではなく常理で断ずべきでない、前夫に還すべきである」と議し、朝廷はその議に従った。
  • 晋恵帝の世、杜錫の家で葬った際、婢が誤って出られなかった。十余年後冢を開いて祔葬しようとしたところ婢はなお生きていた。初めは眠っているようであったがしばらくして漸く覚め、問うと自分では一晩か二晩しか経っていないと思っていたという。婢が埋められた時十五六歳であったが、冢を開いてさらに生きた時もなお十五六歳のようであった。これを嫁がせると子を得た。
  • 晋恵帝光熙元年(306年)、会稽の謝真が子を生んだが大頭で鬢があり両足の裏が上に反り、男女両体を有し生まれてすぐ丈夫の声を発したが、日を経て死んだ。
  • 晋の恵帝・懐帝の世、京洛に男女両体を兼ねる人がおり両方の道を用いることができ、性はことに淫であった。これは乱気が生じたものとされる。咸寧・太康以後、男寵が大いに興り女色よりも甚だしく、士大夫はみなこれを尚び天下がみな相い放効し、あるいは夫婦が離絶し怨曠妬忌に至る者もあった、そのため男女の気が乱れて妖が形をなしたのだという。
  • 元帝大興初、また女子で陰が腹の上にある者が揚州にいた。性もまた淫であった。京房『易妖』にいう、人が子を生み陰が首にあれば天下大乱、腹にあれば天下に事あり、背にあれば天下に後なし、という。
  • 晋懐帝永嘉元年(307年)、呉郡呉県の万祥の婢が子を生んだが鳥の頭で両足は馬蹄、片手には毛がなく黄色で大きさは枕ほどであった。
  • 晋愍帝建興四年(316年)、新蔡県の吏任僑の妻胡が年二十五で二人の女を産んだが、互いに向き合い腹心が合同し胸から上、臍から下はそれぞれ分かれていた。これは天下未だ一ならざる妖とされる。時に内史呂会が上言し、瑞応図によれば根を異にして体を同じくするのを連理、苗を異にして穎を同じくするのを嘉禾というが、今二人が心を同じくするのは易にいう「二人心を同じくすればその利は金をも断つ」であり、嘉徴が陝東の国に生まれるのは四海が心を同じくする瑞であると喜び踊りに勝えず画図して上奏したが、識者はこれを嗤ったという。
  • 晋中興の初、女子で陰が腹にあり臍の下にある者が中国から江東に来た。性は甚だ淫で子を産まなかった。京房『易妖』にいう(前と同文)。
  • 晋元帝太興三年(320年)十二月、尚書騶謝平の妻が女を生んだが地に堕ちる時「濞濞」という声がし、しばらくして死んだ。鼻と目はみな頭頂にあり、顔の部分は項のようで口には歯があり、みな連なって一つの胸となり鼈のようで、手足の爪は鳥の爪のようでみな下向きであった。京房『易妖』にいう、人が他物を生じ人が見たことのないものはみな天下の大兵の兆しである、という。二年後に石頭の敗があった。
  • 晋明帝太寧二年(324年)七月、丹陽の江寧侯紀の妻が死んで三日で復生した。
  • 成帝咸康四年(338年)十一月辛丑、何某という人が南の止車門に詣で自ら聖人の使いと称した。光禄外部に録付し検問したところ東海郯県の呂暢であり、辞語は落漠(要領を得ない)としていたため髠鞭三百に処し追放した。
  • 咸康五年(339年)四月、下邳の民王和が暨陽に僑居していたが、その娘可が年二十歳で自ら天より来て徴瑞の印綬を得て天下の母となるべしと言った。晋陵太守はこれを妖として獄に収めたが、十一月になって柘杖を持ち絳衣を着た人が止車門に詣で「私は聖人の使いで天子に見えることを求める」と口で言い、門候が辞を受けたところ姓は呂、名は錫と称し、「王和の娘可の右足下に七星があり星にはみな毛が生え長さ七寸ある、天は今可に命じて天下の母となすべし」と言ったため上奏され即座に誅に伏し、あわせて晋陵に下して可を誅した。
  • 康帝建元二年(344年)十月、衛将軍営督過望が領する兵の陳凟の娘壹に、足に「天下之母」という文字があり、これを炙るといよいよ明らかになった。京都は諠譁し有司が収繋して上聞したが、まもなく建康県の獄より逃亡した。
  • 石虎の末、大武殿前に描かれた賢聖人の像の頭が忽ちみな肩の中に縮み入った。
  • 晋孝武帝寧康初、南郡州陵の女人唐氏が漸く丈夫に化した。
  • 晋安帝義熙七年(411年)、無錫の人趙朱は年八歳で一朝に身長八尺に暴長し髭鬚が蔚然として生えたが三日で死んだ。
  • 義熙中、東陽の人黄氏が女を生んで養わず埋めたが、数日後土中で泣くのを取って養い生き返った。
  • 義熙末、豫章の呉平の人に陰道が二つ重なって生じた者がいた。
  • 晋恭帝元熙元年(419年)、建安の人に陰道が頭を持たず、正平がもとは女人の形体であった者がいた。
  • 宋文帝元嘉十七年(440年)、劉斌が呉郡の婁県にいた時、一人の女が夜、風雨に乗じて恍惚として郡城内に至り、自ら家を去ってちょうど飯を炊く時間ほどで衣が濡れなかったと感じ、暁に門上で通言を求め「私は天の使いである」と言った。斌が前に呼んで理由を尋ねると「府君はまさに起こって我を迎えるべきで、そうすれば大富貴となる、さもなければ必ず凶禍がある」と言った。斌がその由来を問うても自らも知らず、狂人と見なされて獄に付されたが、家人がこれを迎えに来るのに符合し数日で去ることができた。二十日後、斌は誅された。
  • 孝武帝大明中、張暢が会稽郡にあった時、妾が懐妊し、児が腹中で泣く声が外に聞こえた。暢はまもなく死んだ。
  • 大明末、荆州武寧県の人楊始歓の妻が腹中に女児を生じたが、この子は今なお存在する。
  • 明帝泰豫元年(472年)正月、巨人が太子西池の水上に見え、跡の長さ三尺余であった。
  • 後廃帝元徽中、南東莞の徐坦の妻が懐妊し児が腹中で声を発した。
  • 元徽中、暨陽県の女人が黄山の穴中で二つの卵を得て斗ほどの大きさであったが、割ってみると人の形があった。

  • 魏文帝黄初四年(223年)三月、宛・許で大疫があり死者は万を数えた。
  • 魏明帝青龍二年(234年)四月、大疫。
  • 青龍三年(235年)正月、京都で大疫。
  • 呉の孫権、赤烏五年(242年)、大疫。
  • 呉の孫亮、建興二年(253年)四月、諸葛恪が新城を囲んだが大疫で死者は太半に及んだ。
  • 呉の孫晧、鳳皇二年(273年)、疫。
  • 晋武帝太始十年(274年)、大疫があり呉の地も同様であった。
  • 晋武帝咸寧元年(275年)十一月、大疫があり京都の死者は十万人に及んだ。
  • 太康三年(282年)春、疫。
  • 恵帝元康二年(292年)十一月、大疫。
  • 元康十年(300年)五月、秦・雍二州で疾疫。
  • 晋孝懐帝永嘉四年(310年)五月、秦・雍州で饑饉と疫が秋まで続いた。
  • 永嘉六年(312年)、大疫。
  • 晋元帝永昌元年(322年)十一月、大疫があり死者は十二三割に及び、河朔でも同様であった。
  • 晋成帝咸和五年(330年)五月、大饑饉に加え疫。
  • 晋穆帝永和九年(353年)五月、大疫。
  • 晋海西太和四年(369年)冬、大疫。
  • 晋孝武帝太元五年(380年)五月、前年冬から大疫が続きこの夏まで、戸が絶える者が多かった。
  • 晋安帝義熙元年(405年)十月、大疫があり赤斑が出るとすぐに癒えた。
  • 義熙七年(411年)春、大疫。
  • 宋文帝元嘉四年(427年)五月、京都で疾疫。
  • 孝武帝大明元年(457年)四月、京邑で疾疫。
  • 大明四年(460年)四月、京邑で疾疫。

日蝕(附 日変・月変)

  • 魏文帝黄初二年(221年)六月戊辰晦、日蝕あり。有司が太尉の免官を奏したが、詔にいう、「災異が起こったのは元首を譴めるものであるのに罪を股肱(大臣)に帰すのは、禹や湯が自らを罪する義であろうか。百官に各々その職を慎ませよ、以後天地の眚があっても再び三公を劾じることのないように」とした。
  • 黄初三年(222年)正月丙寅朔、日蝕。十一月庚申晦、また日蝕。
  • 黄初五年(224年)十一月戊申晦、日蝕。二年後宮車が晏駕した。
  • 魏明帝太和初、太史令許芝が日蝕が起こると奏し太尉と霊台で祈禳した。帝は詔で「人主の政に得ざるところがあれば天は災異でこれを懼れさせ、自ら修めさせるものである。故に日月の薄蝕は治道に当たらざる所があることを明らかにする。朕は即位以来先帝の聖徳を光明にできず、施化にも皇神に合わないところがあったため上天がこれを覚らせたのであろう、まさに政を励まし自ら修めて神明に報いるべきである。天の人におけるは猶父の子におけるがごとく、父が子を責めようとする時に盛饌を献じて免れようとするのは未だ聞いたことがない。今外に上公と太史令を遣わして禳祠を具えさせようとするのも義において未だ聞かない。群公卿士は各々職を勉修し、朕の及ばざるを補える者は各々封上せよ」と述べた。
  • 太和五年(231年)十一月戊戌晦、日蝕。
  • 太和六年(232年)正月戊辰朔、日蝕(暦に見える)。
  • 魏明帝青龍元年(233年)閏月庚寅朔、日蝕。
  • 魏斉王正始元年(240年)七月戊申朔、日蝕(紀に無し)。
  • 正始三年(242年)四月戊戌朔、日蝕(紀に無し)。
  • 正始六年(245年)四月壬子、日蝕。十月戊寅朔、また日蝕。
  • 正始八年(247年)二月庚午朔、日蝕。この時曹爽が専政し丁謐・鄧颺らが法度を転改していたが、たまたま日蝕の変があり群臣に得失を問う詔が出た。蒋済が上疏し「昔大舜は治を佐けて比周を戒め、周公は輔政して朋(党派)を慎んだ、斉侯が災を問うと晏子は布恵で答え、魯君が異を問うと臧孫は緩役で答えて変を塞いだ、天に応じるは実に人事にある」と述べたが、その旨は甚だ切実であったが君臣は悟らずついに敗亡に至った。
  • 正始九年(248年)正月乙未朔、日蝕。
  • 魏斉王嘉平元年(249年)二月己未、日蝕。
  • 魏高貴郷公甘露四年(259年)七月戊子朔、日蝕。
  • 甘露五年(260年)正月乙酉朔、日蝕。谷永の説では正朝は尊者がこれを悪む、京房の占では日蝕が乙酉に起これば君は弱く臣は強い、司馬(司馬昭)が兵を将いて反乱しその王を征する、とし、五月に成済の変(高貴郷公殺害)があった。
  • 魏元帝景元二年(261年)五月丁未朔、日蝕。
  • 景元三年(262年)三月己亥朔、日蝕。
  • 晋武帝太始二年(266年)七月丙午晦、日蝕。
  • 太始七年(271年)五月庚辰、日蝕。
  • 太始八年(272年)十月辛未朔、日蝕。
  • 太始九年(273年)四月戊辰朔、日蝕。
  • 太始十年(274年)三月癸亥、日蝕。
  • 晋武帝咸寧元年(275年)七月甲申晦、日蝕。
  • 咸寧三年(277年)正月丙子朔、日蝕。
  • 晋武帝太康四年(283年)三月辛丑朔、日蝕。
  • 太康六年(285年)八月丙戌朔、日蝕。
  • 太康七年(286年)正月甲寅朔、日蝕。乙亥、詔にいう「比年災異がしばしば発しているのは邦の不臧、実に朕の躬にある、震蝕の異はその咎はどこにあるか、いかに施行してその愆を済うべきか」と。太尉の亮・司徒の舒・司空の瓘が位を遜ろうとしたが許されなかった。
  • 太康八年(287年)正月戊申朔、日蝕。
  • 太康九年(288年)六月庚子朔、日蝕。二年後宮車が晏駕した。
  • 恵帝元康九年(299年)十月甲子朔、日蝕。
  • 恵帝永康元年(300年)四月辛卯朔、日蝕。
  • 恵帝永寧元年(301年)閏三月丙戌朔、日蝕。
  • 恵帝光熙元年(306年)正月戊子朔、日蝕。尊者はこれを悪んだ。七月乙酉朔、また日蝕。既(皆既)の占にいう、日蝕が既(皆既)で三月を出でずして国に凶ありという。十一月、宮車が晏駕した。十二月壬午朔、また日蝕。
  • 晋孝懐帝永嘉元年(307年)十一月戊申、日蝕。
  • 永嘉二年(308年)正月丙午朔、日蝕。
  • 永嘉六年(312年)二月壬子朔、日蝕。翌年帝は平陽で崩じた。
  • 晋愍帝建興四年(316年)六月丁巳朔、日蝕。十一月、帝は劉曜に虜となった。十二月乙卯朔、また日蝕。翌年帝は平陽で崩じた。
  • 晋元帝太興元年(318年)四月丁丑朔、日蝕。
  • 晋明帝太寧三年(325年)十一月癸巳朔、日蝕。
  • 晋成帝咸和二年(327年)五月甲申朔、日蝕。
  • 晋成帝咸康元年(335年)十月乙未朔、日蝕。
  • 咸康七年(341年)二月甲子朔、日蝕。
  • 咸康八年(342年)正月乙未朔、日蝕。正朝は尊者がこれを悪んだ。六月、宮車が晏駕した。
  • 晋穆帝永和七年(351年)正月丁酉朔、日蝕。
  • 永和十二年(356年)十月癸巳朔、日蝕。
  • 晋穆帝升平四年(360年)八月辛丑朔、日蝕があり、蝕が尽きず鉤のようであった。翌年宮車が晏駕した。
  • 晋哀帝隆和元年(362年)十二月戊午朔、日蝕。
  • 晋海西公太和三年(368年)三月丁巳朔、日蝕。
  • 太和五年(370年)七月癸酉朔、日蝕。翌年海西公として廃された。
  • 晋孝武帝寧康三年(375年)十月癸酉朔、日蝕。
  • 晋孝武帝太元四年(379年)閏月己酉朔、日蝕。
  • 太元六年(381年)六月庚子朔、日蝕。
  • 太元九年(384年)十月辛亥朔、日蝕。
  • 太元十七年(392年)五月丁卯朔、日蝕。
  • 太元二十年(395年)三月庚辰朔、日蝕。翌年宮車が晏駕した。海西の時にもこの変があり、また臣が主の明を蔽う者があるという。
  • 晋恵帝永興元年(304年)十一月、黒気が日を分けた。
  • 晋恵帝光熙元年(306年)五月癸巳、日の光が散じて流れること血のようで照らす所はみな赤くなった。甲午、また同様であった。占にいう、君道が明を失う、という。
  • 晋孝懐帝永嘉元年(307年)十一月乙亥、黄黒の気が日を掩い、照らす所はみな黄であった。河図占には日薄(薄蝕)とあり、その説では日蝕はみな晦朔にあるが晦朔でないのを日薄といい、日月が同宿しなくても陰気が盛んで日光を掩薄するものとし、占は蝕に類するという。
  • 永嘉二年(308年)二月癸卯、白虹が日を貫き青黄の暈が五重にあった。占にいう、白虹が日を貫くのは近臣が乱でなければ諸侯に兵があり地を破亡する、という。翌年司馬越が繆播らを殺し暴かに人主を蔑にし、五年後に胡が京都を破り帝はついに虜となった。一説には王者が兵に囲まれる象という。
  • 永嘉五年(311年)三月庚申、日の光が血のように流れ散じ、照らす所はみな赤く、日中に飛燕のようなものがあった。
  • 晋愍帝建武元年(317年)正月庚子、白虹が天に彌り三日並び照らし、日には重暈と左右両珥があった。占にいう、白虹は兵気であり、三四五六日並び出れば天下を争って兵が起こる、王が立つのもその数のごとくである、また、三日並び出れば三旬を出でずして諸侯が争って帝を称する、という。
  • 晋安帝隆安四年(400年)六月庚辰朔、日蝕。
  • 晋安帝元興二年(403年)四月癸巳朔、日蝕。
  • 晋安帝義熙三年(407年)七月戊戌朔、日蝕。
  • 義熙十年(414年)九月己巳朔、日蝕。七月辛亥晦、日蝕。
  • 義熙十三年(417年)正月甲戌朔、日蝕。翌年宮車が晏駕した。
  • 晋恭帝元熙元年(419年)十一月丁亥朔、日蝕。
  • 宋少帝景平二年(424年)二月癸巳朔、日蝕。
  • 文帝元嘉四年(427年)六月癸卯朔、日蝕。
  • 元嘉六年(429年)五月壬辰朔、日蝕。十一月己丑朔、また日蝕、蝕は尽きず鉤のようであった。蝕の時に星が晡(夕方)の方に見え河北の地が闇くなった。
  • 元嘉十二年(435年)正月乙未朔、日蝕。
  • 元嘉十七年(440年)四月戊午朔、日蝕。
  • 元嘉十九年(442年)七月甲戌晦、日蝕。
  • 元嘉二十三年(446年)六月癸未朔、日蝕。
  • 元嘉三十年(453年)七月辛丑朔、日蝕があり既(皆既)で星辰がみな見えた。
  • 孝武帝孝建元年(454年)七月丙戌朔、日蝕があり既で列宿が粲然と見えた。
  • 孝武帝大明五年(461年)九月甲寅朔、日蝕。
  • 明帝泰始四年(468年)八月丙子朔、日蝕。十月癸酉、また日蝕。
  • 泰始五年(469年)十月丁卯朔、日蝕。
  • 後廃帝元徽元年(473年)十二月癸卯朔、日蝕。
  • 順帝昇明二年(478年)九月乙巳朔、日蝕。
  • 昇明三年(479年)三月癸卯朔、日蝕。
  • 呉の孫権、赤烏十一年(248年)二月、白虹が日を貫き、時に地もしきりに震ったため権は詔を発して深く天眚を戒懼した。
  • 晋武帝太始五年(269年)七月甲寅、日暈が再重にあり白虹がこれを貫いた。
  • 晋武帝太康元年(280年)正月己丑朔、五色の気が日を冠り卯より酉に至った。占にいう、君道が明を失う、丑は斗牛を主り斗牛は呉の地である、この時孫晧が淫暴であった、四月に降った。
  • 恵帝元康九年(299年)正月、日中に飛燕のようなものがあり数月で消えた。王隠は愍懐太子が廃死する徴であるとした。
  • 恵帝永康元年(300年)十月乙未、日闘(二つの太陽が争うような現象)があり黄霧が四方に塞がった。占にいう、三年を出ずして下に城を抜く大戦がある、という。
  • 恵帝永寧元年(301年)九月甲申、日に黒子(黒点)があった。京房占によれば、黒は陰であり臣が君の悪を掩わなければ下に百姓が君を悪むことを見せる、日が重暈すれば天下に立王あり、暈に珥があれば天下に立侯あり、それゆえ陳卓は「まさに大慶が天下にあり、その参は三分するだろう」と言い、三月に江東が改元し洛陽・胡(漢の劉聡)もまた改元し、曹(魏)・劉(漢)の疆宇にまたがってこれより兵が連綿と続いたという。
  • 元帝太興四年(321年)三月癸亥、日に黒子。辛亥、帝は自ら囚徒を録訊した。
  • 元帝永昌元年(322年)十一月辛卯、日に黒子。
  • 明帝太寧元年(323年)正月己丑朔、日暈で光がなく、癸巳、黄霧が四方に塞がった。占にいう、君道が明を失い臣に陰謀がある、という。この時王敦が上を陵いだがついにその罪に伏した。
  • 成帝咸康元年(335年)七月、白虹が日を貫いた。
  • 咸康八年(342年)正月壬申、日中に黒子があり丙子に消えた。
  • 晋海西公太和四年(369年)四月戊辰、日暈が厚密で白虹が日中を貫いた。
  • 太和六年(371年)三月辛未、白虹が日を貫き日暈は五重であった。十一月、桓温が帝を廃した。張重華が涼州にあった時、日が暴かに赤く火のようになり中に三足烏の形が見えて日数旦かけてようやく止んだ。
  • 安帝元興元年(402年)二月甲子、日暈があり白虹が日を貫いた。翌年桓玄が簒位した。
  • 安帝義熙元年(405年)五月庚午、日に米珥(米粒状の暈飾)があった。
  • 義熙十一年(415年)、日は東井にあり白虹十余丈が南にかかり日を干した。司馬彪の説によれば災いは分野にあり、羌が亡ぶ象であるという。
  • 恭帝元熙二年(420年)正月壬辰、日暈があり東西に直珥各一丈、白気がこれを貫いて交匝した。
  • 晋孝懐帝永嘉五年(311年)三月丙申の夜、月蝕は既(皆既)。丁酉の夜また既に蝕した。占にいう、月蝕が既に尽きれば夫人に憂いがある、またその国の貴人が死ぬ、という。
  • 安帝義熙九年(413年)十二月辛卯朔旦、なお東方に見えた。占にはこれを「側匿」という。
  • 宋文帝元嘉二十九年(452年)十一月己卯朔、日が出始めて色が血のように赤く、外に牙のような塊礨(凹凸)を生じ円くなかった。翌年二月、宮車が晏駕した。
  • 孝武帝大明七年(463年)十一月、日が出始めて四五丈色が血のように赤く、沈む前にも四五丈同様であった。八年の春に至り凡そ三度日が死んだといわれ、閏五月に帝は崩じた。
  • 後廃帝元徽三年(475年)三月乙亥、日が沈む前数丈、日の色は紫赤で光がなかった。
  • 元徽五年(477年)三月庚寅、日暈が五重にあり、また重ねて二直・一抱・一背の文が生じた。
  • 文帝元嘉中、両白虹が宣陽門外に見えた。
  • 後廃帝元徽二年(474年)八月壬子の夜、白虹が見えた。
  • 元徽四年(476年)正月己酉、白虹が日を貫いた。
  • 順帝昇明元年(477年)九月乙未の夜、白虹が東方に見えた。