宋書卷三十三 志第二十三 五行四
総説
『五行傳』にいう、宗廟をないがしろにして祈らず、祭祀を廃して天の時に背けば、水はその「潤下」(低きを潤す)本性を失い災いとなる。また『五行傳』にいう、聞くことに聡からざるを「不謀」といい、その罰は恒寒(長引く寒さ)、その極みは貧である。この咎には鼓妖・豕禍・魚孽・耳の病・黒眚黒祥が現れ、火が水を沴(そこな)う。魚孽について劉歆は介虫(甲殻を持つ虫)の孽、すなわち蝗の類であるとする。
水不潤下
- 魏文帝黄初四年(223年)六月、大雨が続き伊水・洛水が溢れて津陽城門に達し、数千家を流し人を殺した。文帝は即位後、鄴から洛陽に遷都して宮室を造営したが、太祖(曹操)の宗廟の神主はなお鄴にあり、建始殿でしばしば家人の礼のように祭るのみで、黄初の間ついに鄴に還さず、円丘・方沢・南北郊・社稷などの神位も定まらなかった。これが宗廟をないがしろにし祭祀を廃した罰であるとされる。京房『易伝』にいう、事を専断する者が誅罰を加え理を絶てば、その災いは水である、と。
- 呉の孫権、赤烏八年(245年)夏、茶陵県で洪水が溢れ二百余家を流した。十二年(249年)秋、丹陽の故鄣などの県でまた洪水が溢れた。孫権は帝位に就いて三十年、建業に七廟を創らず父の堅一廟のみ長沙に遠く在り、郊禋の礼も欠けていた。嘉禾の初め群臣が郊祀を奏請したが許されず、末年に一度南郊を行ったのみで北郊は絶えて聞かれず、三江五湖・衡霍・会稽もみな呉楚の望であるのに秩祀されず、逆に羅陽の妖神に福助を求めた。天意は宗廟をないがしろにし祭祀を廃したことを罰そうとしたものかという。
- 太元元年(251年)冬、また大風涌水の異があった。この冬孫権が南郊を行ったが、これは咎を鑒みてのことかともいう。還って寝疾し、翌年(252年)四月に薨じた。一説に、権は晩年讒訴を信じ納れ、陸議(陸遜)の勲は重かったが子の和は儲貳(皇太子)でありながらその終わりを得られなかった、漢の安帝が讒を聴いて楊震を免じ太子を廃したのと同事とする。赤烏中は年ごとに用兵し百姓は愁怨し、八年秋には将軍馬茂らがまた謀反を図った。
- 魏明帝景初元年(237年)九月、平常を過ぎる淫雨があり、冀・兖・徐・豫の四州で水が出て溺死者・財産の流失があった。帝は即位以来奢侈を極め、多く幼女を占め、あるいは士の妻を奪い、宮室を飾り立て、農戦を妨げ、情に触れて欲をほしいままにし、この時彌々甚だしく、号令は時に逆らい、饑饉でも役を減らさなかった。これが水の潤下せざる応であるとされる。
- 呉の孫亮、五鳳元年(254年)夏、大水。亮は即位四年で権の廟を立てたが、呉の世を通じて祖宗の号を上らず昭穆の数に欠けがあり、亮及び休・晧もまた二郊を廃し群神を秩めなかった。これは宗廟をないがしろにし祭祀しなかった罰とされ、また当時孫峻が政を専らにし陰が陽に勝つ応かという。
- 呉の孫休、永安四年(261年)五月、大雨で水泉が涌溢した。前年に浦里の塘を築いた費用は無数で、田は成らず、士卒は死し叛き、あるいは自ら賊殺し合い百姓は愁怨した。これは陰気が盛んな応であり、休がまた張布を専任して盛冲らを退けたことへの呉人の賊視の応ともいう。
- 孫休、永安五年(262年)八月壬午、大雨・震雹・水泉涌溢。
- 晋武帝太始四年(268年)九月、青・徐・兖・豫の四州で大水。七年(271年)六月、大雨が続き河・洛・伊・沁がみな溢れ、二百余人が殺された。帝は即位して三后に祖宗の号を加えず、太始二年にはまた明堂の南郊で五帝の座を除き同じく昊天上帝一位のみとし、先后を地に配する礼も省いた。これは宗廟をないがしろにし祭祀を廃した罰で、漢の成帝と同事とされる。一説に、この年氐族の藥蘭・泥・白虎文・秦涼が刺史胡烈を殺し、牽弘が田璋を遣わして泥を討ち、また司馬望が大軍を率いて淮北に次して孫晧に備え、内外の兵役や西州の饑乱で百姓は愁怨し、陰気が盛んであったともいう。咸寧の初めに初めて祖宗の号を上げ、太熙の初めに五帝の位を復した。
- 咸寧元年(275年)九月、徐州で水。二年(276年)七月癸亥、河南魏郡で暴水があり百余人が殺され、八月には荆州の五郡国で大水があった。前年に良家の子女を選んで面を露にして入殿させ、帝は自ら簡閲して姿色を専らとし、徳行を訪ねず、匿す者は不敬の罪に問われたため、搢紳は愁怨し天下はこれを非とした。陰盛の応とされる。
- 咸寧三年(277年)六月、益・梁二州の八郡国で暴水があり三百余人が殺された。七月に荆州で大水、九月に始平郡で大水、十月に青・徐・兖・豫・荆・益・梁の七州でまた水があった。この時賈充らが用事し日々盛んで、正人は疎外される者が多かった。
- 咸寧四年(278年)七月、司・冀・兖・豫・荆・揚の二十郡国で大水。
- 太康二年(281年)六月、泰山・江夏で大水があり、泰山では三百家が流され六千余人が殺され、江夏でも人が殺された。呉平定の後、王濬が元功を立てたのに詆劾を妄りに加えられ、荀勗・賈充は無謀とされながら重賞を蒙り、呉の姫五千人を後宮に納めた。これへの応かという。
- 太康四年(283年)七月、司・豫・徐・兖・荆・揚の二十郡国で大水があり秋稼を傷め屋室が壊れ死者も出た。
- 太康六年(285年)三月、青・涼・幽・冀の十五郡国で大水。
- 太康七年(286年)九月、西方の安定など八郡国で大水。
- 太康八年(287年)六月、八郡国で大水。
- 恵帝元康二年(292年)に水災があった。
- 元康五年(295年)五月、潁川・淮南で大水。六月、城陽・東莞で大水があり人が殺され、荆・揚・徐・兖・豫の五州でまた大水があった。この時帝は即位して既に五年たつのに未だ郊祀・烝嘗をあまり自ら身近に行っておらず、宗廟をないがしろにし祭祀を廃した罰とされる。班固の言に、王者は即位すれば必ず天地に郊祀し山川に秩を望むべきで、鬼神を敬わず政令が天の道に逆らえば霧水が暴かに至り百川が逆溢して郷邑を壊し人民を溺れさせる、水が潤下しないのはこれである、という。
- 元康六年(296年)五月、荆・揚二州で大水。董仲舒の説に、水は陰気の盛んなることを謂うとあり、この時賈后が朝を乱し賈氏・郭氏の女主専政の応とされる。
- 元康八年(298年)五月、金墉城の井水が溢れた。漢の成帝の時にもこの妖があり、班固はこれを王莽の象とした。趙倫(司馬倫)が簒位した時もこの応で、倫は帝をこの城に廃し井が溢れた所在も天意かという。
- 元康八年九月、荆・揚・徐・兖・冀の五州で大水。この時賈后は暴戻いよいよ甚だしく、韓謐は驕猜彌々扇り、ついに太子を害し自らも禍滅した。
- 元康九年(299年)四月、宮中の井水が沸溢した。
- 恵帝永寧元年(301年)七月、南陽・東海で大水。この時斉王冏が政を秉り恣にしたことの陰盛の応とされる。
- 恵帝太安元年(302年)七月、兖・豫・徐・冀の四州で水。将相が力攻し尊主の心が無かった時である。
- 懐帝永嘉四年(310年)四月、江東で大水。この時王導らが密かに翼戴の計を懐いていた陰気盛んの応。
- 元帝太興三年(320年)六月、大水。この時王敦が内に不臣の心を懐き傲狠に威を作していた。後に夷滅された。
- 太興四年(321年)七月、大水。翌年石頭の敗があった。
- 元帝永昌二年(323年)五月、荆州及び丹陽・宣城・呉興・寿春で大水。
- 明帝太寧元年(323年)五月、丹陽・宣城・呉興・寿陽で大水。この時王敦は忠良を害し威権が主を震わせていたが、まもなく誅滅された。
- 成帝咸和元年(326年)五月、大水。嗣主は幼く母后が制を称し、庾亮が元舅の民望として禁中で事を決していた陰勝陽の応。
- 咸和二年(327年)五月戊子、京都で大水。この冬蘇峻が兵を称して都邑は塗炭に苦しんだ。
- 咸和四年(329年)七月、丹陽・宣城・呉興・会稽で大水。この冬郭黙が乱を作し荆・豫が共に討ち半年で平定された。
- 咸和七年(332年)五月、大水。帝は未だ政を親らせず政は大臣にあった陰勝陽の応。
- 成帝咸康元年(335年)八月、長沙・武陵で大水。この年三月に石虎が騎を掠め歴陽に至り、四月に襄陽を囲んだため、王導を大司馬に加えて徒旅を集め、また趙鳳・路永・劉允・陳光の五将軍を各々帥いて衛戍させ、百姓は愁怨した陰気盛んの応。
- 穆帝永和四年(348年)五月、大水。幼主が沖弱で母后が臨朝し、将相大臣が各々権政を争っていた咸和初と同事という。
- 永和五年(349年)五月、大水。
- 永和六年(350年)五月、大水。
- 永和七年(351年)七月甲辰の夜、濤水が石頭に入り死者数百人。前年殷浩が私忿で蔡謨を廃し遐邇はこれを非とし、また幼主が上にあって殷浩・桓温が交々悪しく徒を選び甲を聚めて各々私権を崇めていた陰勝陽の応。一説に濤が石頭に入るのは江右では兵の占とされ、この後殷浩・桓温・謝尚・荀羨が連年征伐したという。
- 穆帝升平二年(358年)五月、大水。この時桓温が権を専らにして朝廷を制し征伐を専らにしていた。
- 升平五年(361年)四月、大水。
- 晋海西太和六年(371年)六月、京都で大水があり平地数尺、太廟にも及び、朱雀大航の纜が断たれ三艘が大江に流れ入り、丹陽・晋陵・呉国・呉興・臨海の五郡でもまた大水があり稲稼が蕩没した。初め四年に桓温が北伐して敗績し十のうち九を喪い、五年にまた淮南を征して年を踰えてようやく克ち、百姓は愁怨した応。
- 簡文帝咸安元年(371年)十二月壬午、濤水が石頭に入った。翌年妖賊盧竦がその属数百人を率いて殿に入り武庫の三庫の甲仗を略取したが、将軍毛安之がこれを討滅した。
- 孝武帝太元三年(378年)六月、大水。この時孝武は幼弱で政は将相にあった。
- 太元五年(380年)大水。前年氐賊が攻めて襄陽を陥し、また広陵に向かったため江淮の民を強いて南渡させ、三州は失業し道に餓死者が続いた。謝玄が句難らを破ったものの、以後征戍が絶えず百姓は愁怨した応。
- 太元六年(381年)六月、荆・江・揚三州で大水。
- 太元十年(385年)夏、大水。前年八年に苻堅を破って以来中州で事あり役が止まなかった兵民の愁怨の応。
- 太元十三年(388年)十二月、濤水が石頭に入った。翌年丁零・鮮卑が司・兖を寇擾し鎮戍は奔命に疲れた。
- 太元十五年(390年)七月、兖州で大水。この時河沿いに紛争があり征戍が絶えなかった。
- 太元十七年(392年)六月甲寅、濤水が石頭に入り大航を毀ち船舫を漂わせ死者が出た。京口の西浦でも濤が入って人を殺し、永嘉郡の潮水も近海の四県で涌起し人民が多く死んだ。四年後に帝が崩じ王恭が再び京師を攻め、京師もまた大軍を発してこれを禦いだ。
- 太元十九年(394年)七月、荆州・彭城で大水があり稼を傷めた。
- 太元二十年(395年)荆州・彭城で大水。
- 太元二十一年(396年)五月癸卯、大水。この時政事に弊多く兆庶がこれを非とした。
- 安帝隆安三年(399年)五月、荆州で大水。前年殷仲堪が兵を挙げて京都に向かい、この年春にまた郗恢を殺したことへの陰盛作威の応。仲堪もまもなく敗亡した。
- 隆安五年(401年)五月、大水。この時司馬元顕が上を凌ぎ威を作し、また桓玄が西夏に擅にし孫恩が東国に乱れていた陰勝陽の応。
- 安帝元興二年(403年)十二月、桓玄が簒位。翌年二月庚寅の夜、濤水が石頭に入った。この時貢使・商旅の舟が万を数え漂敗して流れ骸胔が相望むこと、江右で濤の変があっても未だこれほど甚だしいものはなかった。三月義軍が京都を克ち、玄は敗走してついに夷滅した。
- 元興三年(404年)二月己丑朔の夜、濤水が石頭に入り漂没して人を殺し、大航も流敗した。
- 安帝義熙元年(405年)十二月己未、濤水が石頭に入った。
- 義熙二年(406年)十二月己未の夜、濤水が石頭に入った。翌年駱球の父環が密かに桓胤・殷仲文らと結び乱を謀り、劉雅もまた反を謀り、誅滅された者は数十家に及んだ。
- 義熙三年(407年)五月丙午、大水。
- 義熙四年(408年)十二月戊寅、濤水が石頭に入った。翌年王旅が北して鮮卑を討った。
- 義熙六年(410年)五月丁巳、大水。乙丑、盧循が蔡洲に至った。
- 義熙八年(412年)六月、大水。
- 義熙九年(413年)五月辛巳、大水。
- 義熙十年(414年)五月丁丑、大水。戊寅、西明門の地が穿けて涌水が出て門扉及び限(しきい)を毀った。七月乙丑、淮北で災風・大水が人を殺した。
- 義熙十一年(415年)七月丙戌、大水があり太廟を淹漬し百官が赴き救った。翌年王旅が北して関河を討った。
- 宋文帝元嘉五年(428年)六月、京邑で大水。七年、右将軍到彦之が師を率いて黄河に入った。
- 元嘉十一年(434年)五月、京邑で大水。十三年、司空檀道済が誅された。
- 元嘉十二年(435年)六月、丹陽・淮南・呉・呉興・義興の五郡で大水があり京邑は舟に乗った。
- 元嘉十八年(441年)五月、江水が汎溢し居民を没し苗稼を害した。翌年右軍将軍裴方明が雍・梁の衆を率いて仇池を伐った。
- 元嘉十九年(442年)・二十年(443年)、東都の諸郡で大水。
- 元嘉二十九年(452年)五月、京邑で大水。
- 孝武帝孝建元年(454年)八月、会稽で大水があり平地八尺に達した。後二年、虜が青・冀州を寇し羽林軍卒を遣わして討伐した。
- 孝武帝大明元年(457年)五月、呉興・義興で大水。
- 大明四年(460年)八月、雍州で大水。
- 大明四年、南徐・南兖州で大水。
- 後廃帝元徽元年(473年)六月、寿陽で大水。
- 順帝昇明元年(477年)七月、雍州で大水があり、関羽・樊城の時よりも甚だしかった。
- 昇明二年(478年)二月、於潜の翼異山で一夕に五十二カ所から水が出て居民を漂わせた。七月丙午朔、濤水が石頭に入り居民はみな漂没した。
恒寒
庶徴の恒寒について、劉歆は大雨雪や、雪でないのに雪が降ることや、大雨雹・隕霜が菽(豆)や草を殺すことをみな常寒の罰とする。京房『易伝』にいう、徳ある者が険しい目に遭うのを「逆命」といいその異は寒であり、誅罰が過ぎて深ければ暖かるべき時に寒くなり、六日過ぎればまた雹害となる、正しきを誅せざるを「養賊」といい寒が七十二日続けば飛禽が死に道人も去り、これを「傷」といい万物が霜もなく死し涌水が出、戦って敵を量らざるを「辱命」といいその寒は雨が降っても物が茂らない、という。
- 呉の孫権、嘉禾三年(234年)九月朔、隕霜が穀を傷めた。劉向の説では誅罰が君より出でず臣下に在る象とされ、この時校事の呂壱が専ら威福を作していたことが漢の元帝の時に石顕が用事した隕霜と同じ応とされる。呂壱ものちに誅に伏した。
- 嘉禾四年(235年)七月、雨雹があり、また隕霜。劉向の説に雹は陰が陽を脅かすものとされ、この時呂壱が威を作り重臣を詆毀し無辜を排陥し、太子登以下がみなこれを患毒したが、壱は却って封侯の寵を得た。春秋の公子遂が専任し雨雹があったのと同応とされる。漢の安帝も讒を信じ無辜を多く殺し雨雹があったという。
- 呉の孫権、赤烏四年(241年)正月、大雪が平地三尺に及び鳥獣の死ぬ者が大半であった。この年夏、全琮ら四将軍が淮南・襄陽を攻略し戦死者は千余人。この後権は讒邪を聴いて陸議(陸遜)を数々責め、陸議は憤恚して卒した。漢の景帝・武帝の時の大雪と同事とされる。
- 赤烏十一年(248年)四月、雨雹。この時権は讒を聴いて太子を危うくしようとし、その後朱拠・屈晃は意に逆らって黜辱され、陳象は忠諫のために族誅され、太子は遂に廃された。徳ある者が険しい目に遭う「誅罰過深」の応とされる。
- 晋武帝太始六年(270年)冬、大雪。
- 太始七年(271年)十二月、大雪。翌年歩闡・楊肇の敗があり死傷が甚だ多かった。
- 太始九年(273年)四月辛未、隕霜。この時賈充の親党が比周して用事していた。魯の定公・漢の元帝の時の隕霜と同応とされる。
- 咸寧二年(276年)八月、平原・安平・上党・秦郡で霜が三豆(豆類)を害した。
- 咸寧三年(277年)八月、河間で暴風寒氷があり五郡国で隕霜が穀を傷めた。この後呉を大挙して征し、馬隆もまた精勇を率いて涼州を討った。
- 咸寧五年(279年)五月丁亥、鉅鹿・魏郡で雨雹が禾麦を傷め、辛卯には雁門で雨雹が秋稼を傷めた。
- 咸寧五年六月庚戌、汲郡・広平・陳留・滎陽で雨雹。丙辰にまた雨雹があり秋麦千三百余頃を損傷し屋百三十余間を壊した。癸亥、安定で雨雹。七月丙申、魏郡でまた雨雹。閏月壬子、新興でまた雨雹。八月庚子、河東・弘農でまた雨雹があり秋稼三豆を兼ねて傷めた。
- 太康元年(280年)三月、河東・高平で霜雹が桑麦を傷め、四月に河南・河内・河東・魏郡・弘農で雨雹が麦豆を傷め、五月に東平・平陽・上党・雁門・済南で雨雹が禾麦三豆を傷めた。
- 太康元年四月庚午、畿内二県及び東平・范陽県で雨雹。癸酉、畿内五県でまた雨雹。この時王濬に大功があったのに権戚が互いに陥抑を加え、帝が従容として断じなかった陰脅陽の応とされる。
- 太康二年(281年)二月辛酉、済南・琅邪に霜が隕り麦を傷め、壬申、琅邪で雨雪が麦を傷め、三月甲午、河東に隕霜あり桑を害した。
- 太康二年五月丙戌、城陽・章武・琅邪、庚寅、河東・楽安・東平・済陰・弘農・濮陽・斉国・頓邱・魏郡・河内・汲郡・上党で雨雹が禾稼を傷めた。
- 太康二年六月、十六郡国で雨雹。
- 太康三年(282年)十二月、大雪。
- 太康五年(284年)七月乙卯、中山・東平で雨雹が秋稼を傷め、甲辰、中山で雨雹。九月、南安で大雪、木を折った。
- 太康六年(285年)二月、東海で霜が桑麦を傷めた。三月戊辰、斉郡の臨菑・長広・不其など四県、楽安の梁鄒など八県、琅邪の臨沂など八県、河間の易城など六県、高陽の北新城など四県で隕霜が桑麦を傷めた。六月、滎陽・汲郡・雁門で雨雹。
- 太康八年(287年)四月、斉国・天水の二郡で隕霜。十二月、大雪。
- 太康九年(288年)正月、京都で大風雨雹があり屋を発し木を抜いた。四月、隴西で隕霜。
- 太康十年(289年)四月、八郡国で隕霜。
- 恵帝元康二年(292年)八月、沛及び湯陰で雨雹。
- 元康三年(293年)四月、滎陽で雨雹、弘農・湖・華陰でまた雨雹があり深さ三尺に及んだ。この時賈后が凶淫専恣であった、春秋の魯桓公夫人と同事とされる、陰気の盛んなる応。
- 元康五年(295年)六月、東海で雨雹の深さ五寸。十二月、丹陽で雨雹。
- 元康五年十二月、丹陽・建業で大雪。
- 元康六年(296年)三月、東海で隕霜が桑麦を殺した。
- 元康七年(297年)五月、魯国で雨雹。七月、秦・雍二州で隕霜が稼を殺した。
- 元康九年(299年)三月十八日、河南・滎陽・潁川で隕霜が禾を傷め、五月に雨雹。この時賈后は凶躁彌々甚だしく、この冬ついに愍懐太子を廃した。
- 恵帝永寧元年(301年)七月、襄城で雨雹。この時斉王冏が専政していた。十月、襄城・河南・高平・平陽で風雹が木を折り稼を傷めた。
- 恵帝光熙元年(306年)閏八月甲申朔、霰雪。劉向にいう、盛んな陽の雨水は湯のように熱いが陰気がこれを脅かせば転じて雹となり、盛んな陰の雨雪は凝滞するが陽気がこれに薄れば散じて霰となる、今雪がその時でないのは聴くことに聡からざる応であるという。
- 懐帝永嘉元年(307年)十二月、冬雪が平地三尺。
- 永嘉七年(313年)十月庚午、大雪。
- 愍帝建興元年(313年)十一月戊午、会稽で大雨震電。己巳の夜、赤気が西北に曜き、この夕また大雨震電。庚午、大雪。劉向の説に、雷は二月に出て八月に入るもので、この月に雷電があるのは陽が閉蔵しないためであり、発泄した翌日にすぐ大雪になるのはみな節を失った異とする。この時劉淵が平陽で僭号し、李雄が蜀で称制し、九州が幅裂して西京は孤微であった、君が時を失った象という。
- 元帝太興二年(319年)三月丁未、成都で風雹が人を殺した。
- 太興三年(320年)三月、海塩郡で雨雹。この時王敦が上を凌いでいた。
- 元帝永昌二年(323年)十二月、幽・冀・并三州で大雪。
- 明帝太寧元年(323年)十二月、幽・冀・并州で大雪。
- 太寧二年(324年)四月庚子、京都で大雨雹があり燕雀が死んだ。
- 太寧三年(325年)三月丁丑、雨雹。癸巳、隕霜。四月、大雨雹。この年帝が崩じ、まもなく蘇峻の乱があった。
- 成帝咸和六年(331年)三月癸未、雨雹。この時帝は幼弱で政は大臣にあった。
- 咸和九年(334年)八月、成都で雪。その日李雄が死んだ。
- 咸康二年(336年)正月丁巳、皇后が太廟に見え、その夕雨雹。
- 康帝建元元年(343年)八月、大雪。この時政は将相にあった陰気盛んの応。春秋の魯昭公の時に季孫宿が専政したのと同事とされ、劉向にいう、雨はすべて陰であり雪もまた雨の陰である、時でなく降るのは象の迫近によるという。
- 穆帝永和三年(347年)八月、冀方で大雪があり人馬が多く凍死した。
- 永和五年(349年)六月、臨漳で暴震霆があり雨雹は升ほどの大きさであった。
- 永和十年(354年)五月、涼州で雪。翌年八月、枹罕護軍張瓘が宗混らを帥いて張祚を攻め滅ぼし、張曜の弟玄靚を改めて立てた。京房『易伝』にいう、夏の雪は臣が乱をなすことを戒める、という。
- 永和十一年(355年)四月壬申朔、雪。十二月戊午、雷。己未、また雷。この時帝は幼く母后が制を称し政は大臣にあった。
- 穆帝升平二年(358年)正月、大雪。
- 孝武帝太元二年(377年)四月己酉、雨雹。十二月、大雪。この時帝は幼弱で政は将相にあった。
- 太元十二年(387年)四月己丑、雨雹。この時中州で事があり兵役が連年続いていた。
- 太元二十年(395年)五月癸卯、上虞で雨雹。
- 太元二十一年(396年)四月丁亥、雨雹。この時張夫人が専ら寵を受け帝が暴かに崩じ、兆庶がこれを尤めた。
- 太元二十一年十二月、連雪二十三日。この時嗣主は幼冲で冢宰が専政していた。
- 安帝隆安二年(398年)三月己卯、雨雹。この秋王恭・殷仲堪が内侮し、ついにみな誅された。
- 安帝元興二年(403年)十二月、酷寒が甚だしく過ぎた。この時桓玄が簒位して政事が煩苛であった応。晋室は緩やかに過ぎる失があったが、玄はこれに反した。劉向にいう、周の衰えには寒の歳がなく、秦の滅びには暖の年がなかった、これをいうものである。
- 元興三年(404年)正月甲申、霰雪、また雷。霰と雷が同日に応じないのは節を失った応。二月義兵が起こり玄が敗れた。
- 元興三年四月丙午、江陵で雨雹。この時安帝は蒙塵していた。
- 安帝義熙元年(405年)四月壬申、雨雹。この時四方いまだ一ならず鉦鼓が日々戒めていた。
- 義熙五年(409年)三月己亥、雪が深さ数寸。
- 義熙五年五月癸巳、溧陽で雨雹。九月己丑、広陵で雨雹。翌年盧循が蔡洲に至った。
- 義熙六年(410年)正月丙寅、雪、また雷。
- 義熙六年五月壬申、雨雹。
- 義熙八年(412年)四月辛未朔、雨雹。六月癸亥、雨雹があり大風が屋を発した。この秋劉藩らが誅された。
- 義熙十年(414年)四月辛卯、雨雹。
- 宋文帝元嘉九年(432年)春、京都で雨雹。溧陽・盱眙は特に甚だしく牛馬を傷め禽獣を殺した。
- 元嘉十八年(441年)三月、雨雹。二十五年、虜が青州を寇した。
- 元嘉二十五年(448年)正月、積雪冰寒。
- 元嘉二十九年(452年)五月、盱眙で雨雹があり鶏卵ほどの大きさであった。三十年、国家に禍乱があり兵革が大いに起こった。
- 孝武帝大明元年(457年)十二月庚寅、大雪が平地二尺余に及んだ。翌年虜が冀州を侵し羽林軍を遣わして北討した。
- 明帝泰始五年(469年)四月壬辰、京邑で雨雹。
- 後廃帝元徽三年(475年)五月乙卯、京邑で雨雹。
雷震
- 魏明帝景初中、洛陽城東の橋、洛水の浮橋、桓楹(柱状の標)が同日三か所ともに震われた。まもなくまた西城上を震い、風を候う木が飛んで烏になったという。この時労役が大いに起こり、帝はまもなく崩じた。
- 呉の孫権、赤烏三年(240年)夏、宮門柱を震い、また南津の大橋の桓楹を撃った。
- 孫亮建興元年(252年)十二月朔、大風震電。この月また雷雨があり前説と同義とされる。亮はついに廃された。
- 晋武帝太康六年(285年)十二月甲申朔、淮南郡で震電。
- 太康七年十二月己亥、毗陵で雷電。南沙司塩都尉戴亮がこれを聞に上げた。
- 太康十年(289年)十二月癸卯、廬江・建安で雷電大雨。
- 恵帝永康元年(300年)六月癸卯、崇陽陵標の西南五百歩を震い、標が破れて七十片となった。この時賈后が鼎輔を陥害し私戚を寵樹した、漢の桓帝の時に憲陵の寝を震ったのと同事とされ、后はついに誅滅された。
- 永興二年(305年)十月丁丑、雷電。
- 懐帝永嘉四年(310年)十月、震電。
- 元帝永昌二年(323年)七月丙子朔、太極殿の柱を雷震。十一月、会稽・呉郡で雨震電。
- 明帝太寧元年(323年)七月丙子朔、太極殿の柱を震った。
- 成帝咸和元年(326年)十月己巳、会稽郡で大雨震電。
- 咸和三年(328年)六月辛卯、臨海で大雷があり郡府内の小屋の柱十枚を破り人を殺した。
- 咸和三年九月二日立冬、会稽で震電。
- 咸和四年(329年)十二月、呉郡・会稽で震電。丹陽でも震電。
- 穆帝永和七年(351年)七月壬午、雷雨震電。
- 升平元年(357年)十一月庚戌、雷。乙丑、また雷。
- 升平五年(361年)十月庚午、雷が東南に発した。
- 孝武帝太元五年(380年)六月甲寅、含章殿の四柱を雷震。十二月、雷声が南方にあった。
- 太元十四年(389年)七月甲寅、宣陽門の西柱を震った。
- 安帝隆安二年(398年)九月壬辰、雨雷。
- 安帝元興三年(404年)、永安皇后が巴陵より至り儀導を設けて宮に入ろうとした時、天雷が震い人馬各一が斃れた。
- 義熙四年(408年)十一月辛卯朔、西北疾風。癸丑、雷。
- 義熙五年(409年)六月丙寅、太廟を震い東の鴟尾を破り壁柱を徹した。
- 義熙六年(410年)正月丙寅、雷。丁卯、また雷。
- 義熙六年十二月壬辰、大雷。
- 義熙九年(413年)十一月甲戌、雷。乙亥、また雷。
- 宋文帝元嘉四年(427年)十一月癸丑、雷。
- 元嘉五年(428年)六月丙寅、太廟を震い東の鴟尾を破り壁柱を徹した。
- 元嘉六年(429年)正月丙寅、雷、かつ雪。
- 元嘉七年(430年)十月丙子、雷。
- 元嘉八年(431年)十二月庚辰、雷。
- 元嘉九年(432年)十一月甲戌、雷、かつ雪。
- 元嘉十四年(437年)、初寧陵の口標四つが破れて地に至った。十七年、大将軍彭城王義康が骨肉相害す事件が起こり、これより始まったという。
- 前廃帝景和元年(465年)九月甲午、雷震。
- 明帝泰始二年(466年)九月辛巳、雷震。
- 泰始四年(468年)十月辛卯、雷震。十一月癸卯朔、雷震。
- 泰始五年(469年)十一月乙巳、雷震。
- 泰始六年(470年)十一月庚午、雷。
- 後廃帝元徽三年(475年)九月戊戌、雷。丁未、雷。戊午、雷震。十月辛未、雷。甲戌、また雷。
- 順帝昇明三年(479年)二月二十四日丙申、建陽門を震った。
鼓妖
- 恵帝元康九年(299年)三月、許昌城で牛のような声がした。十二月、太子は廃され許宮に幽閉された。春秋で晋の文公の柩が牛のような声を発した故事があり、劉向はこれを鼓妖とし、その説では声がこのようであるのは怒りの象で、急な怒りの謀があり兵甲の禍を生じるとする。この類とされる。翌年賈后が黄門孫慮を遣わして太子を殺し、薬杵で撃つ声が外に聞こえた。
- 蘇峻が歴陽の外営にあった時、将軍の鼓が自ら鳴り人が弄ぶかのようであった。峻は自ら斫って「我が郷土でこれがあれば城は空になる」と言ったが、まもなく乱を起こした。これは聴くことに聡からざる罰で、鼓妖はまず先に現れたものとされる。
- 石虎の末、洛陽城西北九里の石牛が青石の趺の上で忽ち鳴き、その声が四十里に聞こえた。虎は人を遣り両耳・尾の鉄釘を打ち落とさせた。
- 孝武太元十五年(390年)三月己酉朔、東北で雷のような声がした。劉向の説では、雷は本来雲に託すもので君が臣に託すようなものだが、雲がないのに雷があるのは君が下を恤まず下民が将に叛かんとする象とする。帝が崩じた後天下は漸く乱れ、孫恩・桓玄が京邑を相交々に陵した。
- 呉興長城県の夏架山に石鼓があり、長さ丈余、下に盤石を足とし、鳴れば金鼓のような声がした。三呉に兵が起こる兆しとされ、晋安帝隆安中に大いに鳴り、その後孫恩・徐道覆(霊秀)の乱があった。
魚孽
- 魏斉王嘉平四年(252年)五月、二魚が武庫の屋上に集まった。これは魚孽である。王肅は、魚は淵に生きて屋の上に亢るのは介鱗の物がその所を失うことであり、辺将には棄甲の変があるかもしれない、と言い、後に果たして東関の敗があった。干宝はまた高貴郷公の兵禍への応とし、二説はともに班固の趣旨と同じとされる。
- 晋武帝太康中、鯉魚二尾が武庫の屋上に見られた。干宝は、武庫は兵府であり魚には鱗甲があり兵の類でもある、魚は極めて陰であり屋上は太陽、魚が屋上に見えるのは至陰の兵革の禍が太陽を大きく損なう象であるという。恵帝の初め楊駿を誅し太后を廃した際、矢が館閣を交わし、元康末には賈后が太子を謗り殺し、まもなく誅廃され、十年の間に母后の難が再興した。これがその応で、以来禍乱が構えられたという。京房『易妖』にいう、魚が水を去って道路を飛べば兵がまさに起こる、と。
蝗蟲
- 魏文帝黄初三年(222年)七月、冀州で大蝗があり民が饑えた。蔡邕の説に、蝗は上に貪苛あることの致すところとする。この時孫権は帝に帰順していたが、帝が西陵の役に乗じて大軍を挙げて襲ったため、権はついに背叛した。
- 晋武帝太始十年(274年)六月、蝗。この時荀勗・賈充が政を任され公直の者を疾害していた。
- 懐帝永嘉四年(310年)五月、大蝗が幽・并・司・冀より秦・雍に至り、草木・牛馬の毛鬛がみな尽きた。この時天下は兵乱で漁猟のように生民の存亡が繋がり、司馬越・苟晞のみが競って暴刻をなし経略に章がなかった。
- 愍帝建興四年(316年)六月、大蝗。前年、胡寇がしきりに北地・馮翊を攻め、麴允らが全軍でこれを禦いだが、この時また劉曜を禦いで曜に破られ西京はついに潰えた。
- 元帝太興元年(318年)六月、蘭陵・合郷で蝗が禾稼を害し、乙未、東莞の蝗蟲は縦横三百里にわたり苗稼を害した。七月、東海・彭城・下邳・臨淮の四郡で蝗蟲が禾豆を害した。八月、冀・青・徐三州で蝗が生草を食い尽くし翌年に至った。この時中州は淪喪し暴乱がいよいよ滋った。
- 太興二年(319年)五月、淮陵・臨淮・淮南・安豊・廬江の諸郡で蝗が秋麦を食った。
- 太興三年(320年)五月癸丑、徐州及び揚州・江西の諸郡で蝗があり、呉の民は多く餓死した。前年王敦が荆州を併せ領した苛暴の兆しがこれより興り、またこの年初め徐州刺史蔡豹が衆を率いて周撫を伐った。
- 孝武帝太元十五年(390年)八月、兖州で蝗。この時丁零が兖・豫を寇し鮮卑が河南に迫り征戍が絶えなかった。
- 太元十六年(391年)五月、飛蝗が南より来て堂邑県界に集まり苗稼を害した。この年春、江州の兵を発して営甲士二千人・家口六七千人を護軍及び東宮に配したが、まもなく散亡してほとんど尽き、また辺将にしきりに征殺があった。
豕禍
- 呉の孫晧、宝鼎元年(266年)、野豕が右司馬丁奉の営に入った。これは豕禍である。その後丁奉は穀陽を攻めるも功なく、晧が怒って導軍を斬り、大軍を挙げて北出した際、丁奉及び万彧らが互いに、華里に至れば各々自ら還らざるを得ないだろうと語り合った。この謀が漏れ、丁奉はその時既に死んでいたが、晧は穀陽の事を追討しその子の温及び家属をみな遠く徙らせた。豕禍の応とされる。龔遂は、山野の獣が宮室に入るのは宮室が空になろうとする象であるという。
- 晋懐帝永嘉中、寿春城内の豕が両頭を生んだが活きなかった。周馥がこれを取って観たところ、通数者が密かに「豕は北方の畜で胡狄の象、両頭は上がないこと、生まれて死ぬのは遂げないこと。天意はまるで、生を専利の謀に用いようとすればおのずと傾覆を招くと言うようなものだ」と言った。周馥は悟らず、ついに天子を迎えて諸侯に令しようとしたが、まもなく元帝に敗られた。これがその応で、石勒もまもなく淮を渡り、百姓の死者は十のうち八九に及んだ。
- 晋恵帝建武元年(304年)、豕が八足を生んだ。聴くことに聡からざる罰とされる。京房『易伝』にいう、およそ妖はそれぞれその類に象り、足が多いのは任じる者が邪であることを示す、という。この後劉隗の変があった。
- 成帝咸和六年(331年)六月、銭塘の民家で豭豕(雄豚)が両子を生み、皆人面で胡人のような姿だったが体は猶豕であった。京房『易妖』にいう、豕が人頭を生じ豕身であるのは邑がまさに乱亡することを示すとし、これは豭豕が異産をなす甚だしいものとされる。
- 孝武帝太元十年(385年)四月、京都に豕一頭二身八足のものがあった。十三年(388年)京都の民家の豕がまた一頭二身八足の子を産み、建武年間と同じ妖であった。この後宰相は酖に沈み朝政を恤まず、近習が用事し漸く国綱が乱れて大壊に至った。
黒眚黒祥
- 晋懐帝永嘉五年(311年)十二月、黒気が四方に塞がった。黒祥に近いとされる。
- 宋文帝元嘉二十六年(449年)三月、京口に幸した際、黒気が暴かに起こった。占いには兵ありとされ、翌年虜が南寇して瓜歩に至り、江に馬を飲ませた。
火沴水
- 晋武帝太康五年(284年)六月、任城・魯国の池水がみな血のように赤くなった。劉向の説では火が水を沴う近い例とされ、聴くことに聡からざる罰とする。京房『易伝』にいう、色に淫すれば賢人が国に潜み、その異は水の流れが赤くなることである、という。
- 穆帝升平三年(359年)二月、涼州城東の池中に火があった。四年四月、姑臧の沢水中にまた火があった。これは火が水を沴う妖とされ、翌年張天錫が中護軍張邕を殺した。張邕は執政の臣であった。
- 安帝元興二年(403年)十月、銭塘・臨平湖の水が赤くなった。桓玄は呉郡に諷して自分の瑞であると言わせたが、まもなく玄は敗れた。