宋書卷三十二 志第二十二 五行三

總説(五行傳)

  • 『五行傳』にいう。法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を以て妻と為せば、火は炎上せず(火がその性を失い災いとなる)。また、視ることが明らかでないのを「不哲」といい、その咎は舒(ゆるみ・恒燠)、その罰は恒に燠(あたたか)、その極は疾(病)、時には草妖あり、時には臝蟲(裸虫)の孽あり、時には羊禍あり、時には目痾あり、時には赤眚・赤祥あり、これを「水、火を沴(みだ)す」という。

火不炎上

  • 魏の明帝、太和五年(231年)五月、清商殿が火災。かつて明帝は平原王であった時に河南の虞氏を妃に納れたが、即位後は皇后に立てず、改めて典虞車工の卒であった毛嘉の娘を立てて悼皇后とした。虞氏は本来卑賤の出であり、これは「妾を以て妻と為す」罰である。
  • 魏の明帝、青龍元年(233年)九月、洛陽宮の鞠室が火災。
  • 青龍二年(234年)四月、崇華殿が火災し南閣に延焼、修復されたが、三年(235年)七月にこの殿がまた火災。帝が高堂隆に何の咎かと問うと、対えて言った。「災変が起こるのはみな教誡を明らかにするためであり、ただ礼に従い徳を修めることでこれに勝てます。『易伝』に『上が倹しくなく下が節せざれば、孽火その室を焼く』、また『君その臺を高くすれば天火災を為す』とあり、これは人君がいたずらに宮室を飾り立て、百姓の窮乏を顧みないため、天が旱と火をもって応じたものです。火災はみな臺榭・宮室の造営を戒めるものとされてきました。今、民役を罷めて節約に努め、被災箇所を掃き清めて再び造営を行わなければ、瑞祥の萐莆や嘉禾が必ずこの地に生じましょう」。帝はこれに従わず、崇華殿を復旧して九龍殿と改名した(郡国が前後して龍の出現を奏上したのが九件あったため)。これは法度を棄て民を疲弊させ欲を逞しくしたこと、および妾を妻とした罰の応である。
  • 呉の孫亮、建興元年(252年)十二月、武昌の端門が火災。改修後また火災、内殿にも及んだ。案ずるに『春秋』の魯の雉門・両観の火災、董仲舒が定公が季氏を誅すべきことを示すものとした説、漢の武帝の代の遼東高廟の火災の占もこれに類する。この時、諸葛恪が政を執って驕慢放恣、孫峻が禁旅を統べて陰険であり、ついに武昌(孫氏が尊号を始めた地)に災いが現れた。天戒は貴要の首魁を除くべしと示したもので、果たして諸葛恪は軍を喪い民を損ない、孫峻は臨終に政を孫綝に授け、孫綝が孫亮を廃した。あるいは、孫権が武昌の建材を毀して太初宮の増築に用い、諸葛恪にも遷都の意があり、造営が時宜を得なかったために火災となったとも言う。京房『易伝』に「君、道を思わざれば、その妖は火が宮を焼く」とある。
  • 呉の孫亮、太平元年(256年)二月朔、建業で火災(人為の放火)。この秋、孫綝が初めて政を執り、詔と偽って呂拠・滕胤を殺し、翌年また朱異を専断で殺した。これは法律を棄て功臣を逐った罰である。
  • 呉の孫休、永安五年(262年)二月、白虎門の北楼が火災。六年(263年)十月、石頭小城の火が西南百八十丈を焼いた。この時、寵臣の張布が国政を専擅し無礼を極め、韋昭・盛沖はついに退けられて用いられず、また蔡戦らを使者として遣わし州郡を驚擾させたため交趾の反乱を招いた。これがその咎である。
  • 呉の孫晧、建衡二年(270年)三月、大火が万余家を焼き、死者七百人。案ずるに『春秋』の斉の火災を劉向は桓公が内を好み婦人の言を聴き妻妾を数々易えた罰としたが、孫晧も法令を詭暴にし法度を棄て、功臣・名士を誅斥すること甚だ多く、後宮の女は万余人、佞言が横行しその中で寵を受け皇后の璽を佩びる者も多かった。ゆえに大火が起きた。
  • 晋の武帝、太康八年(287年)三月乙丑、西閣(楚王の居所の坊)および臨商観の窓に落雷による火災。
  • 太康十年(289年)四月癸丑、崇賢殿が火災。十月庚辰、含章の鞠室・修成堂前廡・内坊東屋・煇章殿南閣が火災。この時、上書する者があり「漢の王氏五侯の兄弟が相継いで要職に就いたように、今楊氏の三公が並んで大位にあり、天変がしばしば現れています。陛下のために憂えます」と述べ、楊珧はこれによって退官を願い出た。この頃、帝は馮紞の讒言を容れて張華の功を廃し、楊駿の讒言を聴いて衛瓘への寵を離した。これは功臣を逐った罰である。翌年、帝が崩御し、その後楚王(司馬瑋)が密旨と称して事を起こし二公(楊駿・衛瓘ら)を殺害したが、自らも免れなかった。この震災はまた天意であろうか。
  • 晋の恵帝、元康五年(295年)閏月庚寅、武庫が火災。張華は乱があるかと疑い、まず守りを固めてから消火にあたらせたため、歴代の異宝——王莽の首、孔子の履、漢高祖が白蛇を斬った剣、および二百万人分の兵器——が一時に灰燼に帰した。この後、愍懐太子が殺されたが、これは「太子を殺す」罰である。天戒は、険を設け柝を撃つのは国を固めるため、器を蓄えるのは不虞に備えるためであるのに、今や冡嗣(太子)が傾こうとし社稷が滅びようとし、禁兵は旋る術もなく皇旅もまた誰が守るのかと示したものであり、帝・后が悟らず、ついに四海の喪乱を招いたのがその応である。張華・閻纂はいずれも、武庫の火は氐・羌の反乱、太子廃黜に通じると述べたが、まさにそのとおりとなった。
  • 元康八年(298年)十二月、高原陵(文帝の陵)が火災。この時、賈后が凶悪放恣で、賈謐が朝政を専らにし、罪悪が積み重なって誅絶されるべき状況にあった。天戒は、臣妾のうち許すべからざる者は、たとえ至親至貴であっても忍んで誅すべきこと、朕が高原陵を焼くように、と示したものである。帝は暗愚で、また裴頠・劉卞の諫言を用いなかったため、賈后はついに賈謐と共謀して太子を誣告し殺害した。干宝は、高原陵の火災は太子廃黜の応であり、漢の武帝の代の高園便殿の火災と董仲舒の占が同じであると述べた。
  • 晋の恵帝、永康元年(300年)、帝が羊氏を皇后に納れた際、后が入宮しようとすると衣の中に忽然と火が現れ、人々はこれを怪しんだ。太安二年(303年)、后の父羊玄之は成都王の逼迫により憂死した。永興元年(304年)、成都王は后を廃し金墉城に幽閉、その叔父の羊同を殺した。この後、后は復位・廃位を四度繰り返し、また死を賜る詔も出されたが荀藩の上表により全うされた。位にあったとはいえ憂逼と屈辱は古来聞いたことのないほどであり、これが孽火の応である。
  • 晋の恵帝、永興二年(305年)七月甲午、尚書諸曹が火災し崇礼闥および閣道に延焼。尚書は百揆・王化の本であり、法律を棄てた罰である。清河王(司馬覃)は皇嗣となりながら位を全うできず、これもまた太子を殺した罰である。
  • 晋の懐帝、永嘉四年(310年)十一月、襄陽で火災、死者三千余人。この時、王如が自ら大将軍・司雍二州牧と号し、衆四五万で郡県を攻略し自らの邑としたが、都督は力尽きて籠城し、賊はついに襄陽に攻め迫った。これは下が上を凌ぎ陽が節を失った火災である。
  • 晋の元帝、太興中(318~321年)、王敦が武昌を鎮めていたとき武昌で火が起こり、人々が救おうとすると、その場では消えても別の場所で発火し、東西南北数十か所に及んで数日止まなかった。班固のいう「濫りに炎が妄りに起こる」とはこのことで、軍を興しても救えなかった。干宝は、これは臣が君の行いをなす、亢陽が節を失った災いであると述べた。
  • 晋の元帝、永昌二年(323年)正月癸巳、京都で大火。三月、饒安・東光・安陵の三県で火災、七千余家を焼き死者一万五千人。
  • 晋の明帝、太寧元年(323年)正月、京都で火災。この時、王敦が朝廷を威圧し無礼を重ね、内外の臣下がみな怨毒を懐いており、極陰が陽を生じたため火災となった。董仲舒が説く『春秋』陳の火災と同じ事例である。
  • 晋の穆帝、永和五年(349年)六月、落雷で石虎の太武殿および両廂・端門が火災、光焔が天を照らし金石までことごとく焼失、月余りしてようやく鎮火した。この年四月に石虎が死に、その後、後趙は滅亡した。
  • 晋の海西公、太和中(366~371年)、郗愔が会稽内史であった時、六月に大旱の中で火災が起こり数千家を焼き、山陰の倉にまで及んで米数百万斛が炎上、煙が天を蔽い消し止められなかった。
  • 晋の孝武帝、寧康元年(373年)三月、京都で風に乗った大火が起こった。この時、桓温が入朝し帝を凌ぐ志を懐いており、幼主(孝武帝)が即位したばかりで人々は憂懼していた。これは太寧年間の火災と同じ事例である。
  • 晋の孝武帝、太元十年(385年)正月、国子学を設立したが、学生の多くは頑愚で、風に乗じて放火し校舎百余間を焼いた。この後、考課が厳格でなく賞罰が乱れ、育才の名はあっても賢を得る実がなかった。『書』に「人を知るを哲という」とあるが、これは不哲の罰の先兆である。
  • 太元十三年(388年)十二月乙未、延賢堂が火災。翌日丙申、螽斯則百堂および客館・驃騎庫がみな火災。この時、朝廷には弊政が多く国運は日々衰え、これらはみな不哲の罰の徴象であったが、君臣は悟らず、ついに乱亡に至った。
  • 晋の安帝、隆安二年(398年)三月、龍舟二艘が火災。これは水が火を沴すものである。
  • 晋の安帝、元興元年(402年)八月庚子、尚書下舎曹が火災。
  • 元興三年(404年)、盧循が広州を攻略、刺史の呉隠之は城を閉じて固守した。この年十月壬戌の夜、大火が起こったが、この時、百姓が寇を避けて城内に満ちていたため、隠之は賊への内応を懼れて厳兵の維持を優先し消火を後回しにした。このため官舎は焼き尽くされ、死者は万余人に及び、城中は潰乱してことごとく賊に捕らえられた。ほぼ襄陽の火災と同じ占である。
  • 晋の安帝、義熙四年(408年)七月丁酉、尚書殿中吏部曹が火災。
  • 義熙十一年(415年)、京都各地で大々的に火災が続発、呉郡が特にひどく、防火を厳重にしても止まなかった。王弘がこの時呉郡の太守であったが、白日に庁事にいて天上に一つの赤い物が信幡のような形で垂れ下がり、まっすぐ路の南の民家の屋上に集まると火が即座に大発するのを見た。王弘はこれが天災であると悟り、失火の責任者を罪に問わなかった。
  • 宋の文帝、元嘉五年(428年)正月戊子、京邑で大火。
  • 元嘉七年(431年)十二月乙亥、京邑で火災、太社の北牆に延焼。
  • 元嘉二十九年(452年)三月壬午、京邑で大火、風雷甚だ激しかった。
  • 後廃帝、元徽三年(475年)正月己巳、京邑で大火。
  • 元徽三年(475年)三月戊辰、京邑で大火、両岸の数千家を焼いた。

恒燠

  • 庶徴の恒燠について、劉向・班固は冬に氷が張らず霜が草を枯らさないことをこれに応じるものとした。京房『易伝』はまた「夏に暑さで人を殺し、冬に物が実を結ぶ」と述べた。
  • 呉の孫亮、建興元年(252年)九月、桃李の花が咲いた。孫権の代は政務が煩雑で賦役が重く民が疲弊していたが、この時諸葛恪が初めて輔政し、官による責め立てを止め、関所・橋の税を除き、寛厚を重んじた。これは緩やかさの応である。一説に、桃李が寒中に咲くのは草妖であり、あるいは華孽に属するともいう。
  • 魏の少帝(曹髦)、景元三年(262年)十月、桃李の花が咲いた。高貴郷公(曹髦)が弑された後、晋文王(司馬昭)が深く恩徳を樹て、事は寛やかさを重んじた。これがその応である。
  • 晋の穆帝、永和九年(353年)十二月、桃李の花が咲いた。この時、簡文帝(司馬昱)が輔政しており、政事は弛緩・疎略であった。これは緩やかさの応である。
  • 宋の順帝、昇明元年(477年)十月、於潜で桃李が実を結んだ。

草妖

  • 漢の献帝、建安二十五年(220年)正月、魏武帝(曹操)が洛陽におり、建始殿を建てようとして濯龍樹を伐ると血が流れ出し、また梨の根を掘り移すとやはり血が流れ出た。曹操はこれを厭い、この月に病んで崩じた。これは草妖であり赤祥でもある。この年が魏の文帝の黄初元年(220年)である。
  • 呉の孫亮、五鳳元年(254年)六月、交趾の稗草が稲に化した。昔、三苗が滅ぼうとした時に五穀が種を変えたというが、これも草妖である。その後、孫亮は廃された。
  • 蜀の劉禅、景耀五年(262年)、宮中の大樹が理由もなく自然に折れた。譙周はこれを憂えたが語る相手もなく、柱に「衆而大、其之会、具而授、若何復言」と記した。「曹」は衆の意、「魏」は大の意で、衆にして大なるものに天下が会帰すべきこと、まとめて授けたのにどうしてまた立つ者があろうか、という意味であった。蜀は果たして譙周の言のとおり滅んだ。これは草妖である。
  • 呉の孫晧、天璽元年(276年)、呉郡の臨平湖は漢末より涸れて塞がっていたが、この時、一夜のうちに忽然と開通し草も生えなかった。古老の言い伝えでは、この湖が塞がれば天下は乱れ、開けば天下は平らかになるという。呉はほどなく滅び、天下は統一された。
  • 呉の孫晧、天紀三年(279年)八月、建業で黄狗という者の家に鬼目菜が生じ、棗の木に絡みつき丈余に伸び、茎の広さ四尺、厚さ二分であった。また呉平という者の家には蕒菜が生じ、高さ四尺、枇杷のような形で上部の直径一尺八寸、茎の広さ五寸、両側に緑色の葉が生えた。東観の図に照らして鬼目を「芝草」、蕒菜を「平慮」と命名し、黄狗を「侍芝郎」、呉平を「平慮郎」に封じて銀印青綬を賜った。干宝は、翌年晋が呉を滅ぼし、王濬が船を止めたのがまさに平渚であり、姓名の一致がその指し示すところの微妙さを表すと述べた。黄狗とは、呉が土運を以て漢を承けたため初めに黄龍の瑞があったことに由来し、その末年に鬼目の妖が黄狗の家に託して現れたのは、黄色が変わらないのに貴賤が大きく異なるという、天道の精微な応である。
  • 晋の恵帝、元康二年(292年)春、巴西郡界で竹に紫色の花が咲き、麦のような実を結んだ。外皮は青く中は赤白色、味は甘かった。
  • 元康九年(299年)六月庚子、東宮の西廂に桑が生え一日で尺余伸びたが、甲辰の日に枯死した。これは殷の太戊の時と同じ妖であり、太子(愍懐太子)が悟れなかったため廃黜・誅殺に至った。班固は「野木が朝廷に生えて急に成長するのは、小人が大臣の位に居ようとする、国家の危亡を示す象で、朝廷は廃墟となろう」と述べたが、その後孫秀・張林が相継いで権を用い、ついに大乱に至った。
  • 晋の恵帝、永康元年(300年)四月丁巳、皇孫の司馬臧を皇太孫に立てた。五月甲子、東宮の桑がまた西廂に生えた。翌年、趙王(司馬倫)が簒位し司馬臧を鴆殺した。これは愍懐太子の時と同じ妖である。
  • 永康元年(300年)四月、壮武国で桑が柏に化した。この月、張華が殺害された。
  • 晋の懐帝、永嘉三年(309年)冬、項県の桑の樹が材木を裂くような音を立て、民はこれを「桑林の哭」と呼んだ。劉向の説によれば、桑は喪を意味し、哭声はことに不祥であるという。この時、京師は虚弱で胡寇が交々逼り、司馬越は上国を衛る心がなく、四年冬に南に出て、五年春にこの城で薨じた。石勒はその軍を邀撃し、包囲して射撃、王公以下庶人に至るまで死者十余万人、司馬越の棺を暴いてその屍を焼いた。この敗北で中原は請命する術もなく洛陽もほどなく陥落した。桑の哭の応である。
  • 永嘉六年(312年)五月、無錫県で四株の茱萸の樹が絡み合って生え、連理のような形をなした。これより先、郭璞(景純)が延陵で筮って『臨』之『益』の卦を得、「後にまた妖しい樹が生じよう。瑞祥のようで実はそうではなく、辛螫の木である。もしこれが現れれば東南数百里に必ず反逆者が出る」と述べたが、その後徐馥が乱を起こした。これは草妖であり、郭璞は木が曲直の性を失った応とした。
  • 永嘉六年(312年)七月、豫章郡で久しく枯れていた樟の樹が忽然と再び茂った。漢代の昌邑の枯れた社の木が再生したのと同じ占である。懐帝はその祚を全うできず、元帝が支族から興ったのがその応である。
  • 晋の明帝、太寧元年(323年)九月、会稽剡県で木が人面のような形に生えた。その後、王敦が兵を挙げて逆賊となったが、禍は成らずに敗れた。漢の哀帝・霊帝の代にはこの妖に人の相貌がすべて備わっていたためその禍も大きかったが、今回は人面だけであったのでその変も軽かった。
  • 晋の成帝、咸和六年(331年)五月癸亥、曲阿で六年間倒れていた柳の樹が、この月忽然と再び起き上がって生えた。咸和九年(334年)五月甲戌、呉雄の家の枯れた楡の樹が、この日、風雨によって起き上がって生えた。漢の上林苑で断たれた柳が再生したのと同じ象である。初め康帝は呉王に封じられ、後に琅邪王に改封されたが、なお呉郡を食邑としていた。これは帝が正統を越えて国を享受する象であった。曲阿はもと呉の地であり、象は呉の邑と呉雄の家に現れた。これもまた天意である。
  • 晋の哀帝、興寧三年(365年)五月癸卯、廬陵の西昌県の修明という家で枯れていた栗の樹が、この日忽然と起き上がって生えた。この時、孝武帝は四歳で簡文帝はまだ藩にあったが、四海の心を得て即位し正統を継いだ後、国運は孝武帝に至って隆盛した。識者はひそかに、西昌・修明の祥は帝の諱(司馬曜、字は昌明)に応じたものであると論じた。これは漢の宣帝の代とほぼ同じ象である。
  • 晋の海西公、太和元年(366年)、涼州で楊の樹に松が生じた。天戒は、松は葉を変えないのに対し楊は柔脆な木であり、永久の基業が危亡の地に集まろうとしていることを示したものである。その後、張天錫は前秦に降った。
  • 晋の孝武帝、太元十四年(389年)六月、建寧の銅楽県で断折していた枯木が忽然と自ら連なり立ち上がった。京房『易伝』に「正を棄て淫を作せば、その妖は木が断たれてから自ら属く。妃后に専らにする者があれば木は仆れてから立つ」とある。この時、治道は正を大きく外れており、その後張夫人が専寵を得て、帝の崩御後、民はその咎を張氏に帰した。
  • 晋の安帝、元興三年(404年)、荊・江二州の境界で竹が麦のような実を結んだ。
  • 晋の安帝、義熙二年(406年)九月、揚州営の揚武将軍陳蓋の家に苦蕒菜が生え、茎の高さ四尺六寸、広さ三尺二寸であった。これはほぼ呉末の鬼目・蕒菜の事と同じ象である。
  • 義熙中(405~418年)、宮城の上の御道の左右にみな蒺藜が生えた。草妖である。蒺藜は棘があり踏んで歩けないもので、これが牆や馳道に生えたのは、天戒が、人君が拱黙して政を聴かず、帝位にありながら空宮のようであり、御道があっても馳せ巡ったことがないため、みな蒺藜が生じたのだと示したものであり、空しく廃れる象である。
  • 義熙八年(412年)、太社の壇の側らに薫の樹が生えた。薫は文の色として黒を尚び、これは宋(劉裕の受禅前)の水徳が興ろうとする符である。

羽蟲之孽

  • 魏の文帝、黄初四年(223年)五月、鵜鶘が霊芝池に集まった。劉向の説によれば、これは羽蟲の孽であり青祥でもある。文帝は詔して「これは詩人のいう『汙澤』というものである。曹風は共公が君子を遠ざけ小人を近づけたことを刺る詩であるが、今もし賢智の士が下位にあるならばこの鳥は何のために来るであろうか」と述べ、天下の俊徳・茂才・独行の君子を広く挙用して曹人の刺に応えた。楊彪・管寧らがこの時推挙された。これは妖を見て懼れを知る者というべきである。しかし帝は結局、剛直な士を優容できず、多く偏私に溺れた。京房『易伝』に「有徳の者を退ければ、その妖は水鳥が国の井に集まる」とある。
  • 黄初末年(226年頃)、宮中で燕が鷹の口・爪を備えた赤色の異形を生んだ。これは商の紂王の代・宋国の隕石の事と同じ象である。
  • 景初元年(237年)、また衛国の沭桃里の李蓋という者の家で燕が巨大な雛を生み、その形は鷹に似て嘴は燕に似ていた。劉向の説によればこれは羽蟲の孽であり赤眚でもある。高堂隆は「これは魏室の大異であり、蕭牆の内で鷹揚の臣を防ぐべきです」と述べたが、その後晋の宣王(司馬懿)が興り、魏室は司馬氏の手に帰した。
  • 漢の献帝、建安二十三年(218年)、禿鶖が鄴宮の文昌殿の後ろの池に集まり、翌年、魏武王(曹操)が薨じた。
  • 魏の文帝、黄初三年(222年)、また禿鶖が雒陽の芳林園の池に集まり、七年(226年)にも集まり、この夏に文帝が崩じた。景初末年(239年)にもまた芳林園の池に集まり、前代よりこの鳥が再び至るごとに大喪があったため、明帝はこれを厭ったが、翌年崩じた。
  • 蜀の劉禅、建興九年(231年)十月、江陽から江州にかけて、烏が江南から江北へ渡ろうとして渡りきれず、水に落ちて死んだものが千余に及んだ。この時、諸葛亮は連年軍を動かし中原併呑を志したが、渭南で死しその図る所を遂げられず、また諸将も分かれ争って多く兵を喪った。烏が北へ飛んで渡りきれず水に落ちて死んだのはみなその象徴であった。諸葛亮がついに渭水を越えられなかったのも、またその応であろう。これは漢の楚国の烏が争って泗水に落ちた事とほぼ同類である。
  • 魏の明帝、青龍三年(235年)、戴鵀(やつがしら)が鉅鹿の張臶の家に巣を作った。張臶は博学で高節をもち、袁紹・高幹の招きに応じず、魏の太祖(曹操)の辟召にも応じず、悠々と隠逸し、門徒数百人がいた。太守の王粛は深く敬っていた。この時、張臶は齢百余歳で、門人に「戴鵀は陽の鳥であるのに陰の場所に巣を作った。これは凶祥である」と語り、琴を取って歌い詩一首を詠んだ後、十日ほどで没した。占法によればこれは羽蟲の孽である。
  • 魏の明帝、景初元年(237年)、陵霄閣が建設され始めたとき、鵲がその上に巣を作った。鵲の体は黒白が入り混じっていた。これは羽蟲の孽であり白黒祥でもある。帝がこれを高堂隆に問うと、対えて「『詩』に『惟れ鵲に巣あり、惟れ鳩これに居る』とあります。今、宮室を興している最中に鵲が巣を作ったのは、この宮室が未完成のうちに、ご自身が居られなくなる象です。天意は、室が未完成のうちに他姓がこれを制御することになろう、深く考慮すべきである、と示したものです」と答えた。帝はこれを聞いて顔色を動かした。
  • 呉の孫権、赤烏十二年(249年)四月、二羽の鳥が鵲をくわえて東館に落とした。孫権は丞相の朱拠に命じてその鵲を焼いて祭らせた。劉歆の説によればこれは羽蟲の孽であり黒祥でもあり、視ることが明らかでなく聴くことが聡くない罰である。この時、孫権は驕慢の意が満ち徳は衰えて讒言を信じ殺戮を好み、二子(太子の和と魯王の霸)はやがて危うくなり将相も共に危うくなろうとしていたが、妖を見ても悟らず、さらに焼くという昧道の甚だしい行いに及んだ。翌年、太子孫和は廃され魯王孫霸は死を賜り、朱拠は左遷され、陸議(陸遜)は憂いのうちに卒した。これがその応である。東館は典教を司る府であり、鵲が東館に落ちたのもまた天意であろう。
  • 呉の孫権、太元二年(252年)正月、かつての太子孫和を南陽王に封じ長沙へ遣わした際、その船の帆檣に鵲が巣を作った。孫和の旧宮僚はこれを聞いてみな憂え、檣の末が傾き危うい、久しく安泰でない象だと考えたが、その後果たして孫和は非業の死を遂げた。
  • 呉の孫亮、建興二年(253年)十一月、大鳥五羽が春申に現れ、呉人はこれを鳳凰とし、翌年改元して五鳳とした。漢の桓帝の代にも五色の大鳥が現れたが、司馬彪は「政治が衰欠していれば鳳を招くことはできず、これは羽蟲の孽に過ぎない」と述べた。孫亮には徳政がなく、孫峻の驕暴もまさに甚だしく、これは桓帝の代と同じ事例である。『瑞応図』によれば、鳳に似て孽となる大鳥は一種にとどまらず、いずれもこれに該当する疑いがある。
  • 呉の孫晧、建衡三年(271年)、西苑で鳳凰が集まったとの言があり、これによって改元した。孫亮の事例と意義は同じである。
  • 晋の武帝、泰始四年(268年)八月、翟雉が閶闔門に飛び上がった。趙王司馬倫が簒位した後、洛陽で名の分からない異鳥を得た。司馬倫は人にこれを持たせ城邑を巡らせて人々に尋ねさせたが、幾日も分からず、ある日、宮の西にいた小児がこれを見て「服留鳥」と自ら言った。鳥を持つ者はすぐに司馬倫に報告した。司馬倫はさらにその小児を求めさせ、再び見つけると宮中に入れようとし、ひそかに鳥を籠に入れ小児を戸内に閉じ込めたが、翌日見るとどちらも消えていた。これは羽蟲の孽であり、妖の甚だしいものである。
  • 趙王司馬倫が簒位した時、鶉が太極殿に入り、雉が東堂に集まった。太極殿と東堂はいずれも朝享・聴政の場であり、鶉と雉が同日に集まったのは、天意がこの位に居るべきでないと示したものである。『詩』に「鵲の疆疆たる、鶉の奔奔たる、人の良からざる、我以て君と為す」とあるが、まさにこれを言うのであろう。昔、殷の高宗は雉の雊く声に感じて懼れ徳を修めたが、司馬倫はこの二つの異象を見てなお戒めを知らず、ついに滅亡に至った。
  • 晋の懐帝、永嘉元年(307年)二月、洛陽の東北の歩広里で地が陥没し、鵝が出現した。蒼色のものは天に翔け上がり、白色のものはその場に留まった。これは羽蟲の孽であり黒白祥でもある。董養は「歩広は周の狄泉、会盟の地である。白は金の色、蒼は胡を象る。その意味を語り尽くせようか」と述べた。その後、劉淵・石勒が相継いで華夏を専らにし、懐帝・愍帝の二帝は非業の最期を遂げた。
  • 晋の懐帝の代、周玘の家で鵝が籠の中にいながら頭だけが籠の外で断たれていた。周玘の死後、その家は誅滅された。
  • 晋の明帝、太寧三年(325年)八月庚戌、蒼黒色の鳥二羽が現れ、翼の広さは一丈四尺であった。一羽は司徒府に集まり射殺され、もう一羽は市の北の民家に集まり捕らえられた。これは羽蟲の孽であり黒祥でもある。閏月戊子、明帝が崩じ、その後、蘇峻・祖約の乱があった。
  • 晋の成帝、咸和二年(327年)正月、鷗鳥五羽が殿庭に集まった。これは白祥である。この時、庾亮は衆議に逆らって蘇峻を召そうとしており、諫言を聞かない咎があったため白祥が先に現れた。三年二月、蘇峻は果たして乱を起こし、宮室は焼き尽くされて荒地と化した。これがその応である。
  • 晋の成帝、咸康八年(342年)七月、白鷺が殿屋に集まった。この時、康帝が即位したばかりであったが、これは長く続かない祥であった。その後二年を経て帝は崩じた。劉向は「野鳥が入り処せば、宮室は空になろうとする」と述べた。張駿が涼州にあったとき、正朝で雀を放ったところ諸鳥は手から出るとすぐに死に、左右の者が放った鳥もみな飛び去った。
  • 晋の孝武帝、太元十六年(391年)正月、鵲が太極殿東頭の鴟尾に巣を作り、また国子学の学堂の西頭にも巣を作った。十八年(393年)東宮が完成し、十九年(394年)正月、鵲がまたその西門に巣を作った。これは魏の景初年間の事とほぼ同じ占であり、学堂は風教の集まる所、西門は金行の祥である。
  • 晋の安帝、義熙三年(407年)、龍驤将軍朱猗が寿陽を守っていたとき、婢が飯を炊いていると忽然と群烏が竈に集まって競って啄み、婢が追い払っても去らなかった。猟犬が烏鵲を咬み殺すと、残りの烏鵲は共にその犬を啄んで犬はすぐに死に、さらに肉を啄まれてついに骨だけになった。五年六月、朱猗が死んだ。
  • 宋の武帝、永初三年(422年)、臨軒して徐羨之を司徒に拝し百官が陪位した際、一羽の野鸛が太極殿の鴟尾に集まり鳴き叫んだ。
  • 少帝、景平二年(424年)春、鸛が太廟西の鴟尾に巣を作り、追い払っても再び戻った。文帝、元嘉二年(425年)春、江鷗数百羽が太極殿前の小階内に集まり、翌年、徐羨之らが誅殺された。

羊禍

  • 晋の成帝、咸和二年(327年)五月、司徒王導の廐の羊が後足のない羔を生んだ。これは羊禍である。京房『易伝』に「足が少ないのは、下がその任に堪えないことを示す」とある。翌年、蘇峻が京都に攻め入り、王導は成帝とともに石頭城に幽閉されたが辛うじて免れた。これがその応である。
  • 宋の孝武帝、大明七年(463年)、永平郡が三角の羊を献上した。これは羊禍である。

赤𤯝赤祥

  • 公孫淵の時(238年頃)、襄平の北市に肉塊が生じ、長さはそれぞれ数尺、頭・目・口・喙があって手足がなく、動き揺れた。これは赤眚である。占って「形あって成らず、体あって声なきは、その国が滅亡する」とされ、公孫淵はほどなく魏に誅された。
  • 呉の戍将鄧嘉が豚を殺して神を祀り、事が終わって埋めたところ、忽然と一つの人の頭が現れて肉を食べに来た。鄧嘉が弓を引いてこれを射ると、咋咋という声を立てながら屋を三日巡り続けた。これは赤祥に近い。後に人が鄧嘉が北方への叛乱を謀っていると告げ、一族すべて誅された。京房『易妖』に「山が邑に葆江を現せば、その邑に兵あり、人頭のような赤色の形をなす」とある。
  • 呉の諸葛恪が誅されようとする前、盥洗の水に血の臭いがし、侍者が衣を授けるとその衣にも臭いがあった。これは赤祥に近い。
  • 晋の武帝、太康七年(286年)十一月、河陰に赤い雪が二頃にわたって降った。これは赤祥である。この後四年を経て武帝は崩じ、王室は乱れた。
  • 晋の恵帝、元康五年(295年)三月、呂県で東西百余歩にわたり血が流れた。これは赤祥である。元康末年、天下は極度の凶乱に陥ったが、これは屍が流れ血が流れる応であった。干宝は、この後八年して封雲が徐州で乱を起こし数万人を殺傷したのがその応であるとした。
  • 晋の恵帝、永康元年(300年)三月、尉氏県に血の雨が降った。政刑が緩めば恒燠・赤祥の異が現れる。この年正月、愍懐太子が許宮に幽閉されたが、天戒はみだりに寛容にして奸人を許すべきでない、太子を冤死させることになろうと示したものであった。恵帝は愚昧で悟らず、この月に愍懐太子はついに死に、王室に釁端が生じ禍は天下に流れた。淖歯が斉の閔王を殺した日、天が血の雨を降らせ衣を汚したのは、天がこれをもって告げたのだといわれるが、まさにこのことである。京房『易伝』に「獄を解かずに他に罪を追わせるのを『追非』といい、その咎は天が血の雨を降らせる。民に怨心があれば三年を出ずして宗族が絶える」、また「佞人が禄を得て功臣が戮されれば、天は血の雨を降らせる」とある。
  • 晋の愍帝、建興四年(316年)十二月丙寅、丞相府が督運令史の淳于伯を斬ったところ、血が柱を二丈三尺も逆流した。これは赤祥である。この時、後将軍褚裒が広陵を鎮め、丞相(司馬睿)は北伐を声言していた。淳于伯は督運の稽留および使役・贓罪により征軍法によって誅されたが、その子淳于訢は、父の督運に稽留はなく、受賄による使役の罪も死には至らないものであり、また兵家の勢は先に声を挙げ後に実を挙げるもので、実際は屯戍であって出征ではなく、建興四年以来の運漕の稽停もすべて軍興法によって論罪されてこなかったのに僚佐は誰もこれを取り上げず、今この異変があって司直が百官を弾劾したのに元帝はなお追及しなかった、と訴えた。そのため三年にわたって干魃が続き、干宝はこれを冤気の応とした。郭璞(景純)は「血は水の類であり、坎に同属する。坎は法家であり、水は平らかに潤し下るべきもので逆流すべきでない。これは政に咎失があった徴である」と述べた。